そのろく
水鏡を通り、地獄株式会社に帰ってきた時にはもう夜も明けようとしていた。今からボロアパートに帰るのも面倒と思い、高鬼はとりあえずトイレに向かった。
用を済ませ手を洗い、ついでに頭から水を被る。
顔の水滴を拭い、鏡で自分の顔を確認する。
これは……酷い。
瞳は空ろな光を湛え、頬も扱け、すっかりやつれていた。無精髭も延び放題だった。ただでさえ疲れた印象を持たれるのに、これではまるで病人だ。
病人。
死に向かう者。
小林夏美。
――高鬼が傷つけた少女の母親。
「くそっ、くそくそくそっ! くそっ!!」
高鬼は壁に頭をぶつける。
何度も何度も、額が割れるのではないかというほど、叩きつける。
「くそっ!!」
ガンッと最後に力強く額を叩きつけ、ついに血が染み出してきた。
生温かい赤い液体が眉間を通り、鼻を撫で、頬を伝わり、あごの先から床に落ちる。
高鬼の血液はタチタチと、少しずつではあるが小さな赤い水溜りを作る。
鈍い痛みが続く。
「……くそっ」
高鬼はまず自分のハンカチを蛇口で濡らし、額に当てる。あいにく、絆創膏などといった便利な物は持ち合わせていない。
地味に沁みるが、もうそんなことで悲鳴を上げるような歳ではない。
それから取り付けの使い捨てペーパータオルで床の血溜まりをふき取り、クズカゴに捨てる。他の社員に騒がれるのはまっぴらだった。
血。
鮮血。
怪我。
死者。
――死神。
「くそっ」
高鬼は壁に拳を叩きつける。別段鍛えているわけでもない指の関節がギシリと悲鳴を上げたが、そんなことはどうでもいい。
「……はあ、俺って死神向いてないんじゃないかな……」
毎回こうだ。
死に行く人間一人と関わるたびにこうだ。死に向かう人間を見る度に、同じことを考えてしまう。
死神として二十年過ごし、考えなかったことはない。窓際社員、ヘッポコ死神のレッテルを貼られている高鬼でも、二十年間に勧誘してきた人間の数は計り知れない。何十、何百もの人間を地獄株式会社に入社させてきた。
それはつまり、何十、何百もの人間の死を見つめてきたということだ。
「……もう……嫌だ……」
ズルズルとその場に座り込む高鬼。
「もう嫌だ……もうこれ以上……人の死を黙って見ていられない……大好きな人間が死んでいくのを……見て見ぬ振りなんて……出来ない……!」
割り切っていたつもりだった。
人は死の運命から逃れられない。逃れられないなら、せめて安らかな死を送ってあげよう。
そう考えてきた二十年。
だが、高鬼のミスであの少女に声をかけてしまい――割り切っていた心が揺らいだ。若かったあの頃と同じことを考えてしまう。
大学卒業がかかった、論文を書いていたあの頃のような。
「――誰しも、そういうものじゃ」
背後から、聞きなれない老人の声がかかった。どこかカラスのようなしわがれた声。だがその声に、高鬼は聞き覚えがあった。
「え、あれ……? え、閻魔社長っ!?」
「――相変わらずじゃの」
慌てて立ち上がり、深々とお辞儀をする。
いつの間にか高鬼の背後に立っていた老人――地獄株式会社代表取締役第十七代目閻魔・佐々鬼理成尊。漆黒の袴に羽織姿の好々爺とした風格の老人だが、実質的にあの世を取り締まる二大社長のうちの一人である。
予想外の人物の登場に、高鬼はすっかりノドがカラカラになった。
「よ、よく言われますよ。社長こそ、お変わりのないようで」
「――まあ、の」
黒衣の老人はニヤリとシワだらけの顔を歪めて笑う。
実際、高鬼が入社してから全く姿容貌が変わっていない。
コツンと仙人が持っているような杖で床を叩く。青鬼の話だと、これが閻魔社長の癖らしい。意味は確か、「――ほれ、お主の番じゃ」だったはず。一度床を杖で叩くと、閻魔社長は相手が口を利くまで無言で次の言葉を待っているらしい。
高鬼のような平社員が閻魔社長を待たせるなどと言語両断である。高鬼は一瞬で熟考するという、我ながら器用な思考ですぐに口を開いた。
「社長、俺……死神辞めたいと思います」
「――何じゃと?」
「俺、甘いし、何か目の前で人が死ぬの、黙って見てられないんです。もう人間に生まれ変われなくてもいいです……人の死を見続けることより、ずっと楽です」
もう、あの少女のような家族と会わなくてすむ。そうすれば、こんな哀しい気持ちにならなくてすむ。
甘い考えだ。そんなことは高鬼が一番理解している。
だが本当に、人の死を黙って見ているのは――もう嫌だった。
だが閻魔社長はヤレヤレと溜息をつく。
「――そんなことか」
「そんなことかって……俺、一応真剣に言ってるんですよ」
「――や、スマンスマン。そういう意味じゃなくての……お主、死神は天国株式会社のやつらのように、機械的に死者を勧誘することが理想と思っているのなら間違いじゃ」
「え?」
高鬼はワケがわからず聞き返す。
「――お主、なぜ死神に選ばれたか分かるか? 天使ではなく、死神に」
「え、それは俺を勧誘しに来たのが死神だったから」
「――そうじゃ。それではなぜお主の元を死神が訪れたか分かるか」
「そ、それは……」
分からない。と言うか、覚えていない。
そういう記憶は、こっちに来る時に消されるから。
そしてそれを実際に行なっているのは――閻魔社長本人だ。
何でこんなことを俺に聞くんだろう。
高鬼には分からなかった。
分からなかったが、高鬼は青鬼の言葉を思い出した。
――閻魔社長の言葉は絶対に聞き逃しちゃダメ。あの人の言葉に、意味のない戯言は存在しないの。言葉の一つ一つに何かしらの意味が含まれているから。
その時は半分以上聞き逃していた。高鬼自身、閻魔社長と会うことになるなどとは思っても見なかったのだから。
「――まあ美佳ちゃんと儂では社員方針が根本的に違うからのう」
「……美佳ちゃんって……」
美佳・L・ハートフル――天国株式会社社長である。
関本の話ではめっちゃ怖い人らしいが、そんな人をちゃん付けとは……。
「しゃ、社長……それってどういう……」
「――ふむ……いずれお主にも、分かる時が来るじゃろうて」
コツコツと、閻魔社長は杖を二回床に叩きつけた。その意味は「――この話はここまでじゃ」だったはず。
「そんな……」
何を言いたかったのか、高鬼には結局分からずじまい。だが閻魔社長は歯の抜け落ちた口を大きく開いて高笑いをしている。
「――何、そう深く考えるでない。何やら青鬼から吹き込まれておるようじゃが、儂の言うことは所詮、年寄りの戯言じゃよ」
「はあ……」
「――じゃが、そうじゃのう」
閻魔社長はニカッと笑った。
「――お主はお主のやりたいことをすればよい。それでいいじゃろう、の?」
「………………」
高鬼は沈黙を持って返答とした。
ただでさえ混乱している時に、閻魔社長が投げ入れた言葉の小石によって、高鬼の心には波紋が広がっていた。
「――お主、今日は休暇をやろう」
さらにもう一つ、閻魔社長は小石を投げ入れた。
「え、でも俺、今勧誘中なんですけど……」
「――何、お主が勧誘しようとしておる人間の寿命は明日じゃ。今日はゆっくり休み、気持ちを落ち着かせよ。何なら儂が赤鬼部長に連絡を入れてやろう。遠慮することはない」
もちろんここで、高鬼のような平社員は遠慮するべきなのだろう。だが高鬼はそんなことを判断する気力も残っておらず、疲労と睡魔もあって無気力に頷くしかなかった。
「……よろしくお願いします」
「――うむ、今日は休んで日常から目を逸らすのがよいじゃろう。何も逃げることは罪とは言わん。逃げて、そこから何も学ばないのが罪なのじゃ」
「はあ……そんなもんですかね」
「――ふむ、たまには昔のことを振り返るのも逃げの一つじゃ。温故知新とは、昔の人間はよう言ったものじゃ! それではさらばじゃ! ドロンっ」
バババッと閻魔社長は手で陣を組み、懐から何やらボール状の物を取り出した。そしてそれを床に叩きつけると、
「ぶはっ!? 何だコレっ……げほっげほっ……!」
一瞬にしてトイレに白い煙が充満した。
だが目を凝らしてよく見ると――閻魔社長が高齢とは思えないフットワークでトイレから駆け出していた。
煙幕は単なる目くらましである。
「って、消えれないならすんなよ! じゃなくてしないでください!」
「――ほっほっほ~」
何だってんだあの人!
閻魔社長は軽やかな足音と共にトイレを後にした。
高鬼は換気扇を回し、はた迷惑な煙幕を外に逃しながら溜息をついた。このままだと目もノドもやられてしまう。まあ有害ガスではないだろうから外に出してしまっても問題ないだろう。
「あの爺さん、自由すぎだろ……」
人の心を勝手に引っ掻き回し、人に休暇を押し付け、何か迷惑な煙幕を残して去っていった。
ゲホゲホと、気管に残っていた煙を吐き出し、閻魔社長が出て行った扉を見やる。もちろんそこには黒衣の老人の姿はない。
「何だったんだろ、マジで……」
閻魔社長の意図が全く読めない。そりゃまあ高鬼なんかと比べ物にならないほどの永い時間を過ごしてきた死神なのだから若輩者には理解できないこともあるのだろうが。
それにしたって、あの言葉は全くの意味不明だった。
もうワケが分からない。
分かるわけがない。
「あーもうっ! 俺今日はマジで休んでやる!」
そうと決まればさっさと家に帰る! 万年床が待つボロアパートに帰ってやる!
――閻魔社長の言葉には、何かしらの意味があるんだから。
「……はいはい分かりましたー」
帰ったら、そのことも考えてみますか。その何かしらの意味とやらを!
「……また来てくれたんだ」
「まあね」
「……心配しなくてもいいのに」
「そうか?」
一樹はこの三日間、ずっと病院に足を運んでいた。
目的は特にない。だが強いて言うなら、この亜季という同い年の少女が気がかりだった、というところだろうか。
何せ亜季の母親が倒れた時の動揺ぶりは並大抵のものではなかった。人目を憚らず泣きじゃくり、落ち着いたかと思えばただひたすら虚空を見つめ、そうかと思えば静かに涙を流していた。
よほどのお母さん子だったのか。
早川家では多少特殊な家族関係なため――具体的には、日夜腹の探り合い――そういう温かな家族愛はあまり上手く想像できない。
それでも、大好きな家族が失われようとしている苦しみは容易に想像できる。
いや、出来るわけはない。そのような苦しさ、辛さは体験して初めて理解するのだ。
そして一樹にはきっと、一生理解できないだろう感情だ。
買ってきていたオレンジジュースを亜季に手渡す。その時にチラリと長い前髪の隙間から目元が見えたのだが――一樹は表情が強張るのが自分でも分かった。
インクで落書きしたかのような、真っ黒いクマができていた。よく見れば肌も荒れ、髪も手入れが全く施されていない。そして何より、服装が初めてあった日と同じワンピースだった。
「お前、家に帰ったか?」
「………………」
亜季は無言で首を横に振る。
これは思った以上の混乱ぶりだ。
男の一樹でも、いくら涼しい病室に居座っているとは言え、年頃の女の子が三日間シャワーすら浴びず着替えもできていないというのは――異常であると思える。さすがにメイクは落としてあるようだが、初めに会った時とは似ても似つかない状態だった。
まさに悲惨の一言に尽きる。
他人事ながら、心配するなというほうが無理がある。
「他の家族の人には連絡したか?」
「………………」
亜季は無言で頷く。
そうか、と一樹も頷く。さすがにそれくらい落ち着きは取り戻していたか。
聞けば、亜季には兄がいるらしい。来春には弁護士として社会に出て行くため、今は家にいないそうだ。
オレンジジュースをちびりと一口のみ、亜季は口を開く。
「何で……こんなに気にしてくれるの? あんた、赤の他人じゃん……」
「まあそうだけどな」
一樹は壁に寄りかかって亜季を見つめる。
その亜季はずっと母親を見つめている。
亜季の母親――夏美はいまだに意識が戻らない。点滴で栄養を直接体内に送られ、体中に付けられた電極から心電図と脳波が枕元の機械に繋がっている。
素人の一樹には機械の示す数値が正常値なのか危険値なのかは分からない。それでも、夏美の異様なまでに白い顔色は倒れた時より幾分かは穏やかであるように見える。
だがそれ以上に、今は亜季の顔色が悪い。
「お前、自分が今どんな顔してるか分かんないだろ……かなりヤバイぞ。そこら辺歩いてる病人なんかよりよっぽど顔色悪いぞ」
「……そんなに?」
「ああ。心配するなって言う方が無理だ。どうせろくにメシも食ってないだろ」
「昨日……笑美ちゃんがカロリーメイト買って来てくれた」
あいつ……どうせなら無理やりにでも外連れ出して何か食わせて来い! それかもっとマシなの買って来いよ!
一樹は舌打ちをしたくなるのを抑え、溜息をつく。
「……この病院、一階に見舞い客用のレストランがあるんだけど奢ろうか?」
「いい……いらない」
「無理するなって。腹減ってるだろ」
「いらないってばっ」
亜季の予想以上に強い拒絶に、一樹は虚を尽かれた。そして髪の間から覗く鋭い視線を直に目の当たりし、思わず後ずさる。
その空ろな目に鋭利な光が宿った。
「……ごめん」
「……ううん……こっちこそゴメン……」
亜季は視線を夏美に戻す。一樹もつられて白いベッドに目をやる。相変わらず、夏美は白いが穏やかな顔で眠っている。
「でも分かって……」
亜季は続ける。
「あたし、お母さんと少しでも一緒にいたいの……今まで変な意地張って、お母さんを拒絶してきたの――お母さんの気持ちも知らないで反抗してたの。だから今まで、あたしとお母さんが一緒にいた時間なんてタカが知れてる……謝りたいの……お母さんに謝りたいの……今までごめんさない、って……嫌いなんて言ってごめんなさい、って……本当は大好きだよ、って…………先生はもう目を覚ますかどうかも微妙だって言ってた……だから少しでも一緒にいて、一瞬でも意識が戻ったら………………謝りたいの………………」
「……そうか」
一樹はゆっくりと肺の空気を吐き出した。
だからこその、あの動揺か。
お母さんが好きだったからあれほど動揺したんじゃない。いや、本当は好きだったのだろうが――それを、意地を張って認めなかった。心の底では意地なんて張りたくなかった。素直に好きと言いたかった。
母親が死に、好きと言えずに終わるのを恐れた。
だからあそこまで動揺した。
「……そうか」
一樹はもう一度頷いた。
「ねえ……」
「うん?」
「あんたは変に思うかもしれないけど……あたし、お母さんが今日中に死ぬっていうのを知ってるの……」
「え? 先生がそう言ったのか?」
「そうじゃなくて……そう一週間前、あたしに予告していったやつがいるの」
え……それって……。
一樹は思い出した。
そう言えば夏美が倒れた時、亜季達の他にもう一人いた。亜季が泣きながら助けるよう頼んだにもかかわらず、微動だにせずただじっと見ていた人物が。
まるで、一樹に死を予言した三人組の天使のように見て見ぬフリをした男がいた。
確か関本が親しげに、高鬼、と呼んでいた。
つまり彼は人間ではない――天使と死神の、どちらか。
だが待て。天使や死神が見えるのは死を予告された者だけだったはず。なのに何で死に際の夏美ではなく、その娘の亜季に見えている?
「……どういうことだ……」
一樹は亜季に聞こえないよう呟いた。それを亜季は何やら誤解して受け取ったらしく、自嘲気味に笑った。
「……ゴメン……やっぱり信じないよね……」
「いや……そういうわけじゃないんだけど……」
「ウソ。信じられないって声してる」
まあ確かに、自分の死を予告された時は信じる気にも起きなかったが。
だがこれは……変に刺激しないほうがいいか。自分も死を予告されたなんて言って掻き乱すより黙っていた方がいいかもしれない。
一樹は再び息を吐く。
「やっぱお前、疲れてるぞ、うん。本当に疲れてるやつって、自分では何とも思わないらしいしな。待ってな、売店でパンかなんか買ってくる」
「え……でもお腹すいてない……」
「いーや、んなわけない。三日間でカロリーメイト一箱しか食ってない状態のやつが空腹じゃないわけがない。買ってきて、無理やりにでも食わせるからな」
「……………………」
ビシッと指差すと、亜季は無言で俯いた。
これは……かなり意地っ張りだな。
一樹は内心呆れたが、気付かないフリをしてさっさと病室を後にした。
エレベーターを降りてすぐ目の前の売店で何がいいかと物色しながら、一樹は何やってんだろ、と目を細めた。
俺もあと一週間で死ぬ身なのに、人の心配だなんて。
「いや……あと一週間だからこそ、か……」
あと一週間だからこそ、本能的に今までしてこなかったことをやろうとしているのかもしれない。
ちょうど、亜季が素直になろうとしているように。
とりあえず、なるべく胃に負担のかからない方がいいと思い、一樹はサラダサンドを選んだ。どういったものが女子にとってあっさりした食べ物なのかいまいちよく分からなかったが、これならば大丈夫だろう。
ついでに自分の飲み物も会計し売店を出たところで、
「あ」
「や、どうも」
どこかで見た顔だった。よれよれのスーツにボサボサの髪、猫背、眠そうな目に疲れた表情と、窓際社員を具現化したような男。
「君、俺が見えるんだよね」
「ええ……一応……」
「そうか。うん、立ち話もなんだから一旦外に出ようか。そこなら怪しまれずに話せるしね」
そう言って疲れたサラリーマン風の男――高鬼は自動ドアを指差した。
先に歩く高鬼。一樹はそのどこか頼りない背中を見て、別段断る理由もなかったので大人しく付いて行った。
「……さて、と。じゃあとりあえず携帯電話出して。病院の中は使用禁止だからね。で、誰かに電話している感じで喋って」
そこまで言われて高鬼の意図に気付く。
普通の人には見えない高鬼と話すと、一樹が独り言をブツブツと唱えているように見えるのだ。だが病院の外でケータイを使って通話している風を装って会話をすれば、マナーのいい見舞い客に見える。
「……分かりました」
パキンとケータイを開き、少し弄るフリをしてから耳に当てる。もちろんそのケータイは誰にも繋がっておらず、一樹が話す相手は目の前にいる高鬼だ。
「それじゃあ……うーん、連れ出したはいいけど、何から話そうか」
「おい」
「あーゴメンゴメン。そう睨まないで」
コホンと高鬼は咳払いし、一樹に目をやる。
「まず第一に。昨日、一昨日って亜季ちゃんのそばにいてくれたんだよね。そのことについてのお礼……アリガトね」
「別に、俺は……」
「あの子、相当ショックだったみたいだからね……誰かそばにいてあげないと壊れちゃいそうだった。偶然とはいえそばにいて、しかも心配してくれたからあの子も少しは冷静になれたんだと思う」
「まあ、あの動揺を見せられたら、な。誰だって心配するよ」
「もっとも、そのそばにいてくれた子も、僕が見えるっていうのは何の因果だって話だけどね」
「あ、そうだっ」
一樹は一瞬、パンの入った購買の袋を落としそうになる。
「持ってようか?」
「いや、いいっす。それよりも、何であいつはあんたが見える? 死ぬのは……その……あいつの母さんなんだろ?」
「ん、まあそうなんだけどね……お恥しい話、俺のミスで亜季ちゃんをお母さんと間違えて声かけちゃって……」
「はあ?」
確かに夏美は年齢の割りに若々しい。茜ほどではないにしてもずいぶん年下に見える。それでもあくまで常識の範疇であって、決して女子高生と見間違えることはない。
「あんた……ひょっとして見たまんまのヘボ社員?」
「そ、そんなはっきり言わなくても……しかも実は、その、亜季ちゃんに入社同意書も奪われてんだよねー……」
うわー、と一樹はダメな人を見るような目で高鬼を見つめる。いや、ような、ではなく本当にダメな人だ。
「んで、何? まさか俺にそれを取り返して来いってんじゃないだろうな。言っとくけど、今のあいつそれどころじゃないぞ」
「分かってる。分かってるさ」
高鬼は困ったような表情で苦笑いを浮かべる。そしてうーん、と言葉を選ぶようにしばらく悩んだ後、意を決したように口を開く。
「君に頼みがあるんだ。あ、もちろん同意書の件じゃなくってね……彼女を――亜季ちゃんをしばらくの間、病室から連れ出してくれないかな」
「何でだよ」
「うーん、何でか、って聞かれると答えづらいんだけど……あの、秘密にしてくれる? 特に関本とかには」
「……まあ、それくらいなら」
一樹は眉をひそめる。
関本とは知り合いらしいということは何となく予想していたが、その関本には知られたくないのか?
「……あんた、何をするつもりだ」
「ん? うーん……」
再び高鬼は困惑の表情を浮かべたが、一樹の目を見てヤレヤレと首を振った。
「しちゃいけないこと」
「え……」
「そのためには、亜季ちゃんが病室にいると気まずいんだよね。一応、亜季ちゃんのためになる……のかな? まあ亜季ちゃんのためにやるんだけど、今俺が行くと何言われるか分かったもんじゃないから……」
最後の方は消え入るような哀しい声だった。そしてその目も、言葉同様に気まずそうだった。
この男が何をしようと勝手ではある。もちろん、本来は赤の他人である一樹が亜季にここまでしてやる義理はないのだが。
それでも、亜季のことが気がかりであることは変わりない。
それはもちろん、高鬼も同じなのだろう。この妙に人間臭く、俗っぽい死神も。
だが、
「でもやっぱり無理だな」
「……どうして」
「あいつ、ずっと一緒にいるって聞かないぞ。家に帰るどころか、飯すらろくに食ってないもん。だから俺、あいつに食い物買ってってやろうと思ってたんだ」
そしてこれは言うべきかどうか悩んだ。悩んでそして、続けた。
「あいつ、謝りたいって言ってた。今までのこと、謝りたいって。だからいつ目を覚ますかも分かんない母さんの隣にいて、ずっと、謝れる瞬間を待ってる」
一瞬だけ、高鬼の目が開かれた。だがすぐに瞳を伏せ、独り言のように呟いた。
「……そうか…………そうか………………やっと心が通じたんだ……もう少し、早かったらな………………これも俺の…………………………やっぱり責任は……………………」
「お、おい? 大丈夫かよ」
「あ、うん……ゴメンゴメン」
高鬼はどこか疲れた微笑を浮かべ、上を見上げる。その視線を追うと、おそらく今も亜季が、夏美が目覚めるのを待っている病室があった。
「……それじゃあなおのこと、あの子はそばにいなきゃね。目覚めて最初に会うのは、やっぱり自分の愛娘でありたいだろうし……はあ、何言われんだろ……」
何だ?
何を言ってるんだこの男は?
「ねえ、やっぱり頼まれてくれる?」
「……何だよ」
「関本に会ったら、彼女を押さえ付けてくれない? あいつ、俺がやろうとしてることに気付いたら、間違いなく邪魔しに来ると思うんだ。ああ見えてあいつ、怪力だけど君に止められないほどじゃないと思うから大丈夫だと思うよ」
「いや、いいけど……何――」
「それともう一つ」
一樹の言葉を遮り、高鬼は笑った。
それは一樹の見たことのない笑みだった。
哀しむでも、悲観するでもない、ただただどうしようもない状況に疲れている目だ。
「あいつにゴメン、って伝えて」
「え……?」
それってどういう……。
一樹が尋ねようとした時、いつの間にかそこに高鬼の姿は忽然と消えていた。
病室に誰かが入ってくる気配がした。一樹が戻ってきたのかと思い、亜季はゆっくり振り返った。
だが、そこで亜季は目を見開いて硬直した。
「あんた……!」
「や、どうも……って、うわ、酷い顔。クマできてるよ」
入ってきたのは見間違うことのあり得ない男――死神の高鬼だった。
「少し話そうか」
「……あんたと話すことなんかないわ。消えて」
「うーん、そういうわけにもいかないんだよね」
高鬼はぼさぼさの頭を掻き、ベッドを挟んで亜季の反対側の椅子に勝手に腰掛けた。
顔を上げるとちょうど高鬼を見上げる具合だった。
「……何、お母さんを連れて行くの?」
亜季は侮蔑と憎悪の光の宿った瞳で高鬼を見据えた。だが当の本人は、似合いもしない薄ら笑いを浮かべて手をヒラヒラと振った。
「そのつもりだったんだけどね……やっぱりやめた」
「は……?」
「お母さん――小林夏美は連れて行かない、って言ったらどうする? 俺が小林夏美を助けてあげるって言ったら、亜季ちゃんはどうする?」
何を言っている。
ふざけてる? だとしたら、これほど性質の悪い冗談はない。
「何よ……助ける気もないくせに。それに助ける方法なんて――」
「あるよ。助ける方法」
高鬼は言った。
「え……」
「あるんだよ、助ける方法は。しかも一つだけ」
亜季は目を見開き、俯いていた背を伸ばして高鬼を見る。
その目は冗談を言っている者のそれではない。むしろ何か、覚悟のようなものを感じた。
「ただし成功するかどうかは微妙。しかもかなり危険な方法だけど……やる?」
「やる、って……」
「実際にやるのは俺だけど……亜季ちゃんも手伝う? 近くにいられると巻き込みそうだから離れててほしいんだけど、たぶん亜季ちゃんがいれば成功率も上がるんだよね」
やる? と高鬼はもう一度訊ねた。
亜季は答えない。
答えることができない。
夏美の死を覚悟し、目覚めたら謝ろうと思っていた。だが目の前に示されたのはもう一つの選択肢。
動揺は隠し切れなかった。
無言でいる亜季を見て、高鬼はゆっくりとした口調で呟いた。
「俺さ、昨日一晩中考えたんだよね。どうしてこんなことになっちゃったのかな、ってさ。俺が亜季ちゃんじゃなくて小林夏美――お母さんに、ちゃんと声をかけていればこんなことにならなかったんじゃないかな。って。そうすればお母さんはきっと、お母さんなりに亜季ちゃんと分かり合おうとしただろうし、亜季ちゃんもきっとそれに応えようとしたと思うんだよね。で、そうだったとすると、今回は明らかに俺が邪魔者なんだよ。勘違いで君に死を予告して、変に掻き乱しちゃって……その結果ここまで話をややこしくしちゃった」
だから俺は責任を取るよ、と高鬼は呟いた。
「責任……?」
「そう、責任。自分の犯した過ちを償うために、人間一人の寿命を延ばす。それくらいやらないと清算がつかないし、自分の蒔いた種くらい自分で何とかするよ。これでも大人だしね」
亜季はジッと高鬼を見つめた。
違う。
高鬼は何かを間違えている。
言葉では言い表せない。それでも亜季は何となく、高鬼を止めなければいけないような気がした。
そんなことを考えなくてもいい。
あたしはもう、覚悟を決めている。
だがそれと同時に、夏美が助かるという望みに喜ぶ自分もいる。
よかった。お母さんは助かる。死ななくてすむんだ。
そしてその二つの背反は――
「お母さん……助かるの……?」
「上手くいけば、ね」
「あたし、何をすればいいの……? お母さんが助かるなら何だってする!」
「ははっ、ずいぶん素直になったじゃない」
高鬼は微笑んだ。
それにつられ、亜季も口元が綻ぶ。
「うん、やっぱり亜季ちゃんは笑ってる方が可愛いよ」
「……ばーか」
無理やり、亜季は目元を細めた。不恰好でも、笑っているように見えただろうか。
亜季はお母さんが助かる――助かるかもしれない、という希望に取り憑かれた。
高鬼はスーツのポケットからトランプの箱のようなものを取り出し、ふたを開ける。中から出てきたのは何十枚ものカードだった。だがそれはトランプではない。というか、亜季が見たこともない文字と模様がびっしりと描かれている。
「まずは意識を取り戻さないと……」
高鬼は慣れた手つきでカードをシャッフルする。そして中から一枚のカードを引き抜き、それを夏美の頭の下に置く。そしてさらにもう一度カードを引き、今度はそれを額の上に乗せる。
「先に言っておくね」
「うん」
「今からお母さんの意識を一時的に取り戻す。かなり強引な方法だからかなり短い間になると思う。俺がお母さんの意識を引っ張り出しておくから、亜季ちゃんはひたすら呼びかけて」
「呼びかけるって……」
「お母さんに生きて欲しいっていう思いと、本当に伝えたいこと。何度も何度も呼びかけるんだ。またお母さんが生きたいって思うまで。そしたら……あとは任せて」
うん、と亜季は頷いた。
夏美の寝顔は相変わらず穏やかなままである。
「お母さん……」
亜季はそっと夏美の頬にかかった髪の毛を払い除けた。白い肌に指先が触れ、ほのかな温もりを感じる。
「……いい? 行くよ」
高鬼はもう一度カードをシャッフルし、それを病室中にばら撒く。すると全てのカードか
ら淡い萌黄色の光が発せられ、白い壁をかすかに照らした。
「 …… ………… … ………… …… …… … ……… 」
高鬼は声にならない言葉をノドの奥から発し、汗を流している。亜季は病室に充満する不思議な光と高鬼の声にすっかり心を奪われていた。
「… ………… … …… …… ……… …… …… ………」
神秘。そして、不可思議。
その二つの単語が当てはまるような光景だった。
そしてその光の中、
「……あ…………き………………?」
「! お母さんっ」
亜季は抱きつくようにベッドにしがみ付いた。
夏美は空ろではあるが、その瞳をしっかりと開け、亜季を見つめていた。
「……あき……どうしたの……ないてる……の?」
「お母さん、お母さん! あたし、あたしっ!」
まずい。まともに言葉が出ない。涙がこぼれて声が出ない。
それでも亜季はノドの奥から声を絞り出す。
擦れていても、聞こえづらくても。
お母さんに届くように、亜季は呼びかけた。
「……あたしっ…………おっ、お母さんっ……に、あっ……謝り、たい……の……っ……い、今までっ……す、素直にっ、なれっ……なくて……ゴメンナっ、サイ……! ……い、意地ばっか、りっ……張って……ゴメっナサっ…………お母さ、んのことっ、ホントは……大好、きな、のに……っ……う、うぅっ…………あた、し……お母、さんと、もっと……一緒に、いたいのっ! い、一緒っ、にっ……お買い物もっ……行きたっ……一緒、にっ、お出かけ、もっ……したいのっ……! お母さ、んっ、のおにぎりもっ……大好きなのっ……また、作って、よ……どこっ、かっ……景色のっ、いい……ところで……一、緒に……たべ、食べたいのっ…………ぅ、ぐぅっ…………ま、だ……お母、さんに……聞きた、いこ、と……いっぱ、い、あるの……あたっ、しっ…………一人じゃ、何も……できっ、できないっ……お兄ちゃんみたいに、一人じゃっ……何もできないっ! だから、お、お母さん……もっと、あたっ、しに…………教えてよっ……色んなこ、こと……教えてよっ…………今、度から、はっ……素直、になるっ、から…………ひぐっ! 言うこともっ……ちゃんと、き、聞く、からっ…………あたし、なっ、何度も…………お母さん、にっ……ひど、酷いこと、言った、けどっ……あた、しっ…………ホン、トは、そんなことっ、お、思ってもいなかった、のっ! あたし、ホントに、お母、さんがっ……だいっ……大好きなのっ……だ、から、だかっ、ら! だからっ――」
――死なないでよ……!
最後の方は自分でも、言葉なのか啜り泣きなのか、そもそも自分の声なのか判断ができなかった。それほどまでに泣きじゃくってしまった。
それでも、最後のその一言だけは――夏美の耳に届いたと確信した。
なぜなら夏美が、白い顔をほんのり赤く染め、困ったように笑ったからだ。
「……お母さんっ……!」
「…………あ……き…………わたしの……たいせつなこ……」
「お母……さん……!」
「……あき…………」
「何……? お母さん…………」
「…………わら……って…………あきは……わらっているほうが…………かわいい……んだから……」
亜季は少し驚いたように目を見開いた。
高鬼も笑美も――お母さんもみんな、同じことを言う。
それは亜季に笑っていて欲しいということか。
それならあたしは、何度でも笑う。笑って、苦難を乗り越えるんだ。空元気でも意地を張ってでも、あたしは笑い続ける。
「…………こう……?」
だが意識してしまうと上手く笑えない。頬が引きつる。だが夏美はその笑みを見て穏やかに笑い返してくれた。
「あき……おかあさんも……あやまらなきゃ……あきのこと…………わかってあげられなかった……ごめん……ね……いつも…………ふゆとと……くらべちゃって……ごめん、なさい」
「そんなこと……!」
「……あきは、あきなんだから……あきのすきなことを…………ぜんりょくで……やりなさいね……」
「…………うん……!」
亜季は力強く、しっかりと、涙ながらに頷いた。
それを見て夏美の表情が解れる。
「ねえ……あき……」
「なあに……お母さん……?」
「もういちど……わらってみせて……?」
「う、うん……」
今度は、さっきよりも上手く笑えた気がする。だが涙も止め処なく溢れる。夏美も笑い返す。
白い唇から、小さく声が洩れるように呟く。
「……やっぱり……あきは……わらうとかわいいわ……」
「そ……うかな?」
「…………ええ……そうよ……」
亜季はもう一度笑い、夏美の手を握った。
だがその手は、異様に冷たかった。氷のように――死人のように。
「え……?」
そして夏美は、擦れるような声で亜季に囁く。
その空ろな目は、すでに半分以上閉じられている。
「…………さいごにみる……あきのかおが、なきがおなんて、おかあさん、いやだもん……だから、わらって、ね?」
「え…………?」
何?
どう言うこと?
さいご?
最後?
最期?
それって……!
「ダメだ!」
亜季の耳に、強張った高鬼の声が響いた。
「ダメだ夏美さん! 受け入れちゃダメだ! 死を受け入れちゃダメだ! 生きることに満足しちゃダメだ! もっと生きたいと願うんだ! 頼む! 受け入れないでくれ!」
え……何……?
死を受け入れる?
生きるのに満足?
お母さんが?
それじゃあ。
それじゃあ……!
「亜季ちゃん! もっと強く想うんだ! お母さんを助けたいと想うんだ!」
「や、やってるわよ……!」
お母さん、どうして……!?
どうして生きたいって思わないの?
どうして……死を受け入れるの……?
どうして――
「お母さん!」
どうして――
「くっ……! まずいっ!」
どうして――
「…………もう…………いいのよ……あき…………」
どうして――
「………………あきは……あきよ…………あなたの……すきな、ことを…………まんぞくするまで………………やりなさい…………」
――どうして
「……おかあさんは……もう…………じゅうぶんいきたわ………………さいごに……あきにだいすきって……いってもらえて…………」
どうして――
「……おかあさん……しあわせよ……」
――あたしを置いて逝くの?
「お母さああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!!」
最初の異変に気付いたのは関本だった。
「何だ……!?」
真島と竹中は血相を変えた関本を見て訝しげに訊ねた。
「部長、どうしたんですか?」
「どうしたって……お前ら、何も感じないのか!?」
「感じるって、わたしも特に――」
だが言葉の途中で真島も竹中も異変に気付いた。
一言で表すなら苦しい。もう一言加えるなら、哀しい。
人間の持つすべての負の感情をより合わせたかのような息苦しさに、心臓を鷲摑みにされているような――とても感情とは呼べない感覚が伝わってきた。
それが目の前に聳え立つ救急病院の一室から溢れ出しているのだ。
「何ですか……これ!?」
「分からん……分からんが……まさか!」
関本はポケットから例の赤い『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』を取り出
し、目にも止まらぬ指捌きで操作する。
「……やっぱりか! あのヘボ死神!」
――『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』にはこう表示されていた。
『小林夏美四十二歳――残り寿命ゼロ日』
そしてその隣には、
『高鬼亮四十一歳――残り寿命不明』
関本は特注の『人がいつ死ぬのか数値で教えてくれるリモコン』を地面に叩きつけ、病室目指して駆け出した。どうせ誰も見えていない、と無遠慮にロビーを走り抜け、エレベーターにかじり付いた。
「………………! くそっ!!」
だがエレベーターは全く降りてくる気配を見せず、チンタラと最上階から停まりながらゆっくりと一階を目指している。
「あーもうっ!! 階段で行った方が早い!」
関本は苛立ちをエレベーター入り口に叩きつけ、隣の階段を目掛けて走り寄った。
だがそこに、意外な人物が待っていた。
「……よう」
「何だお前か! どけ! 邪魔だ!」
関本たちが今勧誘している、残り寿命一週間の少年――早川一樹。
一樹はどこかのんびりとした口調で階段に立ち塞がっていた。
「つっても俺、どけないんだよね。あんたを足止めしろって言われてるし」
「誰にだ!」
そんなことは、関本が一番分かっている。
一樹は足止めのつもりなのか、ゆっくりと溜息を吐いてから答えた。
「高鬼さん」
その瞬間、関本は確信した。
「……どけ」
「え」
一樹は驚愕の表情を浮かべ、その場に倒れこんだ。
恐らく彼は何が起こったのか全く理解できなかったのだろう。だが関本からすれば造作もない行為だった。何ということはない。ただ恐ろしく速い拳を一樹の腹に叩き込んだのだ。
「部長!」
「え、あっ!? 一樹君?」
遅れて到着した真島と竹中は、なぜか一樹の鳩尾に拳をめり込ませている関本の姿に度肝を抜かされた。
関本の馬鹿力は天国・地獄の両株式会社でも有名だった。そんな関本のパンチを、ただの人間の少年がまともに喰らったら――意識が飛ぶでは済まされない。
「……真島、愛ちゃん。その餓鬼を押さえとけ。手加減はしたがしばらく目は覚まさないはずだ」
「は、はい」
悪びれる様子もなく、関本は二人の返事を待たずにさっさと一樹を押し付け、階段を駆け上がろうとした。
「……待ってくれ……」
「え!?」
「何で部長の鉄拳を喰らって平気なの!?」
一瞬は気絶しかけた一樹が、薄っすらと目を開けて関本を見やっていた。無意識のうちに必要以上手加減をしてしまったか、と関本は舌打ちをする。だがその弱々しくもしっかりとした眼光に、関本は足を止めた。
「……何だ」
「……あんたに……伝言…………高鬼さんから……『ゴメン』……って……」
「……!」
今度こそ関本は、苛立ちの全てを拳に込め、壁に叩きつけた。ミシリ、と拳と壁の双方から不気味な音が聞こえた。それに部下二人組みはヒッと息を飲んだが、本人は歯軋りをして階段に向き直った。
「あのヤロウ……! 謝るくらいならンなことすんじゃねえっ!!」
今度こそ誰にも止められることなく、関本は全速力で階段を駆け上がった。
ガンガンガンと無遠慮な足音が鳴り響く。
途中で履いていたハイヒールのヒール部分がへし折れたため、そこからは素足で駆け上がる。滑りやすくなった分スピードは落ちたが喧しい足音は消えた。
確か小林夏美の病室は四階だったはず。
普段の会社の上り下りも健康に気を遣って階段だったが、たかが三フロア上るだけでここまで時間がかかるのだろうか。
だが関本は走り続ける。
走って走って。
そしてようやく到着する。
「高鬼ぃっ!!」
大声を張り上げて病室の扉を開け放つ。
そしてその光景に呆然とする。
そこは薄暗く、やけに静かだった。
病室の天井という天井、壁という壁、床という床に――真っ黒のカードがビッチリと隙間なく張り付いている。かろうじて窓から洩れる光が部屋を照らすのみで、あとはベッドから伸びているチューブやコードの先でわずかな機械的な光が点滅しているくらいか。
そしてその機械からは、ピー、と無情な電子音が聞こえていた。
「……高鬼」
そしてベッドの反対側の椅子に力なく腰掛け、俯いている男に声をかける。
「高鬼」
もう一度呼びかけるが、関本の声に反応する気配すらない。
チッと舌打ちし、関本は床のカードを一枚拾い上げる。そのカードの黒い面は、ただ黒いのではない。そこにはこの世の――いや、あの世にも、どこにも存在しない文字が幾重にも重なり、真っ黒くなるほど莫大な量の文字が書かれている。
存在しない文字に意味が存在するわけがない。
だが関本には、その文字の意味が分かった。
――生きたい
――死にたくない
たったその二種類の意味の文字が無数に散らばっている。
「消えろ」
呟く。
すると無数のカードは一瞬にして消え失せた。
薄暗い病室に光が差し込む。
その色は赤く、もうすっかり夕方になっていた。
「高鬼」
そして関本はもう一度呼びかける。
だが高鬼は返事をしない。
いい加減苛立ちも限界まできていた関本はもう一度拳を握り締めた。そしてその鉄拳を高鬼の横っ面に思いっきり叩き込んだ
「ぐっ……」
鈍い悲鳴を上げ、高鬼は椅子から転げ落ちる。だが関本はその襟首を容赦なく引き起こし、顔面に強烈な頭突きを入れる。
「おい高鬼! お前……!」
関本は眉間に深々とシワを彫り込み、高鬼を睨み付ける。だが高鬼のその瞳は、意識は宿るもののまったくの虚無だった。
「お前、アレをやったのか!」
その口調は、疑問系ですらなかった。そして高鬼は薄っすらと口を開いた。
「……あぁ……ゴメン……」
「そんな言葉、とっくに伝言で貰ってる! 高鬼、お前自分が何をしたのか分かってんのか!?」
「……分かってる……分かってるさ……」
「理解している上で、アレをやったのか!? アレは、お前が考えてる以上に不確定で、不安定で、不確実な方法だって理解してか!?」
「……あぁ……ちゃんと理解してる……」
だけど、と高鬼は震える声で続ける。
「……だけど……俺……もう……人間が……死ぬのを……見たくなかったんだ……見たくないから……俺は……助けたかったんだ……そして……死にたかったんだ……」
ブチン、と関本の中で何かが切れた。そして掴んでいた高鬼の襟を放し、見下すように吐き捨てる。
「ふざけるな死神。お前は何も分かっちゃいない。お前のそれは自分勝手な戯事でしかない。人間が死ぬのを見たくない? そんなのはお前の我が儘だ。助けたかった? たいした偽善だな。それに、よりにもよって人間助けて死にたかった? ふざけるなこの死にたがりが!」
お前は誰も助けられない!
関本はうなだれたままの高鬼に叱責を浴びせる。
だが何も抵抗せず、ただただ呆然とゴメン、ゴメン、と吐き続ける高鬼を見て、関本の中に冷ややかなものがせり上がってきた。
「……もういい。お前がここまで身勝手なやつだとは知らなかった。好きにしろ。どうにでもなれ。どこにでも行け。そしてさっさと野垂れ死ね」
もう俺はお前なんかと関わりたくない。
そう呟き、関本は踵を返す。
彼女は一度も、振り返らなかった。
「……消えて」
茫然と関本の背中を見送ると、そんな消え入るような声が耳に届いた。
視線を向けると、亜季が目に涙を浮かべながら呟いていた。
「亜季ちゃん……」
「消えて」
今度ははっきりと聞こえた。
「お母さんを助けようとしてくれたことには感謝してるわ。でも……失敗したんでしょ?」
「………………」
高鬼は答えない。答えることができない。
「あんたは死神でしょ。あたしのお母さんを連れていく。そんなやつを、娘が許せるはずがないじゃない。あたしは、いつあんたを傷つけるか分からない。だから……あたしの理性が残っているうちに、消えてちょうだい」
「亜季ちゃん……!」
「消えて!」
悲鳴のような叫びだった。それに高鬼は怯むように体を震わせる。だがすぐに亜季に向き直り、頭を下げる。
「ごめん……」
「……もういいから。さっさと消えてよ! これも返すから、あたしの視界からいなくなって!」
そう言って亜季は四つ折りにされた紙切れを高鬼に叩きつけた。
それは、地獄株式会社の入社同意書。
「……ごめん」
高鬼はもう一度呟き、病室を後にした。
振り返るなんて、出来るはずがなかった。