そのきゅう
関本が病院にたどり着いた時には全てが完了していた。
「手術は成功しました」
ちょうど手術室から出てきた医者が家族にそう伝えた。
「まだ危険な状態には変わりありませんが、あの年齢での体力なら持ちこたえることができるでしょう」
「ありがとうございます!」
父親が深々と頭を下げ、母親は嬉し泣きでさらに涙を流した。
「亜季さん!」
「笑美ちゃん……!」
その傍らで、二人の少女が抱き合う。妹の方は今にも涙腺が決壊しそうな状態だ。一方の少女は、医者の言葉が信じられないとでもいうような表情を浮かべている。
それはそうだ。
少女はおそらく、少年の寿命を知っていた。
運命が覆された。
それはあってはならないことだ。
あの少年は事故で死ぬはずだった。それなのに、少年は助かった。『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』を取り出して確かめてみたが、そこには少年の命日はずっと、何十年も先であることを示しているだけだ。
あってはならないことが起きてしまった。
しかも、たった一人の死神の手によって。
「部長……」
背後から声がかかる。振り向けば、竹中が真島に肩を支えられて立っていた。だが彼女は足に力が入らないかのように、ようやく立っている状態だった。
「すみません……高鬼を……止められませんでした……!」
今にも泣きそうな声音だった。
関本はそっと手を伸ばし、自分より高い位置にある頭を撫でてやる。
「いや……いいさ。相手が悪かった」
あの高鬼が相手では、どれだけ優秀な天使でも敵うはずがない。
頭が悪いくせに変なところで知恵が回るのだ、あの天才は。
そう言えば、と首を巡らす。
少年の無事を喜びあう家族の向こうに、ひっそりとその姿はあった。
よれよれのスーツに猫背。一人の冴えない男が壁に寄りかかって床に座り込んでいる。だが普段の疲れた表情はなく、細く微笑んでいるように見える。
まるでそこにそうしているのが当たり前のような、自然な姿だった。恐ろしいまでに、存在が感じられない。そこにいるのに、どこにもいないような。
高鬼はゆっくりと、眠るようにそこにいた。
魂が消えかかっている。
少年を助けるために、自身の魂をかけた死神がそこにいた。
「……ったく」
関本は舌打ちし、静かに近づく。
高鬼はまるで偉業を成し遂げた職人のような、穏やかな表情を浮かべていた。
「なーに満足そうなツラして死んでやがんだ……ばーか」
関本は高鬼と出会って初めて、彼のことをそう呼んだ。
「本当によかったのですか?」
不意に問いかけられ、青鬼は思わず聞き返した。
「よかった、とは?」
「……いえ、その……わたしとしては、あの子が亜季のそばにいてくれるなら安心して逝けるんです。ですが、そのせいであなたのご友人が……」
「つまり高鬼君があの少年を助けるのを止めなくてよかったのか、と言うことですか?」
「……はい、そうです」
躊躇いながらもしっかりと頷かれ、青鬼は苦笑いする。
「そうですね……うん、一人の死神としては、あそこで彼を止めるべきだったんでしょうね。でも私は、死神であると同時に――彼の友人ですから。彼が自分でやると決めたことに口出しするほど、野暮ではありませんよ」
「そうですか……」
「そうですよ。ですからそれほど気にすることもありません。私は彼を信じていますので。――と言えばいささか、私は友人の死を簡単に受け入れてしまうような薄情な女に聞こえてしまうでしょうか?」
青鬼は自嘲気味に微笑む。
「私達も、別に何も対策を施さずに彼を野放しにしたわけではありません。後はうちの社長に任せることにしましょう」
「はあ……」
「それでは、逝きますか」
青鬼は向き直る。
小林夏美は躊躇いがちに、頷いた。
白く、見渡す限り何もない空間に、一人の男が漂っていた。
漂うとは文字通りの意味で、そこは上下左右前後の感覚はもちろんのこと、重力や時間の感覚も感じられなかった。
高鬼はそこで腕組みをして目を閉じて静かに漂っていた。
「これは……失敗したってことなのか……?」
前回の試みは明らかに失敗だった。だが今回は失敗とも成功とも取れない状況だ。何せ高鬼の弾き出した理論では、成功と同時に魂が消滅するはずなのだ。
「けど今現在、俺はこうして意識はあるんだよなー。どことも知れない空間にいるけど」
試しに声に出して考えを読み上げてみたが、当然ながら何も変わらない。白い空間は白いまま、高鬼を漂わせている。
「しかしま、俺の残りの死神としての余命はしっかり一樹君に流れ込んだのは確かだし。うん、これは成功なんじゃないかな。不測の事態が起こったぐらい、技術屋としてはドンと受け止めなきゃな」
ま、俺は技術屋じゃないけど。
「つか、結構寿命残ってたんだな、俺……一樹君、長寿になっちゃったよ」
こりゃマジで、本来ならドクロの変装がいらなくなるまで死神を続けるハメになっていたのかもしれない。
「しかし……暇だな。時間感覚のない分、いくらかマシだろうけど」
もしこの状況で時間感覚が正常に生きていたら、それこそ地獄だろう。何せこの空間には文字通りの意味で何もない。暇つぶしはおろか、脱出の手がかりすら何もないのだ。
あるのは、冴えない元死神の意識だけ。
「うーん……欲しいものを口にしたら出てこないかなー」
ためしに言ってみる。
「飯!」
無反応。
「酒!」
応答なし。
「それじゃ、テレビ!」
手応えなし。
「の、飲み屋のお姉ちゃん!」
虚しいだけ。
「ええーい! 分かった、贅沢は言わない! 話し相手なら誰でもいい!」
「――呼んだか?」
返事があった。
「うおっ!?」
いつの間にか――本当にいつの間にか、そこに人影があった。
まるで天地開闢以来、そこにそうしていたかのような堂々とした姿。黒い袴に羽織、手に杖を持った仙人を彷彿させる老人。
「しゃ、社長!」
「――うむ」
コツンと、閻魔は杖を鳴らした。
……一体どこを叩いたんだ?
「あー、と……社長、お久しぶり……でいいんですか? ここ、時間の感覚がなくて分からないんですけど」
「――それほど……いや、お主ら若者の感覚ではずいぶん経ったのかも知れんのう。ざっと一ヶ月と言うところじゃ」
「はあ……」
この歳になって若者と呼ばれるとは思いもしなかった。と言うか、一ヶ月がそれほどって、ホントこの人、歳いくつだよ。
「それで社長、ここどこですか? 俺の理論だと、アレをやってすぐ魂は消滅するはずなんです。こんな空間に放り出されるなんて、予想外もいいところですよ」
「――まあ、そうじゃろうのう」
閻魔はしわくちゃの顔を歪めてニヤリと笑った。
「――お主のアレは、成功じゃが失敗ということじゃよ」
「は? 成功だけど失敗?」
「――そうじゃ。お主があの少年にアレをやったことで、確かにあの少年の寿命は延び、運命が覆された。じゃが、あの少年の運命が覆されるのと、お主の魂が消滅するのには僅かではあるが、刹那ほどの時間差があった。そこで儂がお主の時間を止め、魂の完全消失の一歩手前で食い止めたのじゃ」
ニヤニヤと笑っていたシワ顔が一変し、鴉のような鋭い目がじろりと高鬼を見据える。その眼光に射抜かれ、高鬼は身動きが取れなくなる。
「――やってくれたの、若造」
言葉に物理的干渉力があったなら、高鬼はその一言で押し潰されていたかもしれない。
だが高鬼は、脂汗が頬を伝うのを感じながら、回らない舌を懸命に動かした。
「……っ、お、お言葉ですが社長……! 俺は社長の言葉に従い、自分の意思に従い、行動したのです……! 言わば、社長は俺の背中を押したも同然のはずです……!」
「――それもそうじゃの」
と、閻魔は溢れ出る圧力を一瞬で引っ込めた。
「へっ!?」
あまりにも拍子抜けで、高鬼は何もない空間でバランスを崩した。
「――お主の時間を止めている間に、裁判が執り行われた。時間を止めたのも、本来は裁判を行なうためじゃったからのう」
高鬼には目もくれず、閻魔は話を続ける。
「――罪状は……分かっておるな?」
「はい……」
高鬼の返事に、閻魔は小さく頷く。
「――当初、停止している時間の再生に伴う、魂の消滅による死刑が求刑された」
まあそうだろう。アレを再度実行に移す前の高鬼も、成功や失敗に関わらずそれが妥当だろうと理解していた。
だが当初と言うことは、
「――儂と青鬼を始め、何人かの死神がお主の弁護に回ってな。魂消滅による死刑は取り消されたのじゃ」
「え、それじゃあ……!」
「――うむ。魂消滅は回避される」
変わりに、この何もない空間に永遠に閉じ込められるのか。
地獄だ。
事の発端の日、赤鬼が言っていたことが思い出される。
――お前を本当の地獄に送ってやる。
あの人、先見の明があるんじゃないか?
「――じゃが、その判決も却下された」
「はい!?」
何なんだよ!
「――美佳ちゃんの紹介でな、お主の弁護人として招聘された一人の天使によって、さらに覆されたのじゃよ。いやー、まさかあの美佳ちゃんが儂に頼みごととは、嬉しい限りじゃのう」
何やらホクホクとしている閻魔。
「天使……?」
「――関本じゃよ」
「あいつが?」
もう俺には関わりたくないんじゃなかったか?
「――そう。あやつが発した一言で、お主の処分は決した」
閻魔はその処法を静かに高鬼に告げた。
その方法を聞いた途端、高鬼はヤレヤレと首を振らずにはいられなかった。
「まったく、あいつらしいや。俺の嫌がること、欲してること、必要なこと、全部分かってるんだもんなー」
「――ちなみに裁判員は全員一致で承認じゃよ」
「でしょうね」
思わず苦笑が洩れる。
そうかなるほど。
「それで社長自らお出でになったわけですか」
「――まあ、の。コレをやれるのは、お主の時間を止めておる儂しかおらんしのう」
「それで、今すぐですか?」
「――ああ、今すぐじゃ」
よし、と高鬼は頷いた。
もう思い残すことはない。
甘んじて、大切な旧友が用意してくれた刑を受けるとしよう。
「社長」
「――うむ?」
「あいつに……関本に『ありがとう』って、伝えてください」
「――委細承知」
コツコツと杖を二回鳴らす。
高鬼はそっと目を閉じる。白い空間が瞼で黒く覆われる。
次に目を開けるときは、一体どうなっていることやら。
高鬼は不安よりも期待が大きく心に宿っていた。