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智秀は腕時計を確認した。時刻は二時十五分を回ったところ。

昨日の別れ際に青樹叶が言ったことを思い出す。土曜と日曜に会いに来るなら、午後が一番いいと彼女は言っていた。

時間は問題ない。

けれど、目の前にある教会に入っていくことがなかなかできない。


昨日の今日で来ていいのかな。

ひょっとしたらあれはただの社交辞令で、本当に来るとは思ってなかったんじゃないかな。

迷惑がられたらどうしよう……。


教会の出入り口の前に立って、もう五分が経過していた。ふんぎりのつかないまま、ずっと聖堂から天高く伸びる二本の尖塔を見上げている。

そうこうしていると、聖堂の扉から人が出てきた。白人の男女二人組だ。


へぇ、聖堂って自由に入れるんだ。


外国人二人は英語で何かを話しながら、智秀の横を通り過ぎていった。

晴れた空を見上げ、息をつく。

いつまでも突っ立っているわけにはいかない。青樹叶に会うために、ここへ来たのだ。迷惑がられた時のことなんて、考えないようにする。

頭の中をプラス思考に切り替えて、「行こう」と心の中で呟く。

そうして教会の敷地に入った。

すぐ右手に見える彼女の家に向かう。

気温はそう高いわけでもないのに、背中が汗ばんでいた。

家の玄関に回り込むと、躊躇わないために一気にインターホンに手を伸ばした。扉の向こうで呼び出し音が響いたのがわかった。

しばらく待っていると、玄関の鍵が開く音。

次いで、扉が開けられた。

「あ、智秀くん」

現れたのは青樹叶だった。その姿を見た瞬間、智秀の心臓がひときわ大きく脈打った。

彼女は昨日の学生服ではなく、当然ながら私服だった。木の幹のような焦げ茶色の上に白い小さな花がたくさんプリントされたブラウス。下は涼やかな青のデニムパンツ。動きやすさ重視らしい。かわいいというよりも、大人びた服装だ。


こういう服を、いつも着てるんだ。

なんだか似合うなぁ。

やっぱり高校生だからかな……って、違う!


制服姿とは違う彼女に見とれていたが、すぐに本題を思い出す。

「こんにちは。あの、今よかったですか?」

「うん。学校の宿題やってたところだから。そういう智秀くんは、どうしたの」

柔らかな笑顔が向けられる。

「遊びに来てくれたの?」

「いえ。遊びに来たわけじゃないんです。その、なんというか……相談したいことがありまして」

「相談?」

彼女は首をかしげた。が、すぐに「いいよ」と快く答えてくれた。

「わたしでよければ」

「叶さんじゃないと、できない相談なんです」

真剣に智秀が言った。

それで、彼女もこれが生半可な相談事ではないと理解してくれたようだ。笑顔のままで、瞳を細めて真面目な顔になった。

「じゃあ、家の中で話しましょう」

「……はい、お願いします」

昨日に続いて、今日も青樹叶の家に通される。

「リビングでいい?」

「はい。話ができるなら、どこでも」

リビングに入ると、彼女は智秀にテーブル席を勧めた。

アンティークなテーブルに、同じ調の椅子四脚が付随している。智秀はそのうちの一つに腰を下ろした。

「それで……」

対面の席に座ると、叶は口を開いた。

「相談って、なぁに? 学校のこと?」

「ええ、そうです。学校のことです」

智秀は、どう彼女に説明しようか考えてから、言葉を続ける。

「僕のクラスに……いじめられてる女の子がいるんです」

うん、と彼女は相づちを入れる。

「その子をいじめてるのはクラスメートの女子のグループなんです。他の人は見ないフリしてて、止めようとしないんです」

「智秀くんは?」

「僕も……みんなと同じです。何もしてません。周りの人が何もしないから、自分もやる必要は無いだろって思っちゃって」

彼女は咎めることもせず、静かに見つめている。

神様に向かって懺悔をしているような気分だった。

「でも、そんなの、言い訳なんです。ホントは、いじめを止めないとダメだって感じてるんです。けど……どうしても、止めることができなくて。やめろって、言えなかったんです」

全てを言い終えて、しばらく二人の間に言葉は無かった。

「そう」

彼女は一言呟いた。

「智秀くんは、その女の子がいじめられてるのが嫌なのよね」

「はい」

「でも、止められないのよね」

「……はい」

またしばらくの静けさがあって、その終わりは叶の言葉だった。

「周りの人から浮いてしまうのが恐いのね、きっと」

「……そうかも、しれません」

答えながら、初めてその考えに至った。

自分がいじめを止めない理由。それは〝周りがなにもしてないから〟だ。けど、本当はもっと核心的な理由があったのだ。周りから飛び抜けてしまうのが恐い、という矮小な理由だ。

なぜ今までそれに気づかなかったのか。気づこうとしなかったのか。青樹叶は心の深層を見抜いているようだ。

「もしいじめを止めようとしたら僕までいじめの対象になるんじゃないかって、考えていたのかもしれません」

なんて人間だろう、と自分を恥ずかしく思った。いじめを止めなければいけないと感じていながら、結局のところ自分のかわいさに負けたのだ。

「そうね。ひょっとしたら、智秀くんまで教室で孤立することになるかもしれないわね」

落ち着いた声で、叶は言う。

「けど、智秀くんが周りの人から遠ざけられたとしても、そのいじめられてる女の子は少なくとも一人きりじゃなくなるわ。一人でも傍にいてくれたら、その子は幸せじゃないかしら」

「あ……」

叶の言うとおりだった。

あの赤崎真純は、本当に学校でひとりぼっちだった。もし自分が近くにいてあげていたら、あるいは不登校にならずに済んだのかもしれない。

つくづく、自分の身のことしか考えられないのだと実感した。

「大丈夫よ」

叶はほほ笑んだ。

「智秀くんがもし傷ついたとしても、その女の子は智秀くんの傷ついた分の何倍も癒されるわ。そしてその女の子が、きっと智秀くんを癒してくれる。だから、恐がらないで、自分の心に従えばきっと大丈夫よ」

「……叶さん」

自分の体の内側に泉が満ちてくるのを感じた。勇気や自信の泉だ。今まで見聞きしたどんな本や人の言葉よりも、彼女の一言ひとことには力があった。「大丈夫」と言ってもらえるだけで、本当にそう思えた。彼女の発する言葉には説得力があった。

しかし。

いざ自分がその場に立ったときのことを考えると、気持ちが萎えそうになってしまう。

「ありがとうございます。そう言ってもらえると、すごく勇気づけられます。けど……やっぱり、不安です」

「不安?」

「今は叶さんが目の前にいてくれますけど、学校では、僕はひとりになります。そうなったら、今の気持ちを保てるか、自信がありません」

息を吐き出した。

「叶さんがいつも僕の近くにいてくれたら、心強いんですけど。そんなこと、できませんよね」

彼女の身体が小さくなって、毎日制服の胸ポケットに収まっていてくれる。そんなマンガみたいなことはあり得ない。

「智秀くん」

「はい」

「わたしがいつも一緒にいてあげれれば、いいのよね」

「え……はい」

何を言い出すつもりだろう。そう思って、対面の叶を見ていると、彼女はパンツのポケットから何かを取り出した。

「わたしが智秀くんといつも一緒にいるのは無理だけど……ハイ」

取り出したものを手の平に乗せて、彼女はそれを差し出してきた。

ロザリオ――十字架だった。銀色の細い鎖と、それを通っている金色の十字架が一つ。それから、数珠のように珠がいくつも連なっている。

「これをわたしと思って、毎日持ってて」

え、と智秀は驚いた。

「これ……って、十字架ですよね。いいんですか、大切なものじゃないんですか」

「もちろん。お祈りをする時とかにずっと使ってきた、大切なものよ。けど、たった一つのものじゃないわ。信心道具は神様へ心を向けるのを助けてくれるものであって、それ自体を重宝する必要はそんなに無いの」

智秀は受け取るのを躊躇った。いくらなんでも、彼女の信仰に関するものを頂くことははばかられた。

「わたしは、わたしのロザリオで智秀くんを勇気づけてあげられるなら、喜んでロザリオをあげるわ」

そう言うと、彼女は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。

「それに、わたしのできることなんて、これぐらいしかないから。智秀くんがいじめられてる女の子を助けたいように、わたしも智秀くんを助けたいの。だから、受け取って」

真摯で一点の曇りも無い双眸に見つめられる。

青樹叶の言は、決して見栄とか嘘偽りによるものではない。智秀は彼女の瞳を見て強く感じた。

教師たちの「いじめはいけない」という白々しい決まり文句のような言葉とは次元が違う。叶の言葉からは、何も汚れたものを感じない。

本気で、彼女は宇垣智秀を助けたいと思っているのだ。


これだ……!


これこそが青樹叶に相談しに来た理由だと、ふと思った。

どうすればいいのかわからなくて、

誰に心の内を打ち明ければいいのかわからなくて、

知り合ったばかりの彼女の存在が思い浮かんだ。

それはきっと、彼女の眩しいばかりの清らかさに心が惹かれていたからだ。誰も持ち得ない、誰にも見えなかった、真っ白な精神。それを持つ彼女にだからこそ、自分は相談をしに来たのだ。


僕は――この人を、信じたい!


彼女の手の平にゆっくり手をのばし、そこにあるロザリオを掴んだ。ロザリオの金属質な感触と、彼女の手の柔らかさが対照的だったが、どちらも暖かかった。

受け取ったロザリオをじっと見つめる。

これが、彼女が肌身離さず持ち歩いていたもの。

これが、これから彼女の分身となり宇垣智秀を守るもの。

「……ありがとうございます、叶さん」

深く頭をさげた。

すると頭上からクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「やだ、大げさね、そんなにありがたがらなくてもいいのに」

「いえ。僕なんかに、こんな大事なモノを……」

どんな言葉を並べても、きっと胸を苦しいくらいに満たす感謝の気持ちは表現できないだろう。

今日から自分は、どこにいても一人にはならない。青樹叶が近くにいて、負けそうになる自分を応援してくれる。


絶対に、僕はもう負けない。

みんなにも。

自分の弱い心にも。


赤崎真純の傍にいよう。

手の中の十字架に、彼女に、強く強く誓った。


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