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彼女が自転車を手でひいて歩いている横を、智秀はボーッと歩いている。
……なんでこうなったんだろ。
隣を盗み見る。彼女は宇垣智秀よりも背が数センチ高いらしい。目線を水平に横へ向けると、首筋に焦点が合った。カッターシャツでもブレザーの下に着込んでいるのだろう、白い丸襟が首の周りを囲んでいる。
綺麗な人だなと思ってついつい見ていると、視線に気づいた彼女と目が合ってしまった。
「どうしたの。やっぱり、痛い?」
「いいえ、大丈夫です」
あらぬ方向に目をやって、一方的に視線を外す。
見ていたことがバレてしまい気まずかった。
何も話さないでいると気まずさに拍車がかかるので、何でもいいから口にしてみることにする。
「あの……」
「なに?」
ちらっと、目を合わせる。
「どこの学校に通ってるんですか。高校、ですよね」
「うん、そうよ。聖丘女子高等学校っていうんだけど、知ってるかな」
「名前だけなら……」
彼女は女子校の生徒だと言う。なぜだかわからないが、女子校に通っていると聞いた途端、智秀はまた顔が熱くなるのを感じた。
「わたしはそこの二年生。あなたは?」
「僕は……中学三年です」
「じゃあ、ふたつ下ね」
彼女はにっこりとほほ笑みを浮かべた。さっきまでの狼狽えていた面影はどこにも見あたらない。
「家はすぐ近くって言ってましたけど、どのへんなんですか?」
「あとちょっとよ。もう見えてるわ」
「見えてる?」
前方に目を向けてみる。道の両脇に住宅が建ち並び、右手の家々の向こうには背の高いマンションが見えていた。どの家が彼女の家なのだろう。
智秀が視線をさまよわせていると、彼女は歩いている道の先を指さした。
「あれよ」
「あれ……って、突き当たりの、レンガ造りの二階建ての家ですか?」
「ううん。その先。あの家の屋根から、突き出てるでしょ」
彼女の言っている意味を、智秀は初め理解しきれなかった。
屋根から突き出ている。
その言葉が意味するところを考え、少し遠くに目をこらすと、本当に奥の家の屋根から何かが突き出ていた。
二本の尖塔だった。突き当たりの家のさらに向こう、西洋風の塔が空に向かって雄々しく屹立していた。他の建造物を優に抜く全長は、ここからでも充分見て取れる。双塔は鐘を吊るしていた。そして、その二つの先端は十字架の形をしたオブジェを冠していた。
それだけで、わかった。
「……教会、ですか」
「そう」彼女は頷いた。
智秀は隣の女子高生に目を向け、眉をひそめた。
「まさか、教会に住んでるんですか」
「うん」
驚いた。
教会に人が住んでいることがあるのは、知っていた。けど隣を歩くこの女子高生がそうだとは。
「びっくりした?」
「そりゃ、まあ……」
それから智秀は押し黙った。これから自分が向かう先が普通の家ではないと知って、恐かったからだ。
教会――。キリスト教の信者が集まり、日曜日にミサを行う場所。それぐらいの一般的な知識は持ち合わせている。だから、なおさらに恐かった。
できることなら、教会なんていう得体の知れない場所には近づきたくない。
逃げることは可能だ。「やっぱりパス!」と言って走り去れば、それで終わりにできる。
けれど、と智秀は悩む。
この女子高生は責任を感じて傷の消毒をしてくれると言う。一度でも引き受けた以上、それを反故にするのははばかられた。
そもそも、自分が逃げ去ったら、彼女はどんな顔をするだろう。そう思うと、足を止めることはできなかった。
教会は背の高い塀に四方を囲まれていた。周りのごく普通の家々が立ち並ぶ中にあって、かなり異質な存在に見える。それは敷地の広大さとその中にそびえる聖堂の巨大さのせいだろう。
「うわ……大きいですね」
門の向こうの聖堂を真正面にとらえて、思わず驚嘆の声が出た。
聖堂の手前にはゆるやかな階段があり、それを上っていくと、黒い大きな扉に辿り着く。聖堂から突き出た鐘楼が、天に向かって堂々と屹立していた。聖堂は白を纏っていて、いまは夕日の橙色を帯びている。
周囲のマンションやビルとは基になった概念が違うせいか。
眼前にある白い家は、神聖な薫りを漂わせていた。
「教会に来るのは初めてなの?」
「はい。用事が、今までありませんでしたから」
「そうなの」
一緒に門をくぐると、彼女はすぐ右手にある建物を指さした。
「ここよ」
三階建ての、白い壁と青い屋根の家。それが彼女の家だった。見たところ、普通の家と変わらない。
彼女は自転車を、その家の玄関脇に駐めた。
「あ……カゴ、大丈夫ですか。ちょっとへこんでるみたいですけど」
「カゴなんて壊れたっていいのよ。また直せばいいんだもの。それよりも、わたしはあなたのほうが心配よ」
自転車のカゴから革の鞄を引き抜き、苦笑いしながら彼女は鞄から鍵を取り出した。そして、その鍵で玄関を開けた。
「どうぞ」
ドアを開けて、中へ誘ってくれる。
「……お邪魔します」
緊張しながら、家の中に足を踏み入れる。
教会の敷地内の家ということで身構えていたが、靴を脱ぐ所が普通の家よりも広いということ以外は、一般的な内装だった。床はフローリングで、壁はやはり白い。
「リビングに行きましょう」
上がり框をまたいだところで突っ立っていると声をかけられた。
彼女の後について、廊下を歩いていく。いくつかドアを通り過ぎて、階段にさしかかる。
「二階に行くんですか?」
「そうよ。リビングは二階にあるの。ちょっとヘンよね」
クスクス笑いながら彼女は階段をのぼっていく。階段はぐるりと百八十度回転して二階へと繋がっていた。
二階に上がると、彼女に案内されてリビングへ入る。
入ってすぐ手前にはソファーとローテーブル、テレビのセットがある。奥のほうにはダイニングもあり、そのもっと向こうがキッチンになっていた。全体的に焦げ茶色で統一されていて、アンティークな雰囲気が漂う部屋だ。
「あなたはソファーに座ってて。救急箱持ってくるから。あ、その前に、そこのキッチンで傷口を洗って」
「わかりました」
キッチンに入って、流しで手を洗う。
青と白のチェック柄のエプロンが壁にかけられていた。冷蔵庫にはマグネットで新聞広告や町内のお知らせの紙などが多々貼り付けられている。キッチンを見ているとその一般的な様子に、ホントにここが教会の敷地にある家なのか、と不思議に思えてきた。
手を洗い終え、自分のハンドタオルで水を拭き取りながらリビングに戻る。彼女はすでにソファーに座って、救急箱から消毒薬などを取り出していた。
「ここ座って」
ポン、ポンと彼女は自分の右隣に座るように示した。
少し距離を開けて座る。
「じゃあ、はい、左手出して」
「……お願いします」
恥ずかしい気持ちになりながら、左手を差し出した。すると彼女はなんの躊躇いも無く、その手を取る。
わかっていたが、どうしても顔が熱くなる。
「ごめんなさい。もっとわたしが注意していれば、こんなことにならなかったのに」
消毒液が傷口に触れ、染みこんでくる鋭い痛みに、眉が寄る。
「いえ、僕のほうが悪いんです。左右を見ないで道に出ちゃったんですから」
左手の平が、わずかに痺れにも似た痛みを発する。
けど、彼女の白く長い五指に触れられていることで、手の平よりも脳髄の方が何倍も痺れているようだった。自分の左手に優しく添えられている彼女の手は信じられないほどの柔らかさだ。
彼女は静かに笑った。
「ありがとう。あなたは謙虚なのね」
褒められたようだった。
智秀は気恥ずかしくなって、視線を他の方向に向けた。すると天井近くの壁にかかっているものに目が留まった。かけ時計のように壁にあるそれは、十字架とそれに両手を打ち付けられた男性の金色の飾りだった。
「イエス・キリストよ」
智秀の見ている物を察して、彼女は言った。
「食事をする前に、いつもあの十字架に向かってお祈りをするの。わたしに食べ物を与えてくださってありがとうございます、て」
「……やっぱり、ここは教会ですね」
智秀は急に自分が場違いな存在だと感じた。
そして、彼女の言葉を聞いて、また恐くなった。
食事は「いただきます」の一言で始まるのに、彼女たちはわざわざ神に祈る。それが甚だ異質に思えたから。
左手の平に粘着質の紙が貼られた。絆創膏だろう。
「教会は嫌い?」
「いえ、嫌いとか、そういうのじゃなくて……。あんまりこういうことは言わない方がいいんでしょうけど、宗教って、なんだか恐くて」
もう一枚、別の傷口を覆うように絆創膏が貼られる。
「あなたはキリスト教がどんな宗教か、知ってる?」
「そりゃ、ちょっとは……。イエス・キリストを信じてて、毎週日曜日にミサをやるっていうぐらいは」
「それだけ?」
「そう、ですね。それだけです」
直後、左手が解放された。
まずい、怒らせた!?
自分の無知さに彼女は気を悪くしてしまったのか。
心配して、すぐに彼女を見る。
杞憂だった。
彼女は怒った様子もなく、優しくほほ笑んでいた。
「あなたがキリスト教を恐いと思うのは、自然な感情よ」
「……どうしてですか?」
「だって、あなたはキリスト教について深く知らないんだもの。恐いっていう気持ちは、知らない物に対する気持ちなの。もし、あなたがキリスト教についての知識があったなら、少しも怖がることはなかったでしょう」
智秀は息を呑んだ。
「そう、かもしれません。僕はキリスト教どころか、宗教を全然知りません」
「だから宗教が恐いのよ、きっと」
自分が恥ずかしかった。
まったく彼女の言うとおりだった。宇垣智秀は聞きかじりの知識だけでキリスト教を知ったように錯覚して、勝手に怖がっていたのだ。
「あの、怒りましたか?」
恐々と尋ねる。すると彼女は首を小さく横へ振った。
「怒ってなんていないわ。あなたの気持ちは人として当然なんだから。誰だって、知らない物は恐いのよ」
そう言った彼女を、智秀は何か神聖な存在のように感じた。
自分とも、周りにいる人間とも違う、異なる存在。
彼女のことをそう思った原因は、静かな話し口調とか、その美しさとかではない。きっと、自然と彼女の周囲に満ち満ちている雰囲気がそう錯覚させたのだ。
「あなたは神様を信じてる人を、きっと別世界の人のように思ってるんじゃないかしら」
「……はい。その通りです」
「それは間違いよ」
柔らかな声で彼女は続ける。
「わたしや、この教会を訪れる人達は、みんな普通の人よ。包丁で指を切れば血が出てくるし、誰かに悪口を言われたら悲しい気持ちになるわ。神様に限らず何を信じていても、わたしたちは同じ世界に生きているモノなの」
彼女の右手の人差し指が、智秀の制服の第二ボタンを押した。
「だから、わたしとあなたも、何も変わらないわ」
太陽のように輝く笑顔を、彼女は見せる。
その眩さに、宇垣智秀は知らず「はい」と答えていた。




