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教室に入ると、そこにいたクラスメートたちは一瞬わたしを見て、すぐに視線をそらした。誰もわたしのことなんて気にしていない、というふうに。
わたしに「おはよう」と言ってくれる人はいない。ほんの三週間前までは目が合えばあいさつしていたクラスメートも、今ではわたしのほうを見ようとせず、各々の友達と話していた。
一言も発しないまま、自分の席に着く。
鞄を机の横にかけたところで、女子が六人、わたしの席にやってきた。
「おはよう、赤崎さん」
あいさつされる。
けど、わたしは机の上を見たまま、一言も返さない。この人達はわたしと会話するのが目的の人達じゃないと、わかっているからだ。
「あれ~、返事がないよ~?」
一人がわざとらしく戸惑った声を出した。すると周りにいた他の女子たちも「ホントだァ」と口をそろえて言う。わたしは膝の上に握り拳を置いたまま体を強ばらせて、頭の上を飛び交う、心のこもっていない言葉を聞いていた。
嵐が過ぎ去るのを待つような気分だった。何も起きませんようにという祈りにも似た思い。
けど、そんな祈りが実らないことを、わたしはもうとっくに知っていた。
頭の後ろ側が突然ものすごい痛みを発して、わたしは反射的に顔を上げてしまう。後ろ髪を力いっぱい引っ張られていた。
痛い……!
苦しくて、口から引きつった呻きがもれる。
目の前には、ニコニコと笑っている女子たちの顔があった。
「なに無視してるよ」
そのうちの一人が、わたしに楽しそうに言った。
「あいさつされたら返事するって、教えられたでしょ。赤崎さんはダメな子ね」
全部抜けてしまうんじゃないかというほど、乱暴に後ろの髪がいろんな方向にひっぱられる。頭皮が鋭い痛みを伝えている。わたしは、その痛みに必死に耐えるしかない。
痛みを和らげるために、椅子ごと倒れる寸前まで、体が後ろに傾いている。
「そんなダメな赤崎さんには、おしおきしないとね」
別の女子がそう口にしたすぐ後、お腹が破裂したみたいな激痛が体中に走った。その女子の握り拳が、わたしのへそあたりにめりこんだせいだった。
わたしはとうとう椅子ごと後ろに倒れてしまう。教室に、椅子と床の衝突する音がやけに大きく響いた。
頭を打たなかったのは幸い。
けど、背中をしたたかに打ってしまって、呼吸が苦しくなる。同時に、強打されたお腹から何かがせりあがってくるのを喉元に感じた。
朝食をぜんぶ吐き出しそうになるのを、体を丸めて必死でこらえていると、また背中に衝撃が走った。
「わたしもおしおき~」
倒れたわたしを取り囲んで、女子たちが蹴ってきた。狙ったように、制服の下ばかりを思い切り蹴ってくる。
痛みは絶え間なくわたしを襲い続ける。
笑い声が聞こえる。
床の上で縮こまるしかないわたしを、蹴って遊んでいる女子たちの笑い声だ。聞いているだけでも、吐き出してしまいそうになる。
体の芯である背骨が軋んでいるようだ。
ひょっとしたらこのまま死んじゃうかもしれない。津波のように押し寄せる痛みの中で思った。けどそんなこと、彼女たちはお構いなしだ。
彼女たちにとって、わたしなんてゴミなのだから。そして、これは彼女たちの〝遊び〟だ。ゴミをもっと汚くする遊び。少し前から始まった遊びだった。
もう「やめて」と言う気力なんて無い。早く、この地獄のような時間が過ぎていって欲しいと願うことしかできない。
誰も止めようとはしない。わたしも、助けて欲しいなんて思わない。そんなこと、願っても叶わないと知っている。
「ほら、ゴメンナサイは?」腰の右側に上履きのつま先がめりこんで、体の内側が鈍い音を立てた。
うっすらと目を開けていると、彼女たちの脚と脚の隙間から、いろんな人達が遠くに見えた。友達と話している人、一人で黒板の方に向いている人、寝ている人。
みんな、わたしになんて無関心。
誰もわたしのことなんて、見ていな――
あ……。
視界の端で、一人の男子が、わたしのほうを見ていた。
気のせいかと思ったけど、違う。視線がしっかりと交差する。
その男子は椅子に座ったまま、肩越しにわたしをじっと見つめていた。すごく苦しそうな顔をして。見ていたくないようなものを見るような目をして。それでも、彼はわたしから視線を外そうとはしない。
どういう気持ちで、わたしを見てるの?
その瞳に、どんな思いが宿っているの?
知りたかった。彼がわたしを見続ける理由を。
声をかけることはできない。彼とわたしとでは、立っている場所が違いすぎる。だから、わたしはせめて彼とずっと目を合わせていたかった。
けど、とうとう痛みに耐えられなくなったわたしは、瞼をつむってしまった。
残ったのは、暗い世界の中、痛みに殴打される自分だけ。
それから、どれくらいが経ったのか。実際には五分くらいなんだろう。けど、わたしにとっては一時間にも思えるほど、長い時間だった。
ホームルームの予鈴が鳴ったところで、ようやく彼女たちはわたしを蹴るのをやめた。
「じゃ、そろそろ戻ろっか」
遊び終えた子供のように晴れ晴れとした声が、遠ざかっていく。
残されたわたしは、しばらく床の上にうずくまったまま、動けずにいた。背中が、痛かった。息をすることさえようやくだった。
床に頬をつけたまま、わたしは何度も息を吸ったり吐いたりしていた。
髪が床のほこりまみれになっているだろう。
制服の背中部分には彼女たちの足跡がついているだろう。
教室の前のほうのドアが開く音がした。見ると、担任の先生が教室に入ってきたところだった。
わたしは床に倒れたまま。
まだ動けない。痛みが全身を支配している。
けど、教壇にのぼった先生は、わたしを見ると起伏のない声音で
「赤崎、早く席につけ」
と言った。
これもいつものことだ。先生は、わたしが何をされているのか知っているのに、知らないフリをしている。
わたしは、痛む体を必死に立たせて、席に戻った。