そのご
どこかの街路樹にとまっているのだろうセミがジィィィィィィっと喧しく鳴いている。田舎と呼ばれる地方にはもったいないようなショッピングモールの中を、亜季は夏らしい淡い色のワンピースに身を包み、堂々と闊歩していた。
もちろんここには貯めておいたお小遣いを利用して、洋服やその他諸々の小物を買い揃えに来たのだ。
すでにそろそろ帰りのバスを気にする時間帯なのだが、亜季は財布や携帯用のメイク道具が入った小さなポーチ以外、全くの手ぶらである。
買った物が入った袋類は――亜季の後ろを付き従うように歩く、疲れたサラリーマン風の男にすべて持たせてある。
その男とは、もちろん高鬼である。
「ねえ、いいの?」
高鬼は痺れた腕に力を入れ、ずり落ちてきた袋を持ち直した。
その表情は相変わらず疲れているように見えるが、同時に心配しているようにも見える。
「お母さんが残り少ないっていうのに買い物なんてして」
「いいの」
だが亜季は即答で首を振る。
「でもさ、もうちょっと、することとかあんだろ?」
「あたしにはあたしの楽しみ方があるのよ」
「ふーん……」
こういう時の亜季は何を言っても話を聞かない。そのことが、高鬼かこの四日間から学んだことだった。
この少女、見た目の可憐さと打って変わってかなり――いや、鬼のように我が強い。
一度言ったことは絶対にやり通すし、自分の信念は曲げることはない。だがそうかと言ってただのワガママ娘なのかと思うと、それもまた違う。
担任の新田やクラスメート、それに高鬼も間違いを指摘すれば素直に認める柔軟さもある。
もっとも、素直に認めることと素直に直すこととは違う話なのだが。
ちなみに高鬼は何度も亜季に言い包められ、いまだに入社同意書を返してもらっていない。
「でも、さ」
亜季はチラッと後ろを付いてくる死神に目をやった。
「お母さん本当に死ぬの?」
「何で?」
「いや、残り三日で死ぬってわりにはどこも悪そうじゃないし……むしろ前より元気な気がするんだけど」
それはここ数日、高鬼も不思議に思ってきたことである。リモコンには死因は表示されないため詳しいことは分からないが、見ている限り夏美の体調はすこぶる良好なのである。
本当に、わざとらしいほどに元気がいいのだ。
「うーん、たぶん事故とかにあって死ぬんじゃないかな? 必ずしも病気で死ぬってことじゃないしさ」
当然思い浮かべるべき単語に亜季はドキリと足を止めた。
事故。
「事故、か……やっぱり痛いのかな?」
「どうだろうな。やっぱり痛いんじゃない?」
どこか他人事のように返事をする高鬼。少なくとも、自分の連れて行く相手の死因の話にしては無責任に思えた。
「……あんた元々は人間でしょ? だったら分かるんじゃないの? その、死んだ時の感じとかさ」
「いやー」
高鬼は申し訳なさそうに表情を歪めた。
「俺たちって、入社と同時に人間だった頃の記憶って全部消されるんだよねー。特定の人間に思い入れしないように、っていう社長たちなりの気配り、なのかね? じゃないと死神の仕事なんて出来ないもん」
「そう……なんだ……てことはさ」
「うん?」
「例えば、あたしが死んで死神になったとしたら、あんたのことも忘れてるってこと?」
亜季達は店の外に出る。クーラーの効いていた店内と違い、直射日光とコンクリートの照り返しが容赦なく二人を襲う。
「まあ理屈ではそうなんだけど……あの、俺、いくらヘボくても亜季ちゃんが早死にしない限り、死神になる頃にはさすがに人間に生まれ変わってると思うんだけど……」
「えー、それはないんじゃない? あんた、自分で思ってる以上にヘボいよ?」
「ちょっ、やめてくださいっ。俺、何歳まで死神やらなきゃいけないのさ」
「うーん……ドクロの変装がいらなくなるくらい?」
「勘弁してください!」
変な汗を流しながら悲鳴を上げる高鬼。この暑い中スーツを着込んでいるせいもあるのだろうが、きっと骸骨と間違えられるようになってもまだ死神をやっている自分のすがたを想像してしまったのだろう。
亜季は楽しそうに笑っているが、高鬼にとっては冗談じゃない。
とてもじゃないが笑えない。
「はあ、それにしても……」
暑い。
亜季は薄着だから高鬼よりかは幾分マシだが、それでも流れ落ちる汗は気になる。メイクが崩れないようハンカチで押さえるようにして拭っても全然追いつかない。
それにこの直射日光は歓迎できない。日焼け止め対策は施してはいるが、それでもかなり心配だ。
「水分補給はこまめにね」
「分かってるってば。高鬼、あんたって妙に所帯じみた発言多いよね」
「そう? これくらいなら常識だと思うけど」
「そうなんだろうけどさ……何かあんたって――」
お母さんみたい。
その単語は、ギリギリノドの奥に飲み込んだ。
「あら、亜季。お買い物?」
何でこんなところで、よりにもよってこんなタイミングで、こんなやつに会うかな……。
「……何。お母さんには別に関係ないでしょ」
冷たい視線を一瞬投げかけ、後は目を合わせようとしない。
相変わらずの態度の娘に、夏美は困ったように色白の頬に手を当てた。
「もー、素直じゃないんだから。あ、お買い物終わったんだったら一緒にプリンでも食べに行かない? お母さん、美味しいところ見つけたんだ」
「付いて来ないでよ。だいたい今、友達と一緒なんだから」
「あらそうなの? ここにいないみたいだけど、どこにいるの? お母さんにも紹介してちょうだいよ」
はあ、と亜季は夏見を睨む。
「そこにいるじゃない」
と、高鬼を指差す。だがそこで思わず、しまったと思った。
このオッサンは人畜無害だけど、親から見れば高校生の娘が中年オヤジを連れて歩いていたら間違いなく心配される!
また下手に心配されるとウザったくて仕方がないのに!
だが夏美はキョトンと小首を傾げ、高鬼を――高鬼の後ろの、西郷隆盛像を見やった。
「……ん? 西郷さんは銅像だから、動けないわよ?」
「お母さん、ふざけてるの?」
それならそれでいいのだけれど。
「西郷さんでしょ? お犬さんを散歩させてるわ」
「……じゃなくて、こいつよ。疲れたサラリーマンみたいな格好のやつ」
「え、疲れてるの? それなら早く行きましょ」
勘違いで心配され、夏美はゆっくり歩き出した。
その背中を見つめながら、亜季は小声で高鬼に尋ねた。
「……何で?」
「死神や天使は一人までにしか姿を見せられないんだ。俺達が見えるのはその一人か、他の死神か天使が見えてる人だけなんだ。あとはまあ、本当に命の瀬戸際の人がたまに見えるくらいかな」
「え、でもあんた、前にアイス買って来てくれたじゃない」
「まあ短時間だったらあえて姿を見せることも出来るさ。でも疲れるからあんまりしたくないんだよな」
「じゃあ今は荷物持ってるけど、どういう風に見えてるの? まさか袋が宙を浮いてあたしを追ってるように見えてるんじゃ……」
「大丈夫。普通の人には袋すら見えてないから」
「そっか……」
ふと、夏美が歩みを止め、心配そうに亜季を振り返った。
「亜季? 大丈夫?」
「……何が」
「だってさっきから、一人で何を話し――」
ぐらりと夏美が揺れる。
そしてバタリと、夏美はその場に倒れこんだ。
「お母さん!?」
「えっ!?」
高鬼も慌てて近寄る。
見れば夏美は、異様なほど色白の肌に脂汗を滲ませていた。呼吸も荒く、それでいて酷く浅かった。
苦しそうの一言では、到底片付けられない。
「お母さんっ、お母さんしっかりして!」
まさか日射病!?
亜季はポーチの中から小さいペットボトルを取り出し、すっかり温くなった中身のミネラルウォーターを夏美の口に含ませた。
チッと高鬼は舌打ちし、ポケットからリモコンを取り出した。
「予定より早いじゃないか……くそっ、やっぱ試作品だから性能は安定しないのか? 関本のやつ、不良品つかませやがって……」
夏美の異変に気付き、近くを歩いていた高校生くらいの二人組みが走り寄って来た。カップル……いや、兄妹だろうか。どことなく雰囲気が似ている。
妹は混乱しきっている亜季に叫ぶように声をかけた。
「どうしたんですか!?」
「お母さんが……急に、倒れて……!」
「これは……早く救急車を!」
兄はケータイを取り出し、一一九番に連絡しようとした。
だが口に含んだ水をゆっくりと嚥下し、夏美は顔色の悪いまま立ち上がろうとしていた。
誰の目から見ても、無理をしているのは明らかだった。
額の汗を拭いながら、夏美はか細い声を絞り出した。
「……大……丈夫よ……」
「お母さん!?」
「……大丈夫よ……ちょっと、めまいがしただけだか……ら……」
「大丈夫なわけないじゃない!」
あくまで気丈に振舞う母親に、亜季は痺れを切らしたように叫んだ。
こういうことか……!
あと一週間しか生きられないんだ、と高鬼は告げた。
こういうことか……!
大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。
なぜなら夏美は、あと三日で――
「お兄ちゃん、とりあえず救急車!」
「あ、ああ!」
兄は改めてケータイから緊急連絡を行なった。
それを最後に、亜季の意識は朦朧としていた。
何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――夏美に呼びかけていた。
だが、返事はなかった。
「お母さん!!」
亜季の呼びかけに、夏美は何の反応も見せない。
「お、高鬼じゃないか」
誰かが、高鬼の名を呼んだ。
誰? 高鬼を知ってる人?
どうだっていい。
そんなこと、どうだっていい!
今はお母さんだ! お母さん以外のことなんて、どうだっていい!
「ふふん、何だ。ずいぶん派手にやってるな」
誰よ! おかあさんが苦しんでるのに、そんな軽く笑うやつは!!
高鬼は叫ぶ。
「関本!」
亜季は、高鬼がそいつを叱ってくれると思った。
そうよ。
人が苦しんでるのに、笑ってるやつなんて叱られて当然よ!
そして高鬼は怒鳴る。
全く違うことに関して。
「おい、何だこの不良品は! 予定より早いじゃないか!」
え、何?
不良品?
そんなこと――
「ん? ああ、たぶん発作じゃないか?」
「試作品とは言ってもそれ、ほぼ正規品だから故障とかじゃないと思うわ」
「そ、そうなのか……?」
妙に納得する高鬼。
違う! あたしが気にしてるのは、そんなことじゃない!
そんなこと、どうだっていい!!
「高鬼!」
亜季は叫んだ。絶叫と言ってもいいくらい、叫んだ。
「ちょっとあんたも手伝ってよ!」
「…………っ」
だが高鬼は動かない。
まるで硬直したかのように、微動だにしない。
「聞いてんの!? 早く手を貸してってば!」
「お、お前らも手伝ってくれよ!」
救急車を呼んでくれた兄も、誰かに叫んだ。
誰だろう。
どうだっていい。
そして兄に話しかけられた人物――先ほど笑っていた女は、感情のない声で答える。
「……俺たちは一切干渉できない。例え自分の身内が、目の前で死のうとも」
プツンと、亜季の中で何かが切れた。
何を言っているの?
何を言っているの?
何を言っているの?
助けてよ。
お母さんを。
助けてよ!
「お母さん! お母さん!!」
はるか遠くで――すごく近くで――高鬼が吼えた。
「くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーっ!!」
それを最後に、亜季は記憶が曖昧になった。
どこかの街路樹で、セミが喧しく鳴き騒いでいた。
再び記憶が明確になったのは、救急病院の待合室だった。
ああ、そっか。
あたし、救急車でお母さんを病院に――
あまり好きになれない消毒液の香りが充満する中、少し肌寒いと感じた。病人怪我人のために気温が低すぎないよう調節してあるのだろうが、それでも亜季には過ぎた冷房だった。
横を見る。
その場に居合わせた兄妹が、混乱しきった亜季と一緒に付いて来てくれたのだ。
見ず知らずの亜季に親切にしてくれ、正直助かった。さっきまでの状態の亜季では、何をしでかすか分かったものじゃなかった。
妹は同性の立場からか、亜季の手をギュッと握ってくれていた。それだけで、亜季はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
そして正面を見る。
兄の方は壁に寄りかかり、忙しなく足を揺すっていた。
まるで自分の肉親の身に起きたかのように動揺し、焦り――心配してくれている。まるで、虚空のような状態だった亜季の代わりをしているかのように。
「付き合わせちゃってごめんね……」
亜季はそう呟いた。聞こえるかどうか微妙なほど小さい声だったが、妹は聞き取ってくれていた。
「大丈夫です。用事なかったんで」
「……ありがとう……えっと……」
「あ、私、笑美です。早川笑美。あっちが兄の――」
「――一樹だ……笑美、俺ちょっとジュースでも買ってくる」
「分かった……」
そうぶっきらぼうに言い残し、兄――一樹はその場を後にした。
「ごめんなさい」
「え?」
「お兄ちゃん、普段はもっと優しい喋り方何ですけど……すこし混乱してるのかな」
妹――笑美の思わぬ弁解に、亜季は自然と微笑がこぼれた。
ようやく、本格的に落ち着いてきた。
「大丈夫よ……他人事なのに、あんなに親身になってくれてるんだもん。優しいっていうのは十分……分かってるわ」
そうですか、と笑美はホッと胸を撫で下ろす。
「あたし、小林亜季」
「あ、はい。亜季さんですね。よろしくお願いします……って、何をお願いするんだろ」
どこか小動物のような印象の少女は、可愛らしく肩をすくめた。
「あの、亜季さん」
「なーに?」
「その、私が言うのも何ですけど……笑ってください! 辛いことがあっても、笑っていれば気分も明るくなる、ってうちのお母さんはよく言ってます……だから、空元気でも、意地を張ってでも、笑ってみてください……少しは気持ちも楽になるし、明るくなれますよ! それに……亜季さん、きっと笑ってるほうが可愛いですよっ」
「………………!」
そう言えば、そんなことを数日前も言われたっけ。亜季はゆっくりと顔を上げ、笑美を見つめ返す。そして強張ってしまった顔の筋肉を無理やり動かし、不恰好に笑った。
「……こう?」
「はいっ」
笑美もニッコリと笑う。その仕草の一つ一つが、亜季の心を穏やかにしてくれた。
だがそれは、コツコツと近寄ってくる足音に簡単に打ち砕かれた。
最初は一樹が戻ってきたのかと思った。だが戻ってきたのは一樹なんかではなく――
「すまない……規則なんだ」
そう言い訳のように、高鬼は弁解した。
「俺は……俺たちは見ていることしか出来ないんだ……許してくれ、何て言わない。でも分かってくれ。俺だって、ただ見てるだけなのは辛いんだ……」
何を今さら。
そんな言い訳、聞きたくない。
そんな言い分、認めたくない。
亜季は俯き、手で顔を覆った。笑美が心配そうに肩を抱いてくれたが、高鬼の登場によって堪えていたものが再び競りあがってきた。
「……お母さんを」
「え……」
「……お母さんを助けてよ」
亜季さん……? と笑美は覗き込む。
構うもんか。
あたしが誰に話しかけようが、あたしの勝手だ。
それが例え、笑美に見えない死神でも。
「お母さんを助けてよ!」
「!! そ、それは……」
「亜季さん……?」
高鬼は気まずそうに目を逸らす。
逃げるな。
逃げるな死神!
「あんた死神なんでしょ? 何とかしなさいよ!」
「……………………っ」
「ねえ、何とかしなさいよ!」
「亜季さん!? 亜季さんしっかりしてください! 亜季さん!」
きっと笑美の目にはずいぶん奇妙に見えただろう。
誰もいない空間に声を荒げ、死神などと口走る少女は。
構うもんか。
見えていなくても、そこにいるのは間違いなく――死神なのだから。
そして高鬼は声を絞り出す。
「……本当に……すまない……」
そうか。
亜季はどこか冷めた視線で高鬼を見つめた。
相変わらず、頼りない風貌のサラリーマン。ヨレヨレのスーツにボサボサの頭髪。どこを見てもやる気を感じない。
疲れたサラリーマン。
手には、ここまで持って来てくれたのか、亜季の買った洋服の入った袋。
夏美が苦しんでも、その袋は落とさなかったのか。
普段の――夏美を毛嫌っていた亜季ならば、そのことに安心していただろう。
ああ、ちゃんと持ってきたんだ。偉いじゃん高鬼のくせに、と。
だが今は、そんなことですら、亜季を苛立たせる材料にしかならない。
「……消えて」
震える声で言い放つ。
そこで亜季は初めて、涙が頬を伝っているのに気付いた。
温い水滴が、途切れることなく目尻から頬へ、そしてあごの先へと伝っていく。
泣いてるのか。あたしが。
お母さんを想って。
「亜季ちゃん……」
高鬼は済まなそうな顔をした。
だが亜季は冷たく言い放つ。
そして突き放つ。
「……消えなさいよ」
「え……」
「あたしの前から消えなさいよ、死神!」
涙で霞んでいたが、高鬼は今まで以上に――哀しそうな表情を浮かべていた。
「う、うぅっ……!」
メイクが崩れるのも構わずに涙を拭い、もう一度顔を上げる。
しかしそこにいた高鬼の姿は、霧のように消えていた。
亜季が命じたように、消えていなくなっていた。
「……はいこれ」
「…………?」
変わりに、一樹が戻ってきて缶コーヒーを差し出していた。
「何飲みたいか分かんなかったからコーヒーと紅茶買ってきたけど、どれがいい? コーヒーは砂糖有りと無し、二つあるから」
「ありがと……じゃあコーヒー、砂糖有りで」
「はい。笑美は紅茶でいいな」
「うん、私ブラック飲めないもん」
二人に飲み物を配り、一樹は先ほどのように壁にもたれずに笑美の横に腰掛けた。どうやら彼も少しは落ち着いたようだった。
プシッと缶のプルタブを開け、亜季はコーヒーを口に含む。煎りたてが売りのメーカーだけに、砂糖で甘くしてあってもきちんと香りが残っている。
どれだけそうしていただろう。
缶コーヒーを一本飲み切れなかったのだからそれほど時間は経っていないはずだった。それなのに無情なほど長く感じた時間の末、視界の隅に薄青の手術着を着た医師が歩いてくるのが見えた。
慌てて立ち上がり、コーヒーを落としてしまうところだった。
「あ、先生!」
「……俺達は外すよ。笑美、行くぞ」
「うん……」
そう言い残し、小林兄妹はその場を後にした。
残された亜季はすがるような目で医師に詰め寄った。
「先生……母は……!」
「全力は尽くしたのですが……」
「はい……」
その一言だけで、亜季は悟った。
死神が訪れた時点で、覚悟はしているつもりだった。
だがこうして現実として突きつけられると――頭が真っ白になり、何も考えることが出来ない。
医師は静かに続ける。
「やはり全身に悪性腫瘍が転移していました。もうどこを切っても、手のつけようがありません」
「腫瘍……!」
思いがけない単語に亜季は衝撃を受けた。
悪性腫瘍。
つまり、癌。
癌。
お母さんが、癌!
「どういうことですか!? あんなに元気だったのに、癌って……!」
「お母様はだいぶ無理をなさっていたようです。半月前に腫瘍が発見された時はもう手遅れでした……あなたに気を使わせないよう気丈に振舞っていたのでしょう」
「お母さん……!」
こんな時まで――お母さんは自分勝手に……!
勝手に一人で背負い込んで……!
「……診察に来るたびにいつも御子さんの話をしていましたよ」
「この春から……弁護士になる兄がいるんです」
冬斗。
夏美の、自慢の息子。
亜季はその場にいなかったけど、夏美が嬉しそうに冬斗のことを話しているのがすぐに思い浮かぶ。
きっと自慢げに話していたのだろう。
何と言ったって、自慢の息子なのだから。
だが医師はうん? と眉根をひそめた。
「おや、お兄さんがいらしたんですか? いえ、お母様はいつもあなたのことを話していましたよ。『いつも一生懸命勉強を頑張っている』と」
「え……そんな……!」
そんな、の次は言葉続がない。
自分の身が病魔に蝕まれているというのに、お母さんは……!
ずっとあたしなんかを!
亜季は内心で首を横に振る。
自分勝手に背負い込んだ?
何を言っている。
自分勝手に、お母さんを傷つけてきたのは、あたしじゃないか!
あたしが一生懸命勉強してると本当に信じ込んで、お母さんは病気のことを隠していたんじゃないか! あたしの勉強の妨げにならないように! あたしが勉強にちゃんと集中できるように!
それなのにあたしは!
お母さんの気も全然知らないで!
勉強を怠けて!
変な意地を張って!
虐げて!
悪口を言って!
あまつさえ、死んで当然だなんて……!
「う、うぅ……っ! あたし……あたし……!」
「……もってあと三日です。意識が戻るかどうかは微妙なところですが……残りの時間を有意義に使ってください」
わたしはこれで、と医師は立ち去った。
「まだあたし……お母さんに……謝れてない……!」
亜季は人目を憚らず――涙を滝のように流した。
亜季には、それを止める方法など思いつかなかった。