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龍鱗-ロンリン-  作者: 石田
序章
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序章

 夕闇に染まり始めた山道を、身の丈六尺もありそうな大男が駆けていた。


 紅葉も終わりに近づき、本格的に山が冬支度を始めている季節にも関わらず、男は麻の薄い肌着一枚で走る。大きな歩幅で一歩進む度落ち葉を盛大に踏みつけるため、何かが近くにいれば、自分の居場所を教えているも同然だった。

 所々に埋め込まれた丸石にかろうじて人の手が感じられる半ば獣道は、いつ熊や狼や猪が飛び出てきてもおかしくない。いつ頃から人に捨てられたのかわからないくらいの古道を、時に根っこに躓きなから時に石ころを蹴りあげながら、木の枝による切り傷も意に介さず男は一心不乱に逃げていた。

 男もただの大男ではない。泣く子も黙る栄建(ロンジャン)山の山賊一派、頭領の白景順(バイジンシュン)その人である。正確に言うならば身の丈五尺二十寸に筋骨隆々、剃りあげた頭に無精髭を蓄え、一目見れば堅気の人間が近づくべきではないと分かる風体だった。

 山賊稼業を始めて五年と半年ほど、近頃ではそれなりに名も売れ人も増え、もはや賊党とでも呼ぶべき勢力になっていた。本業だけでは飽き足らず冬でもないのに近くの村まで降りていって、誰あろう自分たちの他にこれといった脅威もないのに、「自警団」と名乗ったこともあった。

 今でこそ辺境の山賊に身をやつしているが、景順も一応は都の出身である。かつては(デン)の国に七カ所ある大武芸所の一つで腕を磨き、いずれは武官として野蛮なる西国・(フェン)を打ち倒す役目を担う――はずの、若者だった。自身でもそういう未来を描いていたし、その類まれなる体格と鍛えあげられた技は同年代で抜きん出るどころか師範級の強さを持ち、御前武闘会での腕試しでも必ず上位に食い込んで周囲から一目置かれる存在であった。

 だが体格と同じく、生まれ持った性分というものは中々変えられるものではない。荒々しい性格が災いし、一度ならず三度もつまらない諍いを起こした挙句に破門された。一度目は金の貸し借り、二度目は飯の配分、三度目は酒の席で師範とどちらが強いか言い争い、という具合である。

 その処遇に納得しなかった景順は、師弟総勢二十五人を幼い頃からの連れ合いと徒党を組んで襲撃し、一人残らず半殺しにした。自らの手で師範に優る武芸者だと証明した結果、半年間の牢生活と都及びその周辺からの追放を言い渡された。

 そうして北へ流れに流れてここ、寧信(ニンシン)の栄建山で山賊を始めた。

 一度は生まれ育った都に別れを告げ、遠方で一稼ぎしてやろうと考えてはいたものの、都育ちの都会人が田舎の山小屋生活に満足するわけもない。いずれは中央へ帰還を果たし、高級武官となって酒池肉林の日々を送ろうというのが現在のおおまかな野望である。風の噂ではなんでも以前から懸念されていた豊との関係が悪化しつつあり、戦も近いとのこと。そうなればここにいる者共と兵に志願し、勇猛果敢な姿を見せ、武勲を上げていけば追放も解かれるだろう――などと考えていた。

 そんな男が、今は必死の形相でひたすら逃げている。

 たった一枚の着衣にはまだ新しい赤色の斑点が水玉模様を作っており、一悶着あったことは見るに明らかだった。しかし所々に擦り傷はあるものの、切り傷は左の二の腕にただ一つあるだけで、他はいたって無事だった。

 この時期の寧信はそろそろ初雪が降る頃で、陽が落ちようとするこんな時間どころか日中でも薄手の生地では肌寒い。この寒地に住む農民たちは伝統的に猪の毛皮から保温性の高い上着を作っていて、余所者がほとんどの山賊たちにもすこぶる好評だった。景順も略奪したそれを愛用していたのだが、逃げるのに邪魔で捨ててしまっていた。

 藪と小枝をかき分けながら走り続けて、景順はやがて荷馬も二頭はゆうに通れるだろう広い山道に出た。そこかしこに固まった馬糞が落ちている程度には普段往来のある道だったが、今は人の気配はおろか獣の気配すらなく、元々は道中の安全を祈るために建てられたはずの忘れ去られた小さな古堂が道端の雑草が生い茂る中から景順を見つめているだけだった。

 ここを右へ行くと十里先で(フイ)河の上流に出るはずだ、と景順は考える。その下流五十里には新檀(シンタン)と呼ばれる鉄工業が盛んな比較的大きい都市があり、そこへ向かう、あるいは逆にそこから南方へ向かう運び屋からの略奪を主な生業としてきた。

 新檀へ向かうには河へ出たあと渡しを探さねばならないが、この河渡しというのが山賊よりは少しマシな程度のアコギな連中で、新檀から都への最短経路というのを利用して暴利を貪っていた。あまりにも渡し賃が高騰しすぎて山賊の仕事にまで影響するようになり、一派総出でこらしめに行ったほどだった。

 連中は暗くなる前に仕事を終えて下流の家に帰るし、十里はいくら急いでも山中で日が暮れることになる距離だ。橙色だった空は徐々に濃紺の割合が増え始め、もう半刻もしない内に辺りは暗闇に包まれそうだった。

 景順は迷いなく左へ向かった。こちら側にはおよそ四里先に禮朴(リィプゥ)村と呼ばれる小さな農村がある。どちらにせよこの時間にはほとんど外に人はいないだろうが、それでも民家があって人がいるはずだ。

 人治の領域に出ると、景順の頭も徐々に明瞭なものになってきていた。

 生命の危機を感じて通常以上の力を発揮していた体が疲労を認識し始めると、村に近づいて安心したことも手伝って、景順は少しだけ歩を緩めた。人を追いかけるのは慣れたものだったが、逃げることは二十七年の人生でほとんど初めてと言っても良かった。

 とは言え――頭が確かになってきても、体が走るのを止められはしなかった。

 堕ちたとは言えこれでもかつては武芸を志した者、ある程度は刀剣の知識もある。人を斬れば水が滴る青龍刀や、打ち合えば火を起こす双剣、はたまた仇を見つける小刀などという触れ込みのものは金物屋がよく実演付きで売っているが、騙されるのは田舎出の純朴な若者だけだった。

 そのように超自然的な刀などこの世に存在しないというのは武の者の共通認識だったし、だからこそ己の体を鍛え上げ技を磨く。それこそが唯一の武器となり、それこそが最高の盾となるのだと信じていた。


 それでも――見てしまった。

 あの刀を見てしまった。



 仲間らの叫び声が聞こえ、隠れ家から青龍刀一本だけを持って外へ出た。賊討伐だのと宣って、正義感に駆られた馬鹿が押しかけてくるのはこれまでにも何度かあった。それらは例外なく屈強な肉体を持ち、透き通った目をしていて、なにより多対一の殺し合いなど経験したことすらないお子様たちだった。

 けれども今回の馬鹿は少し様子が違い、一目見た時に思わず口走ったのは、「なんだおめェら、こんなのも片付けらんねェのか」という言葉だった。

 玄関を出て左手、ひょろ長い文士様風情の男の周りを、槍や刀で武装した仲間たちが大きく取り囲んでいた。大股でわざと足音を立てて進むと、夕飯に蚯蚓を啄んでいた烏達が道を開けるように頭上へ飛び立った。

 歳の頃は景順より五つくらい若かっただろうか。髪は短髪。顔にこれといった特徴がないと感じたのは、決して一切の表情を見せていなかったからというだけではないだろう。丈は同じくらいだが細身で、地方の役所に勤める官吏だと言われれば納得するような雰囲気の、少なくともこんな山奥で無法者共と斬り合いをする人間には見えなかった。臙脂色の着物は乱れてさえおらず、右手に抜き身の白い諸刃匕首を携えていなければ、ただ無力な青年が山賊に絡まれているようにしか映らなかっただろう。

 白いと思ったのは、持ち手の色がそうだったばかりではない。切っ先から柄の底まで全身真白く、血の赤だけが鈍く、より際立って見えた。沈みかけた太陽の赤みを帯びた光を受けてもなお変わらず白い刀身は、冬の寧信の風景よりもよほど頑なだった。

 全長はおよそ十四、五尺程度で普通の匕首と比べれば長かったがその分細く、男の体と不思議なほどの統一感があった。

 見るとその足元に四人ほどが斬り伏せられており、一人を除いて首を掻かれて赤い水溜りを作っていた。右腕を軽く刺されたと思しき張永志(ジャンヨンジ)は、ずっと痛い痛いと叫びながら傷を押さえつつ地をのたうち回っていた。

「い、いてぇ……!!! いてぇよ兄貴ぃ!!!」

「いつもいつも多少のことで騒ぐんじゃねェつってんだろうが! ちったァ黙ってろこのド阿呆が!」

 と一喝すると、途端に押し黙った。この根性なしはすぐに痛い辛いと音を上げる。虚勢を張るのは得意だが実が伴っていないので、略奪の最中返り討ちにあって死にかけたことも一度や二度ではない。それでも、幼い時から一緒に路地を駆けまわり、追放されてからも自分を慕って付いてきたこの弟分を、景順はいつまで経っても見捨てることができずにいた。

 手下どもに道を譲らせ、望まれぬ来訪者を取り囲む円の中に入ると、

「おう、ひょろ造。何の用だか知らねェが、ウチのモンやってくれたからにはてめェ、覚悟はできてんだろうなァ?」

 凄みを利かせて睨みつけた。

 仲間を殺されて憤慨しない賊などいない。ましてやこの男は既に三人を手にかけてなお平然としている。

 今更後悔しようが懺悔しようが土下座しようがもう遅い。四肢をもいだ上野犬の群れに放り込んだところで気が静まることもないだろう。爪を一枚一枚剥いでそこから順次切り落としていったとして許すつもりなど毛ほどもなかった。

 対して男は変わらず無表情なまま、足元の骸を邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばした。

 嬲り殺すには十分すぎる応じ方だった。

「上等だ」

 言いながら右手に刀を構えて半身の体勢をとった。いつもの仕事では構えることすらほとんどない。熟練者である景順と戦うに値するほどの技量を持つ人間に山中で出会うことなど、滅多とないからだ。

 だが、仮に無防備な状態でも一人で四人を相手に全くの無事であるというのは、いかに刀の腕前が良かろうとそうそうできるものではない。それをやってのけたのだから、この細身の男はただの文士様ではないとみた。となるとこちらもそれ相応の対応をしなければならない。久々に腕が鳴る、どう料理してやろう――と、


 その視界の一端に、なにやら蠢くものがあった。


 叫びを止め、涙を流しながらグズグズと鼻を啜る永志の体の前にそれはあった。

 はじめは鼠か蜥蜴かはたまた猫か、くらいにしか思わなかった。景順は男への睨みを外さず、ゆっくりと動くモノに視線を向けてみる。

 覚えのない、黒い匕首が落ちていた。

 たとえ知識のない者でも一目見て逸品だとわかる、艶やかに黒光りする刃。ただ黒いだけに見えた柄には、よく注意すると鱗のような意匠が施されているのがわかった。

「なんだ、ありゃ……」

 ここまでの人生で、「刀」と「動く」という二つの要素が一つの物に同居することはなく、自らの目を疑った。しかし何度空いた左手で目を擦ろうと、そこに映るものに変化はなかった。

 そして――その刀の震えが次第に大きな揺れをなし、最後には浮き上がったのを見た。

「あ……?」

 まともな言葉が出なかったのは景順ばかりではない。そこにいた、名も知れぬ細身の男と倒れ込んでいる永志以外の全員が口をあんぐりと開けたままで固まってしまった。

 動いているのは刀だけだった。男はただ、その動きを見つめているだけに思えた。


 やがて黒い匕首は、空中で傾いた姿勢のまま震えを止めた。

 それから、ひとりでに動いて、永志の首筋へ突き刺さった。

 

 思わず、より大きな目を見開いて何度も瞬きをした。這いつくばっていた永志は一切合切何が起こったかわからない様子で、奇妙なモノが入り込んできた方向へ頭を仰向かせた。その目は暮れ始めた空と雲と葉を落とした銀杏の木立の右隅、珍妙な形の立体物の先に黒い鱗の塊がそそり立っているのを捉え、さらに困惑の表情を濃くした。

 いつも通りの「兄貴に聞けばなんとかなる」とでも言いたげな顔で、首から上だけを動かしてこちらを向いた。得物を構えて目を見開き、口を開けたまま突っ立っている景順は、今まで永志が見た中でも最も奇妙な態度に違いなかった。

 何かを言おうとして、陸に打ち上げられた魚のように口を空回りさせた。声は出ない。永志は目だけを動かして周りを見渡し、またも何かを言おうとした。助けてくれよと言おうとしていたのかもしれないし、あるいは顔になんかついてますか、だったかもしれない。が、その口からはやはり言葉が出ない。習い始めたばかりの子供が吹く下手くそな笛のような音だけが聞こえた。

 徐々に体は動きをなくし、地に流れる赤はその面積を増していった。

 それから二度ほど痙攣を起こして、景順の良き弟分は事切れた。

 獣の毛皮を被った男たちは、仲間が「刀に」殺されるのをただ見ているしかなかった。


 他に誰一人身じろぎできない中で、細身の男は永志の亡骸に近づいた。頭を右の脚で踏みつけ、畑から大根でも収穫するように匕首を首から引き抜いた。

 その体勢のまま二度三度と刀身についた新鮮な血を振り払うと、もう屍体には目もくれず一番手近な山賊へ気怠げに歩き出した。

 景順を含めて全員が困惑していた。

 見世物奇術かなにかか。

 どこの市でも奇術の舞台なんてものは大抵あって、道具を浮かせたり体を切断して戻してみせたりなどというのはその中でももっとも大衆的なもので、そんな芸当を今見せられたのか。こんな山奥で。

 なるほど確かに奇術なら話は早い。屍が四つほど転がっているのも、その凶器が今現在男の手の中にあるのも、そいつがさっき触ってもいないのに勝手に動いて仲間を殺したのもそのせいだろう。

 混乱しつつも、もう一度確認してみる。屍が四つ転がっている。絶命に至らせた凶器は男の手の中にあった。そいつがさっき、触ってもいないのに勝手に動いて、永志を、殺した。

 殺した。

 ――殺されたのだ。

「っ……! おっ……おい! おっ、今なにしやがっ、お、おい!」

 少しだけ状況を認識した景順は言葉を紡ごうとしたが、まともな質問にはならなかった。男は、見向きもしなかった。

「おい! 聞いてんだろうがコラァ!?」

 半狂乱となって何度も喚くが男は答えない。

 仲間を殺された憎悪を異常事態による混乱が凌駕し声が上ずった。見渡せば遅れて気づき始めた手下たちもわけがわからないといった表情で、今しがた起こった夢の様な出来事に理解が追いついていなかった。

「話聞けよオラァ!!!」

 一際大きな声で吠えると、ようやく男がこちらを振り返った。

その瞳には慈愛も憎悪もなにもなく、ただただ無関心しか映っていないように思えた。

「今の、今のはなんだ。奇術か。奇術かなんかか。それでやったのか」

 永志の屍体を指差して畳み掛けるように叫んでも、返答は依然ない。

「黙ってンじゃねェぞこのひょろガキィ!!!」

 男は景順の罵声を聞き流しながらふらりと歩いて柳葉刀を持った山賊の前に立った。

 続いて事も無げにその腹へ匕首を突き立てた。

 切り口から血が染みだして黄土色の衣服を侵略し始める。所作があまりにも自然すぎたからか、その木偶の坊は自分に起きた異変に気付くこともなく、不思議そうな表情で目を点にした後小さな呻き声だけを上げて膝をついた。

 そこへもう一方の匕首を体側面から振り回すように差し込むと、同時に二本を抜いた。辛うじて膝で安定を保っていた体が地に臥せ、大きな衝撃と音を生み出した。

 今度は全員の目が覚めた。

「てっ……てめェ!!!」

 先程の、奇術まがいの刀の動きはとりあえず後回しだ。一体なにをどうしたのかはわからないが、少なくともこの男が意思を持って仲間を殺したのは明白だった。

 山賊たちが一歩二歩と間合いを詰め、取り囲む輪は狭くなり男が逃げるための隙間を埋めた。

「やァっちまえェェァ!!!」

 景順の憎しみと狂気で構成された怒声が山中に響くと、山賊たちは男へ飛びかかった。行き場を限定された悪意が華奢な体へと殺到する。

 戦だろうと街の小競り合いだろうと子供の喧嘩だろうと、先を取れた方が有利だというのは古の闘法書物を読むまでもなくまず常識である。初撃こそ入ればなし崩し的にその後の優勢は決まる。まして男の得物は間合いが狭く、槍の初撃にとって格好の餌食となるはずだった。

 左からまさにその先を取るべく長物の切っ先が心臓をめがけて綺麗な直線を描き、着物に触れようかという瞬間、

 男の体はその左を抜けた。

 つい先程までぶら下がっていただけの手は既に構えに入っていて、体を捻りながら槍をすり抜け懐へ入った。黒刀で伸びきった右の手首ごと切り上げると、体の勢いを殺しつつ力任せに右手を振るった。白い刃は槍持ちの左首筋から右脇までを袈裟斬りにし、血の噴水を作り出した。

 体は左に流れる動作のまま一回転し、隣にいた刀持ちの胴を黒刀で薙ぐ。

 崩、劈から抹。まるで套路演舞のような刀捌きで男は人を斬った。

 息つく間もなく二人がやられた。

 刀持ちがゆっくり膝から崩れ落ちようとしているところへ、左胸に白刀が突き立てられる。その体を蹴り飛ばしつつ右手の得物を引っこ抜くと、両脇から襲いかかってきた二つの槍をまるで曲芸のように飛び上がって避けた。空中で器用に一回転、着地と同時にそれぞれの刀を二人の腹部にめり込ませ、即座に引き抜き左右を持ち替えて、倒れ込んでくる体の胸にもう一撃ずつを見舞う。

 二人の体が互い違いに倒れた。前方からの槍を弾いてすぐさま撥条のように跳ね上がると、背後の刀持ちへ後ろ手に黒刀を投げつけてその右腕を抉り――男は白刀を、無造作に虚空へ投げた。


 白刀も、地の道理に反して宙に浮きつつ、自ら動きを止めた。

 次の瞬間には刀持ちの胸に突き刺さっていた。

 右腕を抉って地に落ちたはずの黒刀も再び浮かび上がり、今度は首筋の肉をもぎ取った。


 二度目は言い訳も出来なかった。男はただ刀に背を向けていただけで何もしていなかったのに、刀は人を殺した。それをこの目でしかと見た。

 これは奇術ではない、と思い始めた。

 これは人の力を逸したなにかなのではないか。

 感慨もない様子で男は果てたばかりの屍体から白の匕首を引き抜いた。下から上へ撫でるように斬りかかってきた青龍刀をしゃがみこんで避けると同時に落ちている黒刀を拾い上げ、踏み込んだ余韻でつんのめった体の背中へ後ろ手にそれをねじ込む。その場でくるりと旋回し対の刀で止めを刺した。

 続いて前と後ろから迫る二本の柳葉刀を受け止め、流し、その腹を同時に捌いた。二人の体を今にも飛び掛からんとしていた近くの双剣持ちに蹴って寄越すと、刀を空高く投げ上げた。

 またも刀は重力に反抗して落ちず、そのまま静止した。

 そして、それぞれが最短距離を通って二つのみぞおちに突き刺さった。

 三度目を見せられてようやく確信に至った。

 斬られているわけでもないのに全身血の気が引いていったのは、陽が落ち始めたからではなかったと思う。

 景順にしても他の者にしても、超常なるものをよくは知らない。呪術や占星術などはせいぜい明日の天気やこれからのおおまかな見立てを示す程度のものだとしか思っていないし、あの世や悪霊の話は子供を恐れ敬わせるための方便であることなど当然知っていた。

 では、目の前にあるこの現象はなんなのか。

 自ら動く匕首は尋常なるものか。

 緩慢な動作で両の刀を二つの屍から引き抜く。

 白く煌めく刀身はまたも赤い液体に濡れて、黒く艶やかな刀身も同様に一層闇の色を濃くしていた。一滴、二滴と切っ先から地面に血が落ちる度集める視線に動揺の色が増す。寒空の下貧相な木の枝に止まっていた烏が啼いた。

 男は数歩の前にいる双剣を持った敵へ白刀を投げつけると、それが刺さるが早いか虎が獲物に噛み付くような身のこなしで跳び上がった。背中に向けて倒れそうになっているその体をさらに押し倒すように飛びつき、黒刀を喉元に突き刺した。

 刀は――まるで、人の血を求めているように見えた。

 辺り一帯を支配する得体のしれない悪寒が爪の先から入り込みつむじの先まで染み渡っていく。

 続く攻撃が男を襲うことはなかった。

 もはや間近まで迫ってきていても誰も動けない。屍体の隣に突っ立っているだけの刀持ちが腹を捌かれて顔から倒れる。そのさらに隣の小太りも背中から心臓を一突きされてしばらく立ったまま絶命した。

 もう山賊たちは理解していた。あの刀は恨みそのものだ。誰かに刺し殺された怨霊が刀に憑依して、見境なしに人を襲っているのだ。男は刀の怨霊に乗り移られていて、だからあんな風に人を殺そうとしているのだ。

 この世ならざる雰囲気を察知してか、いずれ死臭を放つ肉を狙っていただろう烏が飛び立った。

 人は飛び去ることなど出来ず、ただ立ち竦んでいた。

 まるで見えない力に押し出されるようにじりじりと男を囲む足が後退し始め、既に穴だらけになっていた包囲が完全に解かれた。数瞬前の威勢の良さは早くも消え去って、戦意のない獣のような男達が怯えているだけになった。

 再び刀身についた血を振り払うと、男は目を瞑り、一度深呼吸をした。

 そして、鋭く目を見開いた。

 それが呼び水となった。

「ば……ば、化け物!!!」

 誰の声だったのかはわからないが、その時景順も確かに見た。怨霊の周囲に、禍々しい幻を見た。恐怖の濁流が山賊たちを飲み込み、大きなうねりとなって、震える足を無理矢理に動かした。

 ある者は武器を捨て競うように駆け出し、ある者は途中で腰が抜けて立てなくなった。その両方が悲鳴を上げ、静まり返ってしまった山々に大きく響いた。

 男は姿勢を低く、地面と擦れんばかりの体勢でそんな腰抜けたちを追い始めた。その動きはさっきまでの一方的な斬り合いの時よりもさらに速く、最初の犠牲者は三歩を踏み出す前に足の腱を斬られその場に屈した。

 景順も当然のように逃げ出した。頭領である自身の立場もお構いなしに体は走り始めていた。

 急な動きに足がもつれそうになる。なんとか体勢を立て直そうとするが、一度前のめりになった体は簡単には元に戻らない。手をついて辛うじて安定を保ったが、そのまま銀杏の林に突っ込むと今度は木の根が行く手を妨げた。

 重心が崩れ視界に広がる地面が急激に近づいてくる。とっさに右で受け身をとったのは武芸が体に染み付いていたからだろう、そのまま体を抱えるようにして倒れた。

止まれば待つのは地獄だと思った。だからこそ、その木に縋りついて体を起こした。

 そうして見てしまった。

 さっきから猛威を振るっていた白刀が目の前の樹の幹に突き立っているのを。

「ひっ……」

 刀は樹木が太陽を隠しても依然白く閃いていた。

 痛みを感じて左腕を見るとかすかな切り傷から血が垂れていた。

 とにかくこれから逃げなければ、と思った。それ以外には何もなかった。

 仲間があげるこの世のものとは思えない叫び声を背中で聞きつつ、なんとか逃げ果せた景順他数名だけが四方に山を駆け下りた。

 あの場に残らざるを得なかった奴らがどうなったかは知らない。おそらくもう、鬼に食われてしまっただろう。散り散りになった仲間にも会わなかった。既に歯牙に掛けられたのだろうか。なぜ悪霊が追って来なかったのかもわからない。もしかすると、振り向けば背後から襲いかかってくるかもしれない。

 恐怖に頭は思考を止め、体だけが必死に生きようとした。



 走り続けて景順はようやく山の入り口にたどり着いた。もう空にはほぼ月と星の光だけで数十歩先を見通すこともできなかったが、ここから先の道を行くにはその程度の明るさでも十分だった。

 おずおずと後ろを振り向く。匕首は追ってきてはいなかった。

 一度足を止めて膝に手をつき、肩で息をする。こんなにも生命の危機を感じたのは生まれて初めてだったし、あれほどまでに奇怪なモノを見たのも初めてだった。

 改めて山へ入る一本道を横目で見ると、それは冥界へ通ずる参道に見えた。いつの間にあんな異様な世界に迷い込んでいたのか。何かきっかけがあったのかもしれないが、一切思い浮かばない。

 もしかするとあの惨劇は最初から最後まで全て夢で、起きたら暖かい酒家の一室で布団に包まっているのかもしれない。次々に強奪した宝の山が運び込まれ、また今夜も飲んで食って騒いで――。本当にそうなら、どれだけ良かっただろうか。

 左腕の傷が痛んだ。

 これが現実だと告げていた。

「くそったれ」

 思わずぼやいた。夢でないのならなんだったというのだろう。刀が世の理を無視して浮き上がり、人を殺したのが現実だとでもいうのか。道を外れた現実と夢と、何が違うというのか。

 深くため息をつく。吐息は白い煙となって景順の周囲を漂い、走りに走って湯気を迸る体がぶるっと震えた。

寒い。

 自分の装束が季節に似つかわしくないものだとようやく気づいた。どこで上着を脱ぎ捨てたのかすら全く覚えていないが、間違いなく山中のどこかに放ってあるのだろうそれを今更取りにあの地獄へ舞い戻るつもりなどさらさらなかった。

 とにかく人を見つけてどこかの家に入れてもらおう。そう思い立ち、痛む左腕を擦りながら早足で歩き出した。怨霊が追ってこないということは地獄からは抜け出せたのだろう。それでもここはあまりに寒いし、心細い。

 広い山道へ至る道は左右を田園に囲まれており、薄明かりの下にはしばらく前に刈り取られた稲が等間隔に並んでこちらを眺めているのが見えた。畦道は端に雑草こそ生えているものの、糞拾いが路上の糞を残らず集めているからか山中に比べればよほど綺麗なものだった。

 禮朴村では各々の田畑の傍の家があるのではなく一箇所に固まって集落を形成しているため、山を抜けても人気はまるでない。獣が作物を荒らそうが無抵抗なのはどうかとも思ったが、もう一月すれば井戸も凍るようなこの土地では自然とお互いの助けが必要になるためそういった仕組みが出来上がった、と流れてきた当時に聞いたのを思い出す。

 季節通りの木枯らしが吹いて、冷たい空気が景順の体にまとわりついた。

「あぁクソ、いてェ」

 夜気に晒された左腕の痛みは収まるどころか増してきていた。

 それを覆う掌は血でべっとりと濡れて、外の寒さにどろりとした生暖かさが自分のものなのにむしろ気持ち悪かった。足元には右手から溢れ出した赤が肘から落ちて畦に小さな花がいくつも咲いていた。こんな出血でよくここまで来られたものだ、と――

「……あ、れ……?」

 違和感。

 そっと手を離し、駆け足はそのままに二の腕を見てみる。傷口は皮膚の下までぱっくりと割れていた。

 そこから溢れ出るぬるい液体が割れ目に沿って流れていく。

 おかしい。

 なぜだろう。

 なぜ、今まで気付かなかったのだろう。

 傷を受けた時は、こんなに大きく切れてはいなかったはずだ。

 間違いない、少し皮を裂く程度のものだった。

 血も滴るほど流れてはいなかった。だからここまで逃げてくることが出来たのに。

 走っている最中に悪化したのか。激しく動いて傷口が大きくなることはあるだろうが、横に広がるならまだしも裂傷は明らかにその深さを増している。

 足を止めてゆっくりと見てもやはり気のせいではない。

 毛という毛の逆立つ感覚が景順を襲った。

 取り戻したはずの思考を再び捨てて全速力で駆け出した。腕を庇っていた右手は前後に振られてもはやその役目を忘れ、左肘からは一層大きな血の粒が流れ落ちた。草履の鼻緒が切れて脱げ、裸の足袋裏が小石でいくつも切れた。そんなことを構いもせずもがくようにして前へ前へ景順は進む。

 もう地獄からは逃れたんじゃなかったのか。山を降りてもまだあの世界は続いているのか。それともあちらから追ってきたのか。一度捉えかけた人の血を逃さないように追ってきたのか。

 恐怖に口の中がカチカチと音を立て始めた。ゆっくりと視線だけで右と左を見回すと稲の残骸が暗闇でケラケラとこちらを笑っていた。

 とにかく誰か、誰か助けてくれ。心のなかで叫ぶ願いは、もはや言葉にならなかった。

 前から再び木枯らしが吹いて、稲達の視線が一斉に景順の後ろを向いた。

 景順も走りながら恐る恐るそれに習った。

 習ってしまったのが悪いのか、その時にはもう遅かったのか。


 月明かりの下、両手にあの悪霊を携えた細身の男が。

 こちらへ向かって来ていた。


「う、あああああああああああああああああああああああああ」

 やはりあれは人ならぬものだったのだと改めて確信を得た。這い出たはずの地獄はまだ終わっていなかったのだ。

 腰が抜けてその場に尻餅をついてしまう。錯乱した体で幻覚を振り払うように両手を振り回しながら尻だけで後退る。男はその間にもゆったりとした歩幅で景順へと近付いてくる。

「あああああああああやめ、あああああ、あっ」

 下がりすぎて畦の土手から枯れ果てた田圃の中へ一回転して落ちた。視野が土色でいっぱいになる。頭を打っても痛みは特になかった。痛覚を恐怖が支配しきっていた。

 起き上がり逃れようと下半身だけで這い回るが足音は徐々に近くなっていく。足はその場の土を蹴るだけで後ろに進もうとしても刈られた稲が背中を掴んで離さない。もう逃げられない。

 男が畦から田の中へ身軽に飛び降りた。一歩また一歩と近付いてくる度左腕の傷は痛みを増し、恐怖と激痛で涙と鼻水と脂汗と小便とが身体中から流れ出た。

「やめ、やめ、」

 男が黒刀を振り上げた。

「あああ、ああああああぁ、」

 それを振り下ろしながら投げてこちらの方へ寄越した。

 適当に投げられた匕首は空中で姿勢を自ら立て直し、切っ先をまっすぐにこちらへ向けながら飛んできた。

「むぅあ、ああああああ」

 反射的に両腕で左胸から首までを隠した。それでも黒刀はまっすぐに獲物を捉え、そのままの勢いで右の腕に深々と突き刺さった。

「ああがっぁ、あああ、あああぁぁぁぁ」

 右腕を焼けるような痛みが襲った。左の二の腕からは依然として血が溢れていて、その傷口は少し前よりも明らかに広く深くなっていた。

 突き立った黒刀は獲物を殺せなかったことに不満なのか、胴をめがけて進もうとしてじわりじわりと腕の肉を切り開いていた。顔面をあらゆる液体と土で汚しながらも苦痛から逃れようと景順はそれを無理やり引き抜いた。

「はぁ、あぁ、はぁ、」

 それを男にも届かないようなどこかへ放とうと、とっさに考えた。

 黒刀を逆手に持った左腕を振り上げる。

 全力で横向けに投げようとした。

 腕はそこから動かない。

 どころか、その掌はぐるりと回転してこちらを向いた。

 そして景順は、自らの手で自らの胸に黒刀を突き刺した。



 上々だ、と牙は思った。

 あの胡散臭い刀鍛冶の爺と呪術師の婆の腕は本物だった。

 俯けに倒れている大男の体を蹴って仰向けると、その胸から黒い匕首を引き抜いて血を振り払う。晴れて雌雄一対となった白黒の匕首を尻の上にある鞘へ収めた。

 屍体を一瞥して、土手を踏みしめながら畦道へと登る。冷たい風が着物をはためかせた。

「終わったぞ」

 暗闇にそう一つ声を掛けると、反対側の田圃から腰の曲がった小さな老人が這って登ってきた。

 よっこらせ、と根が強い雑草に手をかけて自分の体を引き上げ、衣服に付いた泥や砂を手で振り払いながら、

「……さて、お幾らでお買い上げいただけますかの?」

「銀二枚」

「またまたご冗談を」

 老人はヒッヒッヒッ、と汚く笑いながら牙の目を見据えた。

「幾ら取る気だ」

「そうですなぁ……銀五枚でいかがですかな?」

 牙は無言で老人を睨みつけたが、全く動じる気配はない。こちらもそんなに吹っかけられようと簡単に応じるつもりなどない。死んでも金は地獄に持って行けないぞと思わなくもないが、相手の都合など気にするものでもないので口には出さなかった。

 老人は嗄れた声で、

「考えてもみてくだせェ旦那ァ、こんな仕事が出来るのは燈広しといえどもワシらしかおりますまい。あの夫婦(めおと)匕首はワシらの作ったモンの中でも一等の傑作なんでさァ」

 それは間違いない。

 いくら人を斬っても刃こぼれせず、白は黒の傷を、黒は白の傷を地の果てまで追い掛ける呪いの匕首。確かに凄腕の鍛冶屋と呪術師の息がぴったりと合っていなければ出来ないだろう。

「いやワシはね、二枚でもええとは思っとるんです」

 老人は目を伏せながら神妙に呟いた。

「ええんですがね、婆が煩いんですわ。まぁワシらも一応商売でやっとるもんでね。その場合はもっと高く買ってくれる客を探してちょっと西の方へ旅にでることになるかもしれやせんなァ」

 そう言ってニタリと口元の左を歪めた。

 ふぅ、と一つ息を吐く。

「四枚だ」

「毎度あり」

 懐から銀の入った巾着袋を取り出すと、一枚だけ抜いて投げてやった。老人はそれを取り損ねて何度かお手玉をした後、しっかとそれを握り締めて下品な笑みを浮かべた。

「また頼んますぜェ、旦那」

 そう言い残して小さな体でスタコラと走り去った。

 牙も宿にしている酒家へゆっくりと歩いて行った。

 辺りは暗闇に包まれ、聞こえるのは蝙蝠の鳴き声だけだった。

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