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学校を出て、帰途についたのもつかの間、すぐに脇道に入った。赤崎真純の家に行くためだった。地図は持っていないが、三日前に足を運んだばかりなので、道順は記憶している。
迷うことなく赤崎真純の家に着くと、すぐにインターホンを押した。
はい、とインターホン越しに応対に出たのは真純の母親だった。
「赤崎さんのクラスメートのものなんですけど、お見舞いに」
あら宇垣くん、とスピーカから驚いた声が智秀の言葉を遮った。
ちょっと待っててね。
それで通話が終わると、間を置かずして玄関の扉が開いた。
真純の母親が姿を見せたので、「こんにちは」と挨拶した。
彼女は目尻に皺を寄せて笑顔を作る。
「あらあらあら、またお見舞いに?」
「はい」
「ありがとうね。宇垣くんに来てもらったら、真純も喜ぶわ。さ、中に入って」
「はい。お邪魔します」
家の中に通され、運動靴を脱いだ。
ふと上がり框を跨いだところで振り返って、玄関の鍵を閉める母親に尋ねる。
「あの、どうして僕の名前を知ってるんですか。僕、先週自己紹介した覚えは……」
「ああ。そのこと」
施錠して靴を脱いだ彼女は、うっふっふと声に出して笑った。なんだかご近所によくいるような噂大好きなオバサンみたいな笑いだった。
「真純がね、教えてくれたのよ、宇垣くんのこと。すっごく頭がいんだってね。羨ましいわー、ウチの子にも見習って欲しいもんだわー。ね、何を食べたら学年一位になれるの?」
「え――」
本気で尋ねてるのか、それとも冗談なのか。わからないので、とりあえず真面目に答えておく。
「……魚、ですかね」
「魚!」
彼女は大声で復唱し、得心したようにウンウン頷く。
「なるほどねー、やっぱり基本はDHAね! デオキシリボ核酸なのね!」
そうだったっけ、という疑問は声に出さない。これ以上の深みにはまるととんでもないことになる気がした。
それにしても、ハイテンションな母親だ。宇垣智秀の母親とは百八十度、性格が違う。若く見える原因はやはりこういうところにあるのだろうか。
母と娘って、似ないのかな?
クラスで見ていた赤崎真純は、少なくともここまで無駄なほどの活発さは持っていなかった。彼女はいつも適度に明るく、適度に落ち着いていた。
そんな子がいじめの対象になるなんて、不思議だった。
この母親は娘がいじめられていることなんて知らない。いま学校を休んでいるのは仮病と理解しているが、その仮病の原因までは知らないはずだ。
もし知ったらどうなるだろう。
学校に抗議するか。それとも、無理やり学校に行かせるか。
「よぉし、明日から夕食はずっとお魚天国よ!」
意気揚々に声をあげた真純の母親。
と、階段を誰かが慌てて下りてきた。
「お母さん!」
赤崎真純だった。先週の金曜日に会ったときとは違う、黄色のパジャマを着ている。
真純の顔は赤くなっていた。
「宇垣くんにヘンなこと話さないで!」
「あーら」
母親は目を細めて、唇を尖らせ言う。
「別にヘンなことなんて言ってないわよ。ただ、真純の成績がよくないからどうすればいいのか相談してたのよ。ほら、真純、このあいだの中間テストがどべから数えて」
「それ言っちゃダメー!」
母親の口を慌ててふさぐ赤崎真純。
ふがふがと何かを話そうとする母親の口をふさいだまま、真純は智秀を見た。
「宇垣くん、先に二階に行ってて」
「え……あ、わかったよ」
母親に一礼してから、階段を上り、二階に向かう。
階下からは真純とその母親の話し声が大ボリュームで聞こえてくる。
「どーしてお母さんが出るの! 友達が来たら、わたしに教えるものでしょ!」
「寝てると思ってほっといたのよ。親心ってやつよ、親心」
「そんな親心いらないよ!」
赤崎親子の騒がしいやりとりを聞きながら、真純の部屋の前に立った。
「もう、とにかくこういうのはやめてよ!」
真純はその言葉を最後にして、階段をのぼってきた。
「部屋、入って」
赤い顔の彼女に、そう促される。
「それじゃ……お邪魔します」
「どうぞ」
赤崎真純の自室に入る。金曜日に訪れたときと何も変わっていない。
西日の橙に染まる、暗い部屋。けれど、部屋に入るときに真純が電気を点けたのですぐに室内は蛍光灯の光で明るくなった。
「ごめんね、お母さん、おかしなこと言わなかった?」
ベッドに腰掛けると開口一番に彼女はそう言った。
「いや、なにも。ただ、明日から魚料理を出そうって言ってたぐらいで」
答えながら、前回と同じように椅子を引っ張ってきて、彼女の前に座る。不思議と、こうして対面に座っても、この間のような気まずさは感じなかった。
「それだけ?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん。ほんと」
真純は安心したように息を吐き出した。
何を言われたと思っていたのだろう。
「楽しいお母さんだね」
素直にそう口にすると、真純は難しい顔をした。
「楽しい……けど、ちょっと大変。わたしよりも元気なんだもん。もうすこし落ち着いて欲しいよ」
「そうなんだ」
笑って、納得する。赤崎親子の雰囲気が対照的なのは、こういうわけだったのだ。これなら赤崎真純の大人しい性格も頷ける。
「それで……宇垣くんは、今日はどうして?」
「ああ。そうそう。赤崎さんが休んでる間に配られたプリントを渡しに来たんだ」
教卓から抜き取ってきたプリントを、鞄から取り出して彼女に差し出す。
真純は目を丸くしながら「ありがとう」と受け取った。
「大事な連絡とか書いてあるプリントもあるし、もし〝風邪〟が長引くといけないからね」
「……そう、だね。ありがと」
ぎこちない笑顔を浮かべながら、真純はプリントを一枚ずつ確認していた。
そんな彼女を見ながら、口にする。
「それでね、赤崎さん。僕、明日から配られるプリントを毎日赤崎さんに持ってきてあげることにしたんだ」
「え?」
真純はプリントに落としていた視線を持ち上げた。
目が合う。
「それは――先生が、そうしろって言ったの?」
「いや。違うよ。これは、僕が自分で決めたことだ」
不可解そうに彼女の細い眉が寄った。
「どうして、そんなことするの?」
「……僕がそうしたいからだ」
真純は顔を伏せてしまった。
「迷惑かな?」
「ううん……迷惑なんかじゃ、ないよ。けど」
彼女の顔は前髪に隠れて見えない。
「いいよ、そんなこと、しなくても」
ぽつりと彼女は呟いた。
笑っているようで、泣いているような声。
「いいのに……わたしのことなんて、放っておいてくれたら。今までみたいに、わたしのこと相手にしないほうが、宇垣くんのためだよ。みんな、わたしのことなんて、嫌いなんだから。宇垣くんまで、嫌われちゃうよ」
クシャッと彼女の膝元でプリントが音を立てた。新品同様のプリントに皺が出来ていた。
「赤崎さん」
彼女の両肩に手をかける。
「赤崎さん。顔、上げて」
出来る限りの優しい声で言ってあげると、彼女はゆっくりと顔を上げて、その表情を見せてくれた。両の眼に涙が溜まっていた。嵐の湖のように、幾重にも波打っている。
――守ってあげなければいけない。
そう思った。
赤崎真純の涙も痛みも、全て取り払ってあげたい。自分のその気持ちを、正直に受け止めることができた。
「僕は赤崎さんのこと好きだよ。嫌いだなんて、ちっとも思ってない」
波打つ瞳が、見据えてくる。信じられない、と言うように。
きっと真純は疑うだろう。そんな言葉は偽りだ、と。
言葉だけでは、この気持ちは伝わらない。
だから、力一杯に彼女の手を握った。小さな、女の子らしい柔らかい手だった。
「約束する。僕は、何があっても赤崎さんの味方だ」
「ミカタ……?」聞き慣れない言葉を尋ねるような声。
「うん。味方。もう赤崎さんをひとりぼっちになんてさせない。これから僕が近くにいる。だから、もう大丈夫」
もう大丈夫。
もう泣かなくても大丈夫。
もう寂しさに震えなくても大丈夫。
いったいどれだけの気持ちが伝わったのか。わからない。
「違う、の」
ポロッと真純の左目から涙がとうとうこぼれた。すると右の目からも涙があふれ出てきた。
「違うの、悲しくなんてないの」
違う違うと口にしながら、彼女は涙を流し始めていた。これは悲しみによる涙ではない。そう言いたいのだ、彼女は。
「うん、大丈夫、わかってるよ」
金曜日と同じ。彼女は泣いてしまった。
けれども、その涙の意味が全くの別物であることぐらい、わかっていた。
「悲しくなんて、ないのに……」
しゃくりあげる彼女のために、智秀はポケットからハンドタオルを取り出していた。




