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赤崎真純の家を出て帰途についた時には、屋外はすっかり夕暮れに染まっていた。学校では、もうそろそろ全ての部活動が切り上げる頃だろう。

ずいぶん長く赤崎家にいたようだ。

赤崎真純と話らしい話はあまりしなかった。こうまで時間が経ったのは、ひとえに彼女が長いあいだ泣いていたからだ。「このまま夜になってしまうんじゃないか」と思うほど、彼女は泣いていた。

ポケットに入れてあるハンドタオルは水分を吸収しきっている。

それだけの涙。

思えば、彼女が泣いている姿をこれまで見たことが無かった。どれだけ虐げられても、彼女は涙ひとつ周囲に見せなかった。

ひょっとしたら、それが最低限の彼女の意地だったのかもしれない。自分は決して屈しないという固い意志の現れ。

でも、学校でどれだけ涙を我慢しても、家では一人で静かに泣いていたはずだ。

いじめのことは母親に秘密にしておいて欲しいと、彼女は言った。自分のプライドを守るためか。親に心配をかけたくないからか。おそらく彼女なら後者が理由だ。なんとなく、わかる。

誰にも苦しいとも言えず、きっと、一人で今まで堪え忍んできた彼女。

行けばいじめられるとわかっていても、行くしかない。そんな過酷な毎日を耐えるなど、誰にもできない。その証拠に、彼女は昨日から学校へ来なくなった。

いじめを耐えている彼女を遠くから見ていて、強い子だな、と思っていた。けど、その認識は間違いだった。

彼女はただ長く保っていただけだ。強くもなんともない。宇垣智秀と同じ、弱い一人の中学生だったのだ。

遅かれ早かれ、張りすぎた糸は千切れてしまうのだ。


赤崎さん、これからどうするつもりなんだろう。

まさかこのまま本当に不登校になるのかな。


オレンジ色の西日に家々の塀も染まっている。自分の影が道に伸びている。

今日で何度目かになるため息を吐いて、智秀は家々の連なる道を歩いていく。頭の中にあるのは、赤崎真純のことだけだ。

交通量の少ない歩道の十字路にさしかかっても、他のことは何も考えないまま。家々の塀に沿って歩いていた智秀は、その十字路を直進しようとした。

左右の確認をせず、交差点に出る。

「あ!」という女性の叫び声が右側から聞こえた。

反射的にそちらを振り向く。

が、視界が右方向を捕らえるよりも前に、智秀の体は右腕に受けた強い衝撃で反対側に弾けていた。実際には、倒れ込んだだけなのだが、体感的には撥ね飛ばされたように感じた。

平衡感覚が大きく左に傾き、視界もそれに連動する。瞬く間もなく左手に、無数の爪で引き裂かれたような鋭い痛みが走った。

横に倒れた智秀は、呻きながらゆっくり体を起こす。

「大丈夫!?」

声がした。女性の、慌てた声。

見ると、すぐ右手に自転車に乗った女性がいた。女性の表情は逆光のため、よく見えない。

自転車は西日を受けて輝いている。銀色のフレームの自転車だ。鞄のようなものが入った前カゴがややひしゃげている。どうやら、この自転車に体当たりをくらったようだ。

「ケガは!?」

自転車に乗っていた女の人は、自転車から下り、スタンドを立てると急いで智秀の前に膝をついて座り込んだ。

「あ――」と間抜けな声が、智秀の口から洩れた。

その女性の顔を見た瞬間、体中の痛みどころか、思考さえ忘れてしまった。西日を受けて自分の眼前に座る彼女は、全てを忘れさせるほどの綺麗な人だったのだ。

傷もシミも、汚れ一つ見あたらない、陶器のような滑らかな肌。卵のように、曲線を描く綺麗なフェイスライン。胸の下あたりまでの長さのある艶やかな黒のストレートヘア。

「ごめんなさい、わたしの不注意で……」

目鼻立ちや雰囲気から推測するに、この人は高校生だ。

制服は、群青色のボレロ風のブレザーで、胸ポケットのような諸々の装飾は見あたず、唯一、ユリを象った金色のブローチが左胸に小さく光っている。スカートは上と同色のプリーツスカートで、膝が完全に隠されている。

こんな珍しい制服は、公立高校ではありえない。どこかの私立高校のものだろう。

「ケガは……大丈夫?」

「あ……えっと。左手がちょっと痛いだけで、他はなんとも」

尻を地面につけたまま、左手を目の前に持ってきて、確認してみる。血の筋が何本か模様のように手の平を走っていた。倒れる時に受け身を取ろうとして、コンクリートの上に手をついたせいだった。

「やっぱりケガしてるじゃない!」

彼女は今にも泣きそうな顔をして言った。

「わたしのせいだわ……」

「いや、そんな大した傷じゃ……舐めておけば治りますよ、こんなの」

「ダメよ! ちゃんと消毒しないと!」

彼女は厳しい瞳をして言った。たしなめられたが、それは純粋に宇垣智秀を心配しているゆえの言葉だった。

「わたしの家、ここからすぐなの。だからわたしの家に来て、そこで消毒させて」

「えっ、いいですよ、そんな……」

「そうでないとわたしが心配でしょうがないの!」

彼女はそう言って、その両手で智秀の左手を優しく包んだ。

女性の細い指の感触に、頬が異常に熱くなる。

「ケガをさせたんだもの。わたしには、責任があるの。だからお願い。手当てさせて」

手に感じる柔らかな温もりと、自分をのぞき込んでくる黒い真珠のような綺麗な瞳。智秀はもう冷静ではなくなっていた。思考が回らず、まあ彼女もこう言ってるんだし断れないよな、と突発的に思った。

至った結論を冷静に吟味することもせず、いつのまにか、口から言葉が漏れ出ていった。

「じゃあ……おねがい、します」

女性はそこで初めて安心した笑顔を浮かべた。そんな彼女に、さらに頬が熱くなった。


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