そのなな
人の死が、意外なほど安いということを亜季は知った。
火葬のための費用は亜季の想像の遥か下を行き、葬式も身内と、ごく少数の友人だけの質素なものにしたためそれほど大金というわけではなかった。
上京していた冬斗も帰り、父親を中心に行なわれた。
その間、亜季の表情は終始、無、であった。
母親の死に号泣するでもなく、空元気に笑うでもなく、ただひたすら無表情であった。出棺や納骨の瞬間は多少表情が曇った。
だがそれだけだった。
夏美の友人達は親子間の不和を知っていたためか、陰で夏見を指差し噂した。
実の母親が死んだのに泣きすらしないなんて。
ちょっと情が薄いんじゃない?
夏美さん可愛そうに。
「あんた達に何が分かるのよ……!」
亜季は呟き、唇を噛み締める。
泣けないほどの悲しみに陥っているあたしの気持ちが……!
「よろしいですか?」
不意に、背後から声をかけられた。
公園のベンチに腰掛けたまま振り返ると、すぐ後ろの木の陰に一人の女性が立っていた。シワ一つないビジネススーツに整った美貌。凛とした雰囲気の漂う彼女はまさに『デキル女』だった。
「……誰ですか」
「高鬼亮君の同僚、と言えば通じますよね」
「……! 死神!」
「青鬼京香と申します。隣、よろしいですか?」
そう言って女性――青鬼は音もなく、優雅にベンチに腰掛けた。
「まずは謝罪から……この度のうちの死神による、あなたのお母様の魂の冒涜の件、大変申し訳ございません」
「え……魂の冒涜……?」
何のことだ。
分からない。だが想像はできる。
「はい。高鬼君――あの死神が用いた技術は地獄株式会社、いえ、天国株式会社を含めたあの世ではタブーの中のタブーなのです」
「タブー……」
「はい。あなたはアレがどのようなものなのかご存知でしたか?」
「い、いえ……知りません」
「そうですか……ではお教えしなければ」
そう呟き、青鬼は静かに語り始める。
「部長、一ついいですか?」
「何だ、真島」
とあるボロアパートの真正面の壁にもたれ、アンパンと牛乳を黙々と口に運んでいた関本に真島は恐る恐る尋ねた。
今日は珍しく竹中はいない。と言うのも、今日は関本たちが勧誘している少年の死亡予定日であり、緊急の仕事が入った関本と真島は竹中を少年の元に残して別行動を取っていたのだ。
「俺達、何であの人――高鬼のことを見張ってなきゃいけないんですか?」
「……何度も言わせるな」
関本は残ったアンパンを牛乳で流し込み、不機嫌丸出しで真島を睨みつける。
「あいつがアレをやっちまったから、冥界裁判所に呼び出し喰らって、近いうちに裁判が行なわれることになったんだろ。んで、あいつが逃げ出さないように少しは親しかった俺に見張りの仕事がタライ回しで回ってきたんだろ。お前は俺に何かあったときのためにっつって、補助で一緒にこっちに放り込まれた、分かったか」
「まあそれは分かってるんですがね……その……根本的なこと、一個訊いていいっすか?」
「何だ」
「俺、前に部長からアレのことは少し聞きましたけど、天使として生きてきてそんな方法があるなんて知らなかったんすよ。それで、こう言っちゃあ何ですが、何だって部長と高鬼はアレを知ってたんですか?」
しばらくの間、沈黙が続いた。
こりゃ答えてくれる雰囲気じゃないな、と真島は諦めた。だが以外にも、関本は重々しくはあったが口を開いてくれた。
「……別に俺達だけじゃない。天国・地獄の両社長と黄泉大学の学長――それに一般社員じゃ同期の青鬼も知ってる」
「青鬼、さんって……確か地獄の?」
「ああ。お前も会ったことはあるだろう」
真島が入社した際、歓迎会と称して関本の奢りで呑みに行った。その時、どこからただ酒の匂いを嗅ぎ付けたのやら、高鬼に引っ張られて青鬼も同席したのだった。
確かその時は、年齢の割りに若く、清らかな女性という印象を持った。
「ところで真島。お前、高鬼と真島の印象を一言で表してみろ。第一印象ではなく、多少の付き合いや噂も含めた偏見を持って、な」
「は、はあ……そうっすね……」
真島は少し考え、自分の思ったことを素直に口にした。
「青鬼さんはやっぱ、『天才』ですかね。あの人の有能っぷりは、天国まで届いてますしね。んで高鬼は……あー、こう言っちゃ何ですが、やっぱ『馬鹿』ですね。卒論の提出し忘れで大学を卒業できてない辺りがもう、決定的です」
「……ハッキリ言うんだな。だが……ふん、なるほど」
関本は皮肉たっぷりの目つきで真島を見据える。
「おめでとう。お前は世間一般の評価に流されやすいタイプだな」
「はい?」
「連中と長い付き合いのある者なら、そんな印象は持たないさ。俺から言わせれば――青鬼は『天才』ではなく『秀才』だ。そして高鬼は……あいつこそが『天才』だ」
真島は自分でも間抜けな表情を浮かべているのが分かった。
何を言っているんだこの人は?
よりにもよって、あの高鬼を『天才』と評した上司に失笑した。アレが天才なら、世の中のものは全員化物だ。
関本は続ける。
「青鬼も、強いて言うならあいつは『努力の天才』だ。何もあいつは昔から優秀だったわけじゃない。むしろ成績は中の下だ。大学も、お情けで入学したようなものだ」
「え、あの青鬼さんが?」
「そうだ。そしてあの高鬼は――大学に推薦で合格している。非現実科学と現実科学両分野の『天才』としてな」
「え、ちょっ……現実科学はともかく、非現実科学ですって? あ、あれは確か……」
あれは確か、古今東西の呪術的なオカルト分野と現実的なサイエンスを織り交ぜた、ただただややこしいだけの学問だ。真島の友人にも酔狂にも非現実科学の分野を大学で学ぼうとした者は何人かいるが、その全員が単位を修得できずに中退している。
そして真島の記憶では、高鬼は卒論の出し忘れで大学を卒業できていない。
それはつまり、非現実科学を含めた全ての単位を修得していることを指す。
「ついでに言うとな、俺達が使ってる『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』な。これも原形は高鬼が考えたものだ」
「え? でもこれ、高鬼のやつは知らなかったじゃないですか」
「……まあ天才ってのは、特定の方面には強いけど、その他のことに関しちゃ無能もいいとこだしな。特にあいつは物覚えが悪い」
「まあそれは分かります」
「それに、そもそもこれはやつが課題レポートの裏の落書きが原形だからな。書いた本人が忘れていても不思議ではないか。まさか『こんなんがあったら便利じゃね?』的なノリで書いたものが、まさか二十年後に商品化されるとは夢にも思わなかったろうからな」
つまり俺達はそんなテキトーな発案から生まれたものを使ってるんすか。
そう突っこみたかったが何とか飲み込んだ。
「で、でも部長。部長はいつも高鬼と顔を合わす度にやつを馬鹿にしてたじゃないですか」
「ん? お前にはそう見えたか?」
関本は冷ややかな視線を真島に投げかけた。
「言っとくがな。俺はあいつをおちょくることはあっても――バカだと言ったことは一度たりともないぞ」
そう言えば……。
真島は息を呑む。
「それにな」
関本は目の前のボロアパートに目をやった。
「あいつ、実は卒論自体はちゃんと提出してるんだよ」
「え……?」
「あいつの卒論のテーマに問題があった。あの世もこの世も、全ての世界をひっくるめて混沌に陥れてしまうような、禁忌のテーマだった。だから黄泉大学学長及び天国・地獄寮株式会社社長の手によって、提出はなかったことにされたんだ」
「禁忌……」
「いや、それだけならまだいい。その程度のことを文章につづるならまだ釈明の余地があったろうさ。だがあいつはそうはしなかった」
ゴソゴソとポケットを漁る。そして関本は一枚のカードを取り出した。
そこには真っ黒くなるほどの密度で不可解な文字と記号が記されていた。
今回の仕事の発端となった、アレのためのカードである。
「あいつは卒論のテーマを裏付けるために、コレを作っちまったんだ」
真島は息を呑む。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息苦しかった。
「自身の魂を犠牲にして人間の寿命を延ばす技術。アレを開発したのも、死神・高鬼亮だ」
「高鬼が天才、ですか……」
「釈然としない、と言った感じですね」
青鬼の言葉を反芻する。
だが亜季にとって、高鬼が天才であるか否かよりも、高鬼があの時行なった延命術のようなものが、自分の魂を犠牲にするというものだと知り、そっちで頭が一杯になっていた。
「なんで……」
亜季は呟く。
「高鬼はそこまでしてお母さんを助けようと……」
「……亜季さん、死神として選ばれる人間の共通点って分かりますか?」
「え、いえ……」
青鬼はフウと息を吐き出し、困ったような表情を浮かべる。
「罪の意識、です」
「罪の意識……?」
ええ、と頷く。
「死神に選ばれる人間は生前、何らかの罪の意識を感じているのです。私も高鬼君も、あなたのお母様も」
「お母さんも?」
「はい。彼女の場合は……そう、あなたに対して。あなたはあたなだと分かっていつつも、どうしてもお兄様と比べてしまう。そのことに対しての、罪」
――ソノ妹ガソンナンデドウスルノヨ。
――オ兄チャンハモットシッカリシテイタノニ。
「そして罪の意識というものを感じる人間はほぼ例外なく……優しい心の持ち主ですよ」
自分で言うのも恥しいですがね、と青鬼は締めくくった。
「では、私はあなたのお母様を迎えに行きます。何だかんだであの世に送れていませんしね。高鬼君がアレをやらかしてくれたおかげで霊的磁場が乱れていますし、そちらの措置もしなくては」
「はあ……」
「それが終わったらお線香をあげに行きますので。それでは」
スッと、音もなく立ち上がる青鬼。そして姿勢のよい背中を亜季に向けて歩き出す。
その凛としたスーツの後姿を見て、亜季は声をかけた。
「あの、お母さんを……母をよろしくお願いします」
一度振り向き、青鬼はニッコリと笑った。
それは同性の亜季から見ても、惹かれるものがあった。
「しっかし、暇っスね」
「ああ、暇だな」
もう何時間、こうやってボロアパートを見張っているだろう。いい加減、逃げ出すのかどうかも分からない高鬼を見張るのも飽きてきた。アパートの壁のシミの数と位置も、今なら空で答えることができそうである。
すでに関本は四つのアンパン、真島は缶コーヒーを七本胃袋に収めている。
腹は重いし、胃も荒れる。
「つーか、本当に高鬼は逃げだすんスか? 不毛な心理戦を繰り広げているようにしか思えないんですが」
「そう言うな。俺だって疲れてんだ」
この会話もすでに二桁を超えるほど繰り返している。
関本もいい加減我慢の限界ではあった。だが二人に出来ることは何もない。
「いや待てよ」
関本はポケットに突っこみ、『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』を取り出す。
それは特注の赤いものではなく、スペアの至急品だった。先日の一件で、癇癪から地面に叩きつけてガラクタにしてしまったのだ。
「これを使えばやつの寿命が表示されて、中の様子が分かるんじゃないか?」
「おー、さすが部長。よく思いつきましたね」
「そう褒めるな」
普段ならここでもっと食いつくのだろうが、関本は真島の世辞を軽くスルーした。だいぶ参っているらしい。神速の如きスピードでボタンをプッシュする。
その間、真島は手持ち無沙汰に高鬼がいるのであろうアパートを見つめる。
当然ながら、相も変わらずオンボロである。
「何っ!?」
その大声に、オンボロアパートの壁が揺れたかと思った。
「ど、どうしたんスか?」
聴覚が麻痺してしまった。ほんの少し声が震えて聞こえる。
「あの野郎! やりやがったな!!」
「え、ちょっと!?」
いきなりダッシュする関本。その小さな背中を真島は必死で追いかける。その先とはもちろん、高鬼のアパートである。
「高鬼!!」
バコンと盛大な爆音を立て、『高鬼』の表札が下がった錆びた扉が吹き飛んだ。どうすればそんなことが可能になるのか、関本はアクション映画のように回し蹴りの一発で鉄扉を玉砕した。
「なっ!? ちょ、部長! これどうすんですか!」
「後で経費として落とす! いいから来い!」
無茶苦茶な!
今までも散々振り回されてきたが、今回はトバッチリが大いに降りかかりそうだ。いくらなんでも破壊したアパートの扉は経費では落ちないだろう。
真島が顔を青くしているのにも構わず、関本は土足(!)でズカズカと我が物顔で室内に踏み入る。混乱し切っていたが、真島はまだ理性は残っていたためきちんと靴は脱いだ。
「あれ?」
見れば、玄関には靴が一足もない。
途端に真島の背中に嫌な汗が噴出した。
部屋の中からは、人の気配が全くしない。そもそも、先ほど関本が扉をぶっ壊した時の騒ぎで隣室の住人が野次馬で近寄ってきていた。それほどの騒ぎであるはずなのに、扉を破壊された家の住人である高鬼が出てこないのはおかしい。
「ま、まさか……逃げ――」
呟きながら、一番奥の部屋に足を踏み入れる。寝室と思しきその部屋は散らかり放題で、いたるところにグチャグチャになったシャツや靴下が散乱している。その上、空の缶ビールや酒瓶までもが転がっている有様だ。
その散らかり放題の部屋の中央に、小さな卓袱台があった。
その上には空の焼酎のビンと中身の入ったままのチューハイの缶が並んでいる。その脇には、古ぼけた写真が立てかけてある。
関本はその写真を凝視したまま硬直している。
写真には、若い女性が二人、困ったような表情を浮かべている若い男を挟んで満面の笑みを浮かべていた。一人は背が高く、凛とした美しい女性。もう一人は小柄で、勝気な光を瞳に宿している。
紛れもなく、それは高鬼、関本、青鬼の同期三人組だった。
壁際に古臭いブラウン管テレビが置かれている。主電源は切られておらず、真島は卓袱台の下に落ちていたリモコンを拾い、テレビを点ける。
何やらビデオテープが入っている。再生すると、どこかで見覚えのある光景が映し出された。
『えっと……じ、次週をお楽しみにー』
『――今夜もぶぎーないつ! 佐々鬼理成尊でした』
困惑の表情を浮かべた青鬼と好々爺然とした閻魔社長が引きで手を振っている。
「何なんだよ……これ……」
同期二人の写真に捧げられた酒と、同僚の出演したテレビ番組のビデオテープ。
そんなもの、嫌と言うくらいに、どうしようもないくらいに、分かりやすいものだった。
「あの阿呆……! まだ懲りてないのか。死にたがり屋め!!」
関本が吐き捨てるように叫び、寝室を出る。
「で、でもどうやってあいつは部屋を出たんですか。俺達、ちゃんと見張ってましたよね?」
「ああ、そうだ。そうなると考えられることは限られる。そして奴は間違いなく、もっとも可能性の少ないことをしてくれやがるんだ!」
そう言いながら関本はなぜか台所の流しを覗き込む。だがすぐに舌打ちをして隣の部屋に行く。
脱衣所。このアパート、ボロいくせに風呂は全室完備だった。
関本は躊躇することなく浴室の扉を開ける。
もちろん、そこには誰もいない。ただ浴槽一杯に張られた水があるだけだった。
「くそっ! あいつの頭を甘く見すぎていたか……!」
関本は浴槽を忌々しげに見つめ、踵を返す。
意味が分からず、真島は浴槽の中を覗き込む。
そして息を呑んだ。
「これって……水鏡か!?」
この世とあの世の通り道――水鏡。天国・地獄両株式会社のロビーに備え付けてある、勧誘員のための出入り口である。その形状は実に不思議なもので、壁に水面が波打っている、としか表現できないような代物である。天使や死神はその水鏡を通り、死にそうな人間を勧誘しに行くのである。
ボロアパートの一室の浴槽には、高鬼手製の水鏡が張られていた。
「行くぞ真島! いったん社に戻るぞ!」
「え、でも向こうに行くならあれ使えばいいじゃないんですか? せっかくこんな近場にあるわけですし」
「バカ。あんなもん使ったらどことも知れない空間に放り出されるぞ! 高鬼の奴、一回使い捨ての水鏡なんていつの間に開発してんだ!」
そして呪詛のように高鬼の名を吐き捨てる。
「だから俺は、奴が好きになれんのだ!」
「よう」
言われた通り公園の隅っこのベンチに来てみると、一人の少女が何をするでもなくただボウッと空を見つめていた。
夕暮れとはいえ、夏真っ盛りのこの日に黒いワンピース仕立ての喪服を着込んでいる彼女はとても浮いていた。
それは一樹自身にも言えることではあるが。
「あ……あんたも来てくれたんだ」
「うん。今、線香あげてきたとこ」
「そ……ありがと」
「横、いいか?」
「うん……」
僅かに腰の位置をずらし、亜季は一樹の座る位置を空けた。
だがお互い、どうにも気まずく中々口を開くことができない。
「よく……」
「うん?」
亜季が呟くように声をかけた。
「――よくここにいるって分かったね」
「ん? ああ、冬斗さんに、落ち込んだり悲しいことがあったときはいつもここに来るって聞いたから」
「そうなんだ……」
それっきり、亜季は黙り込んでしまった。次はあんたの番よ、とでも主張するかのように亜季は頑なにじっと地面を見据えている。
だが一樹も一樹で、何と言ったらいいか分からない。
ましてや、最期の別れの挨拶の言葉など、浮かぶはずもない。
「あぁ、まあ、なんつーか……」
ゴクリと、つばを飲む。
「お前、死後の世界とか信じる?」
「え?」
キョトンと瞬きし、亜季は顔を上げた。
「いや、別に変な宗教とかじゃないからな」
「……だとしたら、このタイミングじゃ最悪よ」
「だろうな」
一樹は苦笑する。それにつられて亜季も口元を緩めたが、それは誰の目から見ても無理をしているとわかる微笑だった。
「俺は、とりあえず信じることにしてるよ」
「回りくどい言い方ね」
「だな。でもしょうがないじゃないか――死後の世界なんて、実際に死んでみないと分からないもんな。でもさ、死後の世界があるものだとしたら、それはそれで気が晴れないか?」
と、コロコロと足元にボールが転がってきた。視線で追いかけると、少し離れた所で小学校にも上がっていないような小さな子供がオロオロとこちらの様子を窺っている。
一樹は小さく微笑み、立ち上がってボールを投げてやる。子供はそれを危なっかしくキャッチすると、頭が膝につくほど大げさにお辞儀をした。
「例えばさ、今俺はあの子と僅かながらにも関係を持った」
ベンチに座りなおし、亜季を見る。亜季もまた、一樹を見返していた。
「死んで、死後の世界に行ったときあの子のことを思い出すんだ。そう言えばあの時ボールを投げてやった子はあの後どんな人生を送ったのかな、ってさ――あ、コケた」
ボールを抱えたまま走っていった子供はベチャッと顔面から地面に叩きつけられた。一瞬、ぐずって体を震わせたが、すぐに立ち上がって慎重に歩き出した。
「泣かないんだ……偉いね」
「ああ、そうだな」
一樹は子供に向けた視線を亜季に戻す。
「ほらお前も、あの子と俺以上に小さな関係を持った。これでお前も、きっとあの子のことを思い出す。死後の思い出が一つ増えたわけだ――こう考えれば気楽じゃないか?」
一樹はあえて能天気な口調で亜季に声をかける。だが亜季はどこか浮かない表情をしたまま俯いている。
「でもさ」
亜季は呟く。
「その思い出を――消されちゃったらどうするの? あたしはそういう風には考えられない。消されるんだったら、こんな思い出、意味がない」
「…………」
一樹は答えない。
こいつ、こんなにマイナス思考だったか?
そう言えばあの三人も記憶は消されるって言っていたな。
だが、
「それがどうした」
「え……?」
「それがどうしたんだよ。記憶が消されたって、きっと心っつーか、魂とかには残ってるんじゃねーの? そう言う思い出ってやつはさ」
ポカンと、亜季は一樹を眺めた。まじまじと穴があくほど見つめられ、一樹も妙に気恥しくなり、さらに言葉を吐き出す。
「それでも思い出せないって言うならアレだ! いまわの際の走馬灯とやらで思い出す記憶は、多い方がいいだろ!」
何度か長いまつげを瞬かせ、亜季はなおも一樹を見つめる。
そして顔を伏せ、肩を震わせた。
「……?」
最初は一樹も亜季の震える肩を不思議そうに見ていた。だがすぐに亜季は声を洩らし始めた。
「…………く、くくっ……あはははっ」
ついには腹を抱えて笑いだした。
「な、なんだよ!」
「あははっ、あんた、自分で言ってて意味分かってる? 支離滅裂、無茶苦茶もいいところよ!」
「う、うるさいな! 俺は現文の評価『3』以上とったことないんだよ!」
「あ、あたしもそんなもんだけど……くくくっ、あんたよりかはマシかも」
笑い続ける少女。
不思議と、悪い気はしなかった。
「あはっ……はー……うん、笑った」
「そりゃ、よござんしたね」
無邪気な笑みを浮かべ、ケロッと一樹に向き直る。そしておもむろに目頭を押さえ、空を仰ぐ。
「ねえ」
「うん?」
「今ならあたし、泣けそう」
「……そうか」
そう言えばさっき線香をあげに行ったとき、親戚のおばさんたちと思われる中年女性のグループが亜季を噂していた。
確か、母親が死んだのに泣かないとかどうとか、薄情だのどうとか。
ああ、そうか。
一樹は納得した。
哀しすぎるがゆえに、無意識のうちに虚勢を張って涙も流せなかったのか。
「ねえ」
「うん?」
「……腕、借りるわよ」
え?
聞き返す暇もなく、気付けば亜季が一樹の腕にしがみ付いていた。ギュッと腕に顔を埋め、無言で肩を小刻みに震わせている。
嗚咽を漏らすでもなく。
声を上げるでもなく。
少女はただ少年の腕にしがみ付き、涙を静かに流し続けた。
「…………」
一樹はどうしたらいいか分からず、だがそっと、小さく揺れる亜季の背中にあいている方の腕を回した。
その背中は、一樹が思っていた以上に細く、小さく、華奢だった。
この小さな背中に、今までどれほどの感情を溜め込み、背負い込んできたのか、一樹には想像もつかなかった。
背中に回した手で、不器用に抱きしめる。
「……お母さん……!」
亜季はそうノドから声を絞り出し、一樹の胸に飛び込み、声を上げて泣き崩れた。一樹はその背中を無言で抱きしめ、亜季の体温を感じていた。
少しの間、赤い夕日の中で二人の影が重なっていた。
「……うぅっ……」
ようやく溜まっていた涙を全て流し、感情を爆発させたところで亜季は顔を上げ、立ち上がった。その目は真っ赤に腫れ上がり、なかなかどうして悲惨な状態だった。今日はメイクをしていなかったぶん、いくらかマシではあったが。
「うわ、ヒデェ顔」
「うるさい!」
「ごふっ!?」
腹にパンチを喰らい、一瞬息が詰まる。だが先日、関本に喰らったものと比べたらまだまだ軽い。
袖でごしごしと涙を拭い、亜季は不機嫌そうに一樹を見上げた。
「あーあ、こんなに人前で取り乱したの始めてかも。しかもよりにもよって相手があんたとはねー」
「何だ? 俺のせいなのか?」
心外である。
「冗談よ。ばーか」
亜季はニッコリと笑った。
一樹はそれを眩しそうに眺め、小さく息を吐いた。
「なんだ、ちゃんと笑えば可愛いじゃないか」
「へっ!?」
悲鳴を聞き、一樹は身構えた。どうせここで強烈なビンタかげんこつが飛んでくるに違いない。さっきの一撃でこの少女のノリは把握した。
だが、
「……?」
待てど暮らせど、衝撃どころか何の反応も返ってこない。
不思議に思って窺うと、亜季は一気に顔を真っ赤にし、モジモジと挙動不審に俯いていた。
な、何!? この反応?
これではまるで――
「なあ、おい……大丈夫か? 亜季」
「ひゃっ、え、あ、うんっ! だ、大丈夫よ! か、一樹……」
……初めて名前を呼ばれた気がする。いや、それを言ったら自分も初めて名前で呼んだのだが。
どこか気まずい空気が漂う。
えーと……俺、何か仕出かしたかな? 亜季の様子も何か変だし……! いや、きっと何か仕出かしたに違いない!
女子と付き合ったことの少ない男子(しかもつい最近フラれたばっか)の思考回路など、こんなものである。
「え、えっと……」
「う、うんっ! な、何!?」
三十六計逃げるにしかず。
「じゃ、俺帰るから」
「待てい」
立ち上がり、踵を返したところで首根っこを捕まれた。
「こんな雰囲気にしといて言うこともなしに逃げってどういうつもりよ」
「言うこと!?」
あ、そう言えば俺、最期の別れに来たんだっけ……。
それを思い出すと、哀しくて仕方がなかった。
「あー……えーと……」
そう言えば、一言も思いついていないんだった。
一樹は誤魔化すように頭を掻き、視線をずらした。だが苛立ちも限界を迎えたらしい亜季は、一樹の側頭部を鷲摑みにして前に向き直させた。
「あーもうっ! マジで分かってないみたいだから、あたしから言うわよ! そのツルツルの脳みそにしっかり刻み付けなさい!」
「あ、はいっ!!」
つーか顔近いんですけど!?
そんなことはお構いなしに、亜季は大きく息を吸い込み、深呼吸をした。そして夕日のように真っ赤に染まった顔を一樹に向け、消え入るような声で呟いた。
「一樹のことが、好きになりました」
え……?
一樹の思考が止まった。
「あんたは、あたしが今まで付き合ってきた奴らとはまったく違う。ダサいしパッとしないし、そのくせどこか達観してて変に無愛想だし……でも、あたしが落ち込んでるときに隣にいてくれて、泣きたい時に胸を貸してくれた。今まで、そんなやつは一人もいなかった」
一呼吸置き、亜季ははにかんだ。
「あたしのこと、ちょっと優しくされて慰められただけで情が移る惚れっぽい女だと思ってくれて構わない。でも今のあたしの気持ちは、本物よ。だから――あたしと付き合ってください」
亜季は綺麗な笑みを浮かべ、そっと手を離した。一樹はその手に支えられていたかのようにバタンとベンチの腰を落とした。腰が抜けたと言い換えてもいい。
そして無言で亜季を見上げる。
夕日の逆光を浴びながら微笑む少女は、可愛らしくもあり、美しくもあった。
その間、停止していた一樹の思考がようやく動き始めていた。
え、何……? 亜季が俺のことをす、好き……?
ドッキリじゃないよな? どこかで笑美がこっちを見て笑い転げていたりはしないよな? いくらあいつでも、こんなタイミングでこんな不謹慎なイタズラはしてこないだろう。
だとすると、マジ?
お、俺の春キタ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!
と、普段だったら小躍りする勢いで一も二もなく頷いていただろう。真央の時は自分から告白したから、実質、女子に告白されるのはこれが始めてだ。
そして、最後だ。
そう、最後なのだ。
はっは……タイミング最悪……。
「……ごめん」
一樹は重々しく呟いた。
「え……?」
亜季はその返事が予想外だったのか、微笑を湛えたまま、表情が硬直した。
涙で赤くなった目を瞬かせる。
「な、何で……どうしてっ……?」
「い、いや、亜季のことが嫌いだとか、そういうんじゃない……むしろ、お前のことは……」
一樹もまた、初めて本気で好きになったと自負しているくらいだ。
ようやく分かった。真央にフラれた時、そんなに落ち込まなっかた理由はこれだ。可愛らしく、性格も良かった彼女に対する感情は、アイドルに興奮するファンのような感じだったのだろう。
「だったら……!」
「でも俺は、付き合えない」
手のひらで顔を擦り、そっと亜季を見上げる。少女は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「だって俺は――」
そして、少年は静かにその言葉を口にした。
「――今日、死ぬんだ」
一樹の口からその言葉が洩れた瞬間、亜季の思考は完全にストップした。最初は、性質の悪い冗談だと思った。だが一樹の表情が非情なほど真面目で、残酷なほど悲哀に満ちていた。
「二週間前、三人組の天使がうちに来た」
声。
無情な声。
「最初は俺も嘘だと思ったんだけど、どうやら本当らしくてさ」
声。
悲痛な声。
「お前のとこにも……て言うか、正確にはお前の母さんのとこにも来ただろ?」
声。
残酷な――声。
「天使じゃなくて、死神。確か高鬼さんだっけ」
瞬間、全てを理解した。
「い、いや……っ」
母親が、死んだ。
大好きと言ってもらえて嬉しい、という言葉を遺して。
「いやっ……!」
生まれて初めて本気で好きになった少年が、死ぬ。
今日、死ぬ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああっ―――――――――――――――!!」
「亜季!?」
絶叫。
悲鳴。
気付けば、亜季は走りだしていた。
――お前、死後の世界とか信じる?
――俺は、信じることにしている。
ああ、何で気付かなかったのだろう。あんな話題、死後の世界を知っている人間でなければあそこまで具体的な発想は出来ないだろう。
「いやっ……いやぁぁぁぁぁあああああっ……!!」
走り続ける。
ワンピースの裾が邪魔になった。
それでも走り続ける。
行く当てもないのに走り続ける。
もう、心の拠り所はない。
お母さんもいない。
一樹も、もうすぐいなくなる。
ああ、そうか。
彼は今日、亜季に別れの言葉を告げに会いに来たのだ。
「……お母さん……一樹……! あっ……」
いきなり走り続けた反動からか、足がもつれ、その場に倒れこんでしまう。
「っつ……!」
いや、こんなのは痛みのうちに入らない。死に直面している一樹の心の方が、もっと痛いに決まっているのだ。
こんなのは――
「亜季っ!!」
絶叫に近い声。
後ろから一樹が駆け寄ってくる。
追いかけてくれたの……?
だが、一樹の表情は異常なほど緊迫していた。
何だろう?
その時。
びびぃっ!
けたたましいクラクション。
そこでようやく気がついた。
今自分は、道路のど真ん中でボウッと座り込んでいる。
そしてすぐ目の前まで、大型トラックが迫ってきている。
立たなければ。
逃げなければ。
亜季は震える足を酷使し、何とか立ち上がる。だが転んだ時に足首を捻ってしまったらしい。思うように動かない。
トラックはすぐそこ。
あ。
死んだ。
亜季は場違いなほどゆっくりそう悟った。案外、高鬼が亜季に声をかけたのは間違いではなかったのかもしれない。
こうしてあたしは、死ぬのだから。
瞬間。
体に衝撃が奔った。
ただし、前のトラックからではなく、横から。
撥ね飛ばされるのではなく、突き飛ばされた。
その刹那、亜季はしっかりと目にした。
少年が亜季を突き飛ばした姿勢のまま苦笑いを浮かべている。
突き飛ばされ、歩道に倒れ込んだ亜季はしっかりと見た。
少年の口が動く。
声は聞こえない。
だがその想いは伝わった。
――大好きだったよ。
永遠のような一秒が動き出し、そして過ぎ去る。
少女が初めて好きになった少年は、その視界から消え去った。