そのはち
少年は駈け出した。
自分の死を語り、少女があそこまで取り乱すとは全くの予想外だった。
きっと、天使も死神も、誰も教えなかったのだろう。
天使はあくまで事務的だったし、死神は文字通りの間抜けだった。
十分に予想できた。
追わないと。
少年はただその思いのみに駆り立てられ、少女の背中を追った。
少女はもう、周囲が見えていないらしい。
何人もの人とぶつかりながら、怒鳴られながら、ただひたすら走り去る。
少年は追った。
途中何度か見失いかけたが、それでもしっかりと少女の背中を追い続けた。
そして見た。
少女が道路のど真ん中で転んだ。
すぐに立ち上がらない。
すぐそこまで、トラックが来ている。
「亜季っ!!」
少年は少女の名前を叫ぶ。
トラックがクラクションを鳴らしたのはその直後。
どうやら死角に入って気付かなかったらしい。
少女はのろのろと立ち上がる。
恐ろしいほど緩慢で、ゆっくりとした動きだった。
ダメだ。
間に合わない。
少年は一息で少女の元に駆け寄る。
だがトラックはすぐそこまで来ている。
ブレーキでタイヤが焦げる臭いがする。
しかし、やはり間に合いそうもない。
どうやら自分も助かろうなんて考えは甘いようだ。
まあどの道、今日が命日なんだから変わらないか。
少年は勢いをそのままに、少女を突き飛ばす。
少女が歩道に倒れ込み、ポカンとこちらを見つめる。
ああ、よかった。
ギリギリセーフか。
なら、こっちもギリギリセーフだといいな。
少年は口を動かす。
声が出たかどうかは定かではない。
だが想いはしっかりと伝える。
大好きだったよ。
瞬間、全身に衝撃が響く。
激痛なんて生温いものじゃない。
天地が逆になり、重力が感じられなくなる。
遠のく意識の中、視界の隅にスーツに身を包んだ女性が見えた。
三人組の天使のうち、背の高い方だった。
ああ、そうか。
少年は理解した。
俺はこんな風に死ぬのか。
その瞬間。
少年の意識は弾け飛んだ。
ベッドでゴロゴロとだらしなく雑誌を読んでいた少女の元に、一本の着信が入った。
ケータイのディスプレイを見ると、つい最近知り合った少女の名前が浮かんでいた。
母親を亡くした少女。
つい最近、少女も線香を上げに行ったばかりだ。
「はいもしもし」
顔をあげ、ケータイを耳に当てる。
『………………』
「もしもし?」
何も聞こえない。
まさかいたずら電話のわけはないと思うが。
「もしもし? 亜季さんどうしました?」
『……ぅ…………っ……』
ケータイの向こうから、微かな嗚咽が届いた。
「もしもし亜季さん!? 大丈夫ですか!?」
慌ててベッドから跳ね起き、姿勢を正して叫ぶように呼び掛ける。
これはただ事ではない。
「亜季さん落ち着いて、何があったの!?」
『…………か……か、ずきが…………一樹がぁっ……』
「お兄ちゃん!? お兄ちゃんがどうしたの!?」
少女の背中を嫌な汗が伝う。
嫌な予感がする。
嫌な予感がして仕方がない。
嫌な予感しかしない。
『……い、今すぐ……病院に…………一樹が……トラックに……!』
「え……?」
少女はケータイを落としそうになった。
電話口で言われた言葉が一瞬理解できなかった。
だが少女の耳に、また別の声が飛び込んできた。
「笑美! 出かける支度をしなさい!」
部屋の扉を割らんばかりの勢いのノックが響く。
普段はふざけていて、緊張感のない父親の声に鬼気迫るものがあった。
ああ、本当に。
少女はようやく事態を理解した。
兄の身に何が起きたのか。
少女は呆然と、手近にあったパーカーに手を伸ばした。
辺りが慌ただしい。
現場にはギリギリで間に合わなかった。
男は消毒液の匂いが染み付いた廊下を駆け抜ける。
男は少女の母親を救えなかった。
少女の心の支えであった母親を。
今また、少女の心の拠り所となった少年が消え去ろうとしている。
それだけは避けなければ。
例え、命に変えてでも。
それが、男の出した答えだった。
別に死にたいわけではない。
だがけじめはつけるつもりだ。
あの夜、誤って少女に声をかけなければ、あれほど少女の心が揺れ動くことはなかったはずだ。
結果として瀬戸際ではあったが母親と和解し、生まれて初めての恋を体験した。
だがその双方とも相手が死ぬとは、いくらなんでも運命とやらは酷すぎる。
きっと八回生まれ変わっても運命とは分かり合えないだろう。
「ど、どこに行く」
男の耳に、女性の声が届いた。
振り返ると、スーツに身を包んだ背の高い女性が立っていた。
三人組の天使のうちの一人。
残り二人は今も男の自宅の前で張り込みをしているはずである。
だから一人しかいない。
「お前はまた、アレをやろうというのか」
女は汚いものを見るような目で男を見据える。
ふと、男は違和感に襲われた。
この女とはそれほど接点があったわけではない。
だが明らかにどこか挙動不審で、落ち着きがない。
男の友人の優秀な部下である彼女が、うまく隠してはいるものの、動揺している。
ああ、そうか。
「ねえ、君」
静かに呼び掛ける。
「君はもしかしたら、人の死を初めて目の当たりにしたんじゃないかな?」
ピクリと、ほんの少し、女の瞼が動いた。
ああ、図星か。
友人の話では、彼女は主に情報収集などの後方業務に当たることが多かったらしい。
だからキャリアはそこそこ積んでいても、実際に死を見るのは初めてだったのだ。
「だったら無理はしないほうがいい。誰でも最初は辛く、苦しいものなんだ」
「う、うるさい!」
女は叫ぶ。
だがその声は動揺で揺れ動いている。
ああ、俺にもこんな時期があったな。
もうずいぶんと昔のことだが。
あの頃は友人三人集まって、勧誘した魂の冥福を祈って杯を傾けたものだ。
もうあの頃には戻れない。
「ねえ、君さ。俺がこれからやること、黙って見逃したりしてくれないかな?」
「そんなことできるわけないでしょう!?」
「うん、そうだろうね」
男はヤレヤレと首を横に振り、一歩近づく。
反射的に女は一歩後ずさったが、それより速く男が距離をつめていた。
トン、と。
男は軽く女の額に触れた。
途端に。
女は腰を抜かしたように廊下に座り込んだ。
「え、な……?」
「ああ、どうやっても動けないから。少なくとも後三十分かなー。ちょっとツボを押しただけだから害はないよ」
「こ、こんなこと……!」
女はどうにかこうにか立ち上がろうとする。
だが足どころか、指先一つ動かせない。
「こんなことがありえるか……!」
「んー? あれ、知らないんだ」
男は苦笑いを浮かべる。
「俺、これでも大学時代は非現実科学が専攻だったんだよ?」
他は何にもできないけどね。
「老婆心ながら言わせてもらうけど、君は俺みたいになっちゃダメだよ? 君は天使にしては感受性が強いみたいだからね。ま、反面教師もいいところだけどさ」
そう言い残し、男は静かに歩き去る。
向かうところは――手術室。
そこに横たわるは――一人の少年。
もうどれくらい経ったかもわからない。
少女は延々と手術室前のソファーに腰掛けている。
遅れて到着した少年の家族も、少し離れた所で祈るように手術中のランプを見つめている。
でも少女は知っている。
少年が助からないことを。
運命は覆ることはないということは、自身の母親で体験済みだ。
天使だろうと死神だろうと、運命には抗えないと言うことだ。
ましてや人間など、話にならない。
視線を少年の家族に向ける。
父親はブツブツと何やら呟いている。
時折、この親不孝者、とノドの奥から搾り出したかのような悪態が洩れる。
母親はひたすら泣いている。
その涙は途切れることはない。
妹はただ呆然と手術室の扉を見据えている。
そこから、無事な兄の姿が出てくると信じているかのように。
それに比べ、自分はどうだ。
運命を知っている。
それだけで全てを悲観し、諦めかけている。
そんなことは間違っても家族には言えない。
言えるわけがない。
息子の、兄の無事をただひたすら祈る家族に。
少女の心に、小さな炎が灯った。
無茶かもしれない。
無理かもしれない。
それでも、無駄じゃないかもしれない。
少女はそっと胸に手を当てる。
そして少女もまた祈り続ける。
少年の無事を願うのは家族だけではない。
想い人もまた然り。
少女は運命に抗うと心に誓った。
ふと、視線を感じた。
顔を上げ、廊下の奥を見る。
そこに、ボンヤリと人影が見えた。
あれは……!
人影は少女に微笑み、語りかける。
遠すぎるからか、はたまた声が存在しないのか、少女の耳にその言葉は届かない。
しかし炎の灯った心にはしっかりと響いた。
――頑張って。
うん。
頑張る!
そして。
ありがとう。
お母さん。
元気出た!
来るなら来い、運命!
あたしは。
ううん!
あたし達は絶対に負けない!
だから。
無事でいて下さい。
早く目覚めて下さい。
みんな。
あなたの家族も。
そして。
あたしも。
あなたが目覚めるのを。
ずっと。
待っています。
ここはどこだろう。
暗く。
黒く。
何もない。
ああ。
これが死か。
俺は死んだのか。
あいつは無事だろうか。
そうでなくてはならない。
俺の運命にあいつは巻き込めない。
家族は泣いているのだろうか。
自分のヤバイDVDを息子の部屋に隠すようなとんでもない父親。
いればいるでウザったい父親だったが。
会えないのはやはり辛い。
息子の彼女を自分より可愛くないと豪語する母親。
顔を見るたびに皮肉の言い合いをする母親だったが。
会えないのはやはり苦しい。
ニヤニヤと兄の揚げ足を取ろうと常に企む可愛げのない妹。
何だかんだ言って家族の中で一番いやしい心を持つ妹だったが。
会えないのはやはり悲しい。
彼らは泣いてくれるだろうか。
そして。
彼女も泣いてくれるだろうか。
母親の死に涙を流した少女。
彼女は俺の死にも涙を流してくれるだろうか。
その時。
どこからか声がした。
――この、親不孝者……!
これは、父さんか。
まるで恨み事を吐くように呟いている。
親不孝者……そうだよな。
何も反論できない。
――一樹……! 一樹……!
これは、母さんか。
必死で祈るように、涙を流し続けている。
いつも強気な母さんが、あんなに泣いている。
だが俺にはその涙を拭ってやることすらできない。
――お兄ちゃんのバカ……!
これは、俺の妹。
バカとは何だバカとは。
小学校に上がるまで、「おにいちゃんとけっこんする」が口癖だったのにな。
まったく、最後まで捻くれたやつだな。
もう何もかもが、過去の思い出だ。
もう思い出すことしかできない。
もう――
「本当に、いいのかい?」
と、
「本当に君は死を受け入れるのかい?」
明らかに異質な声がした。
「本当に君は、生きることに満足してしまったのかい?」
声は語りかける。
「お父さんもお母さんも妹さんも、悲しませたまま君は死ねるのかい?」
何だ。
何を言っている。
「君はそれで、満足なのかい?」
うるさい。
俺はもう受け入れようと決意しているんだ。
だからあの子の告白も断った。
余命数時間の愛ほど、重い物はないじゃないか。
「それは君の勝手な解釈だ」
声は語り続ける。
「君は、あの子の気持ちを何一つ理解しちゃいない」
何だよ。
何だよ!
じゃあ、あんたにあいつの気持ちが分かるとでも言うのかよ。
「分からないさ」
でも、と声は続ける。
「君なんかよりかはずっと分かっている」
声は語る。
「さあ、耳を澄ましてごらん」
不意に、家族の声に混じって少女の声が聞こえてきた。
俺が初めて、本気で好きになった少女。
――みんな。
――あなたの家族も。
――そして。
――あたしも。
――あなたが目覚めるのを。
――ずっと。
――待っています。
少女は願う。
俺の無事を、ひたすら願う。
死の運命を知っていながら。
なおも。
俺の無事を願う。
「君は本当に、死を受け入れるのかい?」
声は再び語りかけた。
「君は本当に、生きることに満足したのかい?」
声は問いかける。
「君はもっと生きたいとは、思わないのかい?」
声は問う。
そんなこと。
そんな問いの答えは決まっている。
俺だって。
俺だって……。
俺だって……!
俺だって!!
みんなと生きていたいんだ!!
「うん、そうだよね」
声が笑った。
瞬間、暗く黒い空間に一筋の光が差した。
その先は遠く、しかし明るかった。
「だったら、君はこんなところにいちゃいけない」
声は語る。
「さあ、ここからは君の新しい人生だ」
光の先が天国とは限らない。
「それでも歩き続けるんだ」
生きるために。
「幸せになるために」
俺は歩き出した。