屋根裏の人々
今日も屋根裏から物音が降ってくる。ずるずると違う方向からふたつ、お互いに歩み寄っている。そして声。私より幼い声がふたつ、ささやきあっている。更に、部屋の隅の方でがたごとと何者かが身動きしている。ささやかなはずの声と音は無限に大きくなって、私がいるこの空間を駆け巡る。
「食べちゃったの」
小さな男の子の、声。
「何を食べちゃったの?」
大きな少年の、声。
「おいしいもの」
「どんな?」
「女の人の心臓の音」
私は、汗で湿ったマットレスに体全体を張り付けている。大の字になって、無臭の闇を嗅いでいる。
ここは、私の部屋ではない。家族も友人も私の部屋だと認識しているこの四角い空間は、別のものに所有されている。
それは、声。
この部屋の所有主は姿の無い声で、私を認識しているのか分からないが、ヒソヒソと、ささやき合っている。私はそっと耳をふさぐ。耳の中の血液がさあっと流れるのが聞こえる。ヒソヒソ声はそれでも聞こえてくる。
「女の人の心臓の音?」
「うん。すごくとろとろして甘いんだ。ぼく大好きなんだ」
「カケルは甘いものが好きなんだな。でも大人のものは体に悪いんだよ」
「そうなの?」
「大人のものばかり食べていると、今にサクヤお姉ちゃんのようになるよ」
ひっと息を呑む、男の子の気配がする。
「サクヤお姉ちゃんみたいにくしゃくしゃの紙屑みたいになっちゃうの?」
「そうだよ」
深刻さを装っているような、少年の声。
「ぼく、サクヤお姉ちゃん、嫌い。つぶれた紙風船みたいな姿なんだもの」
今までゆっくりと物音を立てていた物が、急に止まる。そして突如としてがたがたと移動する。私のいる場所である、部屋の左端から右端へ。すごい速さだ。木で出来た人形が、ぜんまい仕掛けで走っているみたいだ。
次に聞こえた音は、始めはきいきいと響く、失敗したバイオリンの音かと思った。だが違う。それはヒソヒソ声の一種なのだ。
「私の、悪口を、言うやつは、許さないいいい……」
これは少女の声なのだ。壊れた楽器の音でも、金属のこすれあう音でもない。彼女は少年と男の子の姉なのだ。
「だって笑っちゃうよ。サクヤ姉さんたらさ」
と、少年の声。あざけるように笑っている。
「同じ男の瞳と鼻と唇と声を食べて、耳のうずまき官まで食べて、とうとう肺まで吸い込んでしまうんだもの。あの男は汚い死体になったよね」
「おだまり」
「同じ人間、それも大人から何度も『頂く』と、僕らはサクヤ姉さんのように腐ってしまうからご用心。ね、カケル」
男の子は黙っている。この子は少年が少女をからかうときはいつも黙っている。一体何故黙っているのか、私は知っている。
「おだまりいいいい……」
少女の金属的な声が響く。がたがたがたがたと、私の周りを駆け回る。少女は木のように走る。不揃いで、硬い足音。少年の足音はほとんどしない。ひたひたと、水の落ちるような音がするばかりだ。彼らは追いかけっこをしている。命懸けの。足音は私の頭上をぐるぐる回っているのだが、この暗闇の中ではまるで私の周りを走っているように感じる。
「お待ちいいいい……」
がたがたという足音が、私の上に来た。
「ミナミいいいい……。私の姿のことを、カケルに言ったなああああ……」
「放せよ。ミイラみたいな感触だ。気色が悪いよ」
心なしか少年の声は上擦っている。少女が荒く息をする。
「あたし、あんたを、食べるからああああ……」
がたんと大きな音がする。
「よせよ。気味の悪い顔を近づけるな」
と少年の強張った声がする。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」
と男の子の声がする。何故か楽しそうだ。
「食べるうううう! 食べるうううう!」
「よせよ! 放せ!」
突然、バキッと何かが割れる音がした。少年の絶叫が部屋中に響き渡る。私は耳に指を突っ込む。もう血液の音はしない。少年の悲鳴が鼓膜を震わすだけだ。
ひいひいと少年が泣く中、少女はバキバキと何かを食べた。硬いものも柔らかいものも一緒になって、少女の木のような硬い口の中でかみ砕かれているのだろう。そんな音だ。男の子がヒヒヒヒ、と笑っている。
「ミナミお兄ちゃんの足の中、真っ赤だね」
「カケル、あんたも、食べてみな」
少女が男の子に促すと、少年はまたひいっと悲鳴をあげた。
「ぼくは、ミナミお兄ちゃんの肝臓が食べたい」
「お食べ」
少女の声は限りなく優しい。その後、小さな足音がして、私の頭上に近づくと、何かを切り裂く音がした。少年が枯れかけた声を限りに上げた。ヒヒヒヒ、と男の子が笑う。同時に何かをむしる音がする。ぶちぶちと、内臓のちぎれるような音だ。少年は、声にならない声を上げている。何かをすすり、舐め、かみ砕く音がする。くちゃくちゃ、ずるずると濡れた音が響く。少年の声は徐々に弱くなっていく。
「ミナミお兄ちゃんが弱っていくよ」
「そうだね」
「ミナミお兄ちゃんが無くなっていくよ」
「そうだね」
ぽたぽたと、生温いものが私を濡らす。際限なく落ちてくるそれは、確かに血だ。私は体中に降り注ぐそれを、避けることもせずに受けていた。
少年の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「ミナミお兄ちゃん、無くなっちゃった」
「そうだね」
「早くミナミお兄ちゃんの声を食べてしまえば良かったな。うるさいんだもの」
「あの、悲鳴が、何よりも、好きだよ」
少女が笑った。声は声になっていなかった。ひゅうひゅうと、狭いところを空気が通り抜けるような音がした。何度も笑って、少女は唐突にひゅっとのどを鳴らした。
「ああ、私は、ミナミを、妊娠したよ」
少女が言う。その声は醒めきっている。
「ミナミを、食べたから、ミナミを、また、妊娠したよ。忌ま忌ましいね。またあいつは、生まれて来るよ。また私を、からかうよ」
「また食べればいいじゃない」
と男の子。ヒヒヒヒ、と笑う。
「ああ、カケルは、いい子だね。あんたを、食べたくなることなんて、ないものね」
男の子はヒヒヒヒ、とまた笑った。
「ああ、ミナミが産まれるよ。産まれるよ」
がたごとと、木のような音が私のところで鳴っている。まるで少女が屋根裏の床に体を横たえてのたうちまわっているかのように。少女はかすれた金属的な声で、
「産まれるよ」
と叫んだ。次の瞬間、ぬめった水の音がして、おぎゃあおぎゃあと赤ん坊の声が響き渡った。猫の叫び声に似た、声。新しい、声。
私は、冷えてしまった目に見えない血液の中で、白々と明るくなっていく無人の部屋を見つめながら、今から屋根裏を見に行こう、と思っていた。
そこには何がいるのだろう。彼らは私をきれいに食べてくれるだろうか。
《了》