第一章 令和七年夏
令和7年の夏、異常な暑さが続く中で、女房がパリの娘のところに行っているため僕はもうニ週間以上一人でいる。
パリにいる次女は結婚しないで、もう二十年以上も海外暮らしをしている。近くにいれば何かしら手助けをしたいのであるが、心配しても疎まれるのが常なので口を出さずに我慢している。女房はここのところニ、三年おきに世話焼きを名目にパリに行っている。
府中で所帯を持っている長女は子供ができる前には炊事、洗濯の面倒を見に実家に戻って来てくれたが、ここのところは一人での留守番が主流になって、炊事、洗濯、掃除などの家事もだいぶ慣れてきた。シルバー人材センターの駅近駐輪場の仕事が1日おきにあるが、それもだいぶ暇に思えてきた。
来年は後期高齢者になることから女房に終活をするように言われている。居合に使うため何振りかある日本刀には特に圧力が強い。そして、刀以上に気になっている代物がある。それは、半世紀ほど前の女性のスナップ写真である。
僕は昭和26年に生まれてから昭和48年オイルショックでトイレットペーパーが買い占められている頃までは新宿にいた。中央線大久保駅から中野方面へ行く大久保通りに面した北新宿というところだった。現在とは比べものにならないが深夜までガタイの大きいシボレーなどのアメ車や赤い方向指示板が飛び出す日野ルノーのタクシーなどが走っていたのが幼い頃のぼんやりとした記憶に残っている。今では信じ難いことだが、神田川で染めたての反物を濯いでいたり、鶺鴒が来ているほどで、コンクリートで護岸されてはいたが川の水は綺麗だった。
僕の家の一階は八百屋と肉屋で隣りには畳屋と乾物屋、その隣りには電気冷蔵庫が普及するまでは現役で使っていた内部にステンレスを貼ってある木製の冷蔵庫用の氷を買いに行った製氷店など便利な商店街通りになっていた。
昭和46年に住居表示され北新宿となったが住居表示前は柏木というところで、祖父の頃は近くに内村鑑三先生がお住まいで、耶蘇教(キリスト教)の内村鑑三先生の話を日本国東京淀橋柏木だけで手紙が届く有名な人だと祖母から聞いていた。夏だったのか着物(浴衣)にパナマ帽を被りステッキを持って工務店をしていた祖父を「岩神はおるか!」と訪ねて来られたそうである。借金取りも恐れず、捕まえたゴキブリを爪を立てて二つ折りにして煙草盆に捨て煙管をふかすような鉄火肌の祖母が、髭面で彫りの深い顔の先生を怖いと思ったそうである。皇国史観の全盛期に天皇陛下の御影を拝さない胆力は凄まじいオーラを放っていたことであろう。祖父が内村先生から頂いたという黒表紙の聖書があったが、後の埼玉への引っ越しのどさくさに紛れて行方不明になってしまった。
僕には伯母がニ人いて、両人とも所帯を持って近くの歩ける範囲に住んでいた。長男が戦死して三姉妹の一番年下だった僕の母が家を任され、僕が小学校入学時に父が養子に入った。僕は苗字が変わったが、子供だったので抵抗無く受け入れた。従兄弟たちも同じ小学校に通った。運動場の狭い小学校だった。岩神家の僕と弟が最年少だったので、従兄弟たちのお下がりで鞄を始め様々な物を間に合わされた。三家族とも、今は大企業となった新大久保のチューインガム工場の内職をしており、乳母車にガムの入ったブリキ缶を積んで大久保通りを往来していた。友達が「岩神君の家でガムを作っている。」と母親に話したので、父兄参観日に母が「岩神さん。ガムの作り方を教えてください。」と言われ、小さな声で「内職です。」と恥ずかしいけれど答えたと言っていた。
小学校の近くに平将門の鎧を祀っているという鎧神社があった。岩神家のお墓は近くの円照寺というお寺にあるので、現在でも墓参りと一緒に鎧神社に初詣をすることになっている。僕が小学生の頃、母がピアノを弾けるような男子に憧れがあったのか好きでもないピアノを習わされ、バイエルの二冊目の半分まで行った。家にピアノがあったのだが、習っていない弟の方が年中触っていたので上手かった。
昭和39年に早稲田の理工学部の傍にあった中学校に進学した。出来たばかりの区立中学校で僕等が入学して全学年が揃った。僕は居住地で定められた学区域を外れた越境入学で明治通りに近い所まで歩いて通った。今は廃校となって区の施設が建っている。
父は警察官で淀橋警察署で柔道をしていて、家に昭和27年体育始柔道優勝のカップがあるほど熱心に取り組んでおり、通りの向かいの自転車屋から古いチューブを貰って来て柱に縛り付け、背負い投げの稽古をしていたことを覚えている。青森県の出身で本人は標準語を使っているつもりだったのだがお国訛りが強く残っていた。僕は小さな頃に受身の基本から鍛えられていたので、自信のある柔道部に入りたかったが耳が潰れると母の反対にあって剣道部に入った。言い合いで負けてしまった無念そうな父の顔を今でも覚えている。父が僕に皮ジャンを買ってきてくれた時も母の反対で返品に行かされていた。剣道は柔道と違って父から手ほどきを受けてなかったので上達が遅く、嫌になって退部した。
中一の時には東京オリンピックがあって外国の女子選手を綺麗だと思った。海外の女性アーティストにも興味が出て、ちょっとませていたのかシルヴィ・ヴァルタンが気に入り、「アイドルを探せ」という映画を一人で新宿の映画館まで観に行った。モノクロだったと思うが童話の挿絵のお姫様のように綺麗だったのを覚えている。歩いて行ったが映画館の前の通りをまだトロリーバスか都電が通っていたと思う。
中三の時にビートルズが来日したが、受験勉強でテレビを見ている余裕が無くて残念だった。
昭和42年、高校は内村先生の話を聞いていた影響も少しはあったが、近所にいる美人の小学校での同級生が中学からミッション系の附属中学校に行ったので、駅などで思いがけず会った時に少しでも話が合えばと思い、埼玉のZ市にある大学付属のミッションスクールに進学して山手線経由の東上線で通った。月曜日にはチャペルで始業礼拝があり、洗礼を受けてミドルネームを持っている附属小学校からの同級生が隣でミレーの晩鐘に描かれた農婦のように手を組んだ礼拝をしているのを真似て、違和感があったが合掌した手を組み直した。池袋で高校生が学校単位で喧嘩をしている噂は聞いたが、僕の学校では丈を長く仕立て直した学生服を見たことは無く、すこぶる平穏な三年間を過ごした。体育の授業で柔道が有り、柔道部の顧問の先生から柔道部に誘われたこともあったが、男子校だったので他校の女子にモテたい為に音楽部に入っていた。ギターを買ったが演奏するジャンルがカントリー&ウェスタンでビートルズやローリングストーンズが人気でウェスタンと言えばマカロニウェスタンの時代にアメリカの演歌のような曲を演ってもモテそうも無かったので熱が入らず、一年も持たずに辞めてしまった。
大学は池袋にある。学生運動によるロックアウトが解けたばかりの校舎の内壁には学生運動のアジビラが貼られていた。池袋駅近くの大きな書店に三島由紀夫のサイン入りの初版本金閣寺と軍刀拵の関孫六兼元が展示してあった。その何ヶ月か後に自衛隊市ヶ谷官舎での自決事件が起こり、びっくりしたが、報道が檄文の紹介はあったものの「切腹」や「介錯」などの異常性に焦点が置かれ、「何故」という命を賭けて訴えたかったことがぼやかされた為に異常者達の自決で有耶無耶になったと思う。僕は売値の付いていたあの金閣寺を買っておけばよかったと後悔した。
二十歳になり厚生年金ホールで成人式が行われ、式後は小学校の同窓会のようになり、相変わらず美人な同級生に会ったが、プロ棋士になっていた売り出し中の同級生に女性群の興味は全て持って行かれた。学生の僕達とは立ち居振舞いが段違いに大人だと感じた。幼馴染なので赤くならないと思っていたが、僕はお目当ての女性と挨拶しかできなかった。
大学三年時の12月に父親が劇症肝炎で急死してしまい岩神家はおおわらわになった。生活費の他にも僕と弟の学費もあるため、通りに面した八百屋と肉屋の貸店舗の家賃だけでは厳しいということで一階の居間と台所の大部分を雀荘に改装して母が経営することになり、僕と祖母が、父親の隠居場所に買ってあった埼玉県のA市に家を建てて引っ越し、母と弟が、新宿の家のニ階で生活することになった。A市には祖父の実家がある。幼児の頃に従兄弟達と行く時には駅まで農耕用の牛にリヤカーを引かせて迎えに来てくれ、荒川の土手伝いに家まで行くことが別世界の体験で面白かった。その頃の駅舎は木造でありホームを含めた佇まいが高原にある駅のように感じた。農家なのにニ、三振り脇差が倉にあった。明治維新後に食い詰めた侍が脇差と米を交換しに来て、怖かったので応じたらしい。隣りの農家にはもっとあるそうである。僕が父の葬儀への御礼と近々の引っ越しの挨拶に行った時に、僕の刀好きを知っていたので一振り持たせて帰してくれた。引っ越し先は祖父の実家よりも幾分駅に近かったが、新宿に比べて不便この上ないため運転免許を取ることにした。
そんな折、4月から伯母の家に前年に日本に返還された沖縄から上京ほやほやの娘が下宿しに来ていた。スナップ写真の娘である。その娘の兄さんと僕の五歳上の従兄弟が友人だったこともあって、伯母が我が家にその娘を紹介しに連れて来た。ちょうどその時、僕は50センチくらいの高さがある玄関框に腰掛けて靴を磨いていた。僕は中学生の頃から同学年の可愛い女子に接すると耳と頬が真っ赤になってしまうのだが、高校の時は男子校だったので気にしていなかったことが大学で発症したので女子学生とおしゃべりすることもできずに、雀荘とパチンコ屋に入り浸っていた。その娘は「比嘉美恵子です。」と挨拶をしたが、僕は一瞥してすぐに靴磨きに戻った。チラッと見た黒目がちのつぶらな瞳が印象的だった。伯母と座敷に上がった彼女は挨拶を終えるとすぐに戻ってきて、玄関框から自分のスニーカーに向かってポンと飛び降りた。スヌーピーのイラストが目立つTシャツを着ていたこともあってか何か子供っぽい娘だなと思った。振り向いた彼女が「お兄ちゃん、よろしく。」と言った。沖縄の人らしく大きな眼と端正な顔つきをしていた。
前年の暮れに父が亡くなったことから新宿の家の住まいの部分を改築して麻雀屋にするために、僕は伯母の家に何ヶ月か居候することになっていた。埼玉のA市に家を建てているのだが、出来上がるまでの間の二、三ヶ月足らずの期間である。
5月から僕の居候が始まった。ニ階の四畳半に彼女がいた。玄関で彼女と鉢合わせをしたときに、彼女から、また「お兄ちゃんよろしくね。」と言ってくれた。僕が薮田の家に来ることは、伯母から彼女に伝わっていたみたいだ。彼女は衝動的に上京したようで、学校も就職も決まっていなかった。僕も学生で暇だったので、昼間の時間帯は彼女と2人だけということも多かった。彼女が僕を「お兄ちゃん」と呼んでくれたせいか、お気に入りの綺麗な娘であったが顔が赤くなったりすることも無く大きな瞳を見て話すことができるようになっていた。僕は思い切って彼女の部屋を訪ねた。彼女は音楽が好きで、今はサンタナと言うバンドに夢中していると言っていた。ベンチャーズの硬いエレキの音と違い渋い柔らかな音でイイなと思った。僕は高校の時のハンク・ウィリアムス以後はPPMなどフォークソング系だったので全然聞いたことのないバンド名だった。彼女は部屋の中でお香のようなものを焚いていた。僕は鼻中隔湾曲症で鼻の手術をしたので嗅覚が鈍かったため、どんな匂いかよくわからなかったが、銀杏のようなお香の種から煙が上がっているのはわかった。僕が日本刀が好きだと言うと、彼女の父親も日本刀が好きで刀剣の会の沖縄支部長で家に沢山有ると言った。僕の持っている刀剣関係の本に彼女の父親の名前が住所と一緒に載っていた。彼女に確かめたら「そうです。」と言った。僕は余計彼女を近く感じて彼女に「今度上野の博物館に刀を見に行こう」と誘った。彼女は「行きますよ。」と答えた。僕は初めて女の子とデートができるチャンスが出来てルンルンになった。
僕が刀を好きになったのは、支那事変で伯父の戦友だった方が毎年仏壇にお線香を上げにいらしていて、その方が日本刀に趣味があり、お子さんが娘さんだけだったもので男である僕に日本刀の趣味を伝えたくて仕方がなかったらしい。僕は中学生から鷺宮のその方のお宅に泊まりがけで行っては何振りも見せていただき、[刀は時代によって姿が違う。戦国時代以前の刀は太刀と言って刃を下にして反りの深い物を腰に吊るしており馬上で使い易くなっていた。戦国時代以降から刃を上に帯に差す江戸時代から一般的になった形態のものが出てくる。刀鍛冶は概ね差表に銘を切るので、銘を見せるため太刀と刀は博物館の展示の仕方に相違がある。元寇の襲来があった南北朝時代の刀は時代を反映して長大になる。太刀は鍔元に近いところに反りの中心が有る腰反りが多く、戦国時代からの刀は真ん中よりも切先に近めに中心がある先反りになる。いずれも使い勝手の都合である。江戸時代に入ると剣術の影響もあって虎徹のように反りが浅くなる。江戸時代以前は物流が盛んでなかったことにより各地方で刀の作り方も伝統を墨守する必要性があり、使う鉄に合った鍛錬の仕方や刃取りの方法に大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相模(神奈川)、美濃(岐阜)の五箇伝と呼ばれる基本的な特徴を覚えて刀の鑑定に生かす。etc.]刀の見所を教えてもらった。マニアックな面白さからすぐ日本刀にハマっていってニ十歳前に参宮橋にあった日本美術刀剣保存協会の会員になっていた。
僕は彼女を日本刀の有る保守的な家庭で育ったのならば、テレビで観る宮本武蔵に出てくる「お通」さんや姿三四郎の「早乙美(乙美)」さんなどのヒロインのように美しくてお淑やかで恋に一途な現実には見たことの無い僕の理想とする"大和撫子"というものに違いないと思い込んだ。
デートに際して僕は本当はコンチネンタルでエレガントなジュン・エ・ロペを着たかったのだがゴツゴツした体型には似合わなかったので、お決まりのボタンダウンのクリーム色のシャツにレジメンタルのタイ、2センチダブル裾のスラックス、三ボタンでナチュラルショルダーのマドラスチェックのジャケット、焦茶のコインローファーとVANのアイビースタイルで決め込んで、ピンクの細いストライプが入った白いブラウスに濃紺のスカートでキャメル色のタッセルローファーを履いたいつもより大人っぽい彼女を連れて6月のフワッとした日差しの中を新大久保駅から山手線に乗って上野に向かった。
上野駅から博物館に行く途中に西洋美術館があるので、二人で入館した。綺麗な美恵子ちゃんを連れて美術館を歩いていると空間を二人で占有しているような贅沢な気分になっていた。彼女はモディリアニとキリコの絵を気に入ったのか時間をかけて観ていた。僕は絵の前の彼女をただ観ていた。博物館での彼女は仏像にも日本刀にも興味が無さそうで展示物を見つめることなく歩いていた。僕は声も掛けずにただ彼女の姿を見て幸せな気分でいた。動物園では来たばかりのパンダで盛り上がっている時に彼女からしたら面白くなかったことは想像に固くない。
帰りに池袋に寄っていつも食べている学生対象の安くてボリュームのある店でワンプレートのランチを食べた。食事の後、文学部が使っている蔦の絡んだ校舎に二人で入った。僕の通っている経済学部は道を挟んだ所に何の特徴も無い校舎がある。
洒落た煉瓦造りの校舎に入って僕らは空き教室に忍び込んだ。第二外国語で選んだフランス語の追試のため、四年になって文学部の教室を利用していたので校舎内の様子は分かっていた。窓際に立って前庭を見ている彼女は差し込んで来る柔らかな光も相まって一枚のリトグラフのようだった。大学を出て、大手の洋酒酒造メーカーがやっているコンパという名称で当時流行っていたリーズナブルなカウンターバーに行った。彼女は未成年者だが僕も18歳から飲酒していたので抵抗は無かった。僕はロックでウイスキーを飲み、彼女にはマンハッタンと細雪というカクテルを選んであげた。僕はウイスキーを一本空けても顔にも出ない方だが彼女も全く変化が無かった。このデート後には家までの帰り道で「お兄ちゃん。一緒に帰ろう!」と彼女が後ろから僕の腕に腕を絡めてくることも何度かあった。僕は可愛くて仕方ない気持ちと同時にすっかり有頂天になってしまっていた。
8月の初めにA市の家に引っ越しすることが決まった。彼女も近く僕が側からいなくなることを知っていたため、僕は家の中に二人きりの時は彼女の部屋に頻繁に行くようになった。あと引っ越しまで一週間を切った頃、離れる前にキスをしようと思って待っていた彼女と二人きりのチャンスがついに来た。僕は彼女が読んでいる女性週刊誌に興味があるフリをして彼女の隣りにピッタリ寄って左手を彼女の肩に回した。彼女は雑誌の紙面に目を落としたままだったが緊張で身体が硬くなったのが手を通じて伝わった。僕は彼女の正面に廻って俯いたままの彼女の額にキスをした。キスの経験は無かったが思いきって唇を重ねた。すぐに舌を絡めるディープキスになった。彼女のTシャツをたくし上げて白いブラジャーを外すと良い形の乳房が現れた。僕はピンクの乳頭を吸った。彼女のジーパンを膝まで下ろした。白いパンティーが見えた。彼女の脚からジーパンを剥ぎ取って股を広げて鼻先をパンティーに埋めた。匂いに鈍感な鼻に甘酸っぱい香りを感じた。「お兄ちゃん!お願い…」彼女の声に顔を上げると彼女の潤んだ目が下目使いで僕を見ていた。瞬間に僕は我に返って怖くなっていた。
結婚前に肉体関係を持つことは良くないことなのではないのか?また妹のように接していなければ「お兄ちゃん」と呼んでくれている彼女を裏切ることになるのではないか?と理由を考え、自分の中で何とか折り合いをつけて心を鎮めた。現代においてはネットでいくらでも性行為の情報を見ることができるが、当時はまだ「はしたない行為」という認識が強くてなかなか情報が得られなかったため、大事な彼女を傷つけたり妊娠させたら一大事と思ったのである。僕は黙って脱がしたジーパンを彼女の脚に嵌め戻してチャックを上げた。彼女は何も言わず上半身を起こしてブラジャーとTシャツを身に着けた。僕は上目遣いに口角を下げて泣きそうな彼女を引き寄せオデコにキスをした後、無言で彼女の部屋から出て階段を降りた。
その後彼女と顔を合わせることも無く僕はA市に引っ越して祖母と二人暮らしになった。新宿は母と弟の二人で暮らしている。引っ越しをして三週間程経った頃、弟が美恵子ちゃんを連れてやって来た。僕は久しぶりに彼女に会った。現代のように携帯電話が無く、僕からの通信方法が家電話のみだったため二回ほどしか彼女と話してなかった。自分のお気に入りの主人公がヒロインに積極的にベタベタとしたアタックをしないことに憧れていたのだろうと思う。弟が気を利かせて彼女を連れて来てくれたおかげで、彼女が新宿駅ビルにある本屋でアルバイトをしていることを知った。僕は彼女の勤め先を知ってから会いに行く日をいつにするか迷った。あまりにすぐに会いに行ってはカッコ悪いと考え、二週間後に日程を決めた。
新宿の本屋は駅ビルの四階にあった。エスカレーターで上がった正面に店が見えて、中に入ると左側のレジに接客中の彼女を確認した。僕は右手の書棚に行き、読む気は無いが書名で選んだ文庫本を一冊引き抜きレジに向かった。
先客が退いた時、彼女と目が合った。僕はニコリとしながら文庫本と五百円札を差し出した。
「有難うございました。」伏目がちなまま彼女は本を店の名前の入った袋に入れ、釣り銭と一緒に差し出した。僕は彼女を見ることが出来た満足感を持って家に帰った。
その夜、彼女から初めてA市の家に電話があった。
「もしもし。岩神さんですか?」
「はい。」
「お兄ちゃん。比嘉です。」
「ああ美恵子ちゃん。なんだい?」
「勤め先になんて来ないでください。周りの人も女の仕事場に来るのは最低だと言ってます。あの人、よく男として恥ずかしくないわね…と言われました。」
「そうか。分かった。君の元気な顔を見たくてね。もう二度と行かないようにするよ。」
「じゃあね。お兄ちゃんごめんね…」彼女の声がいつもと違い沈んで聞こえた。
僕は悔恨の念で凄く落ち込んでしまった。確かにヒーロー達はいくら会いたくてもヒロインの仕事場に顔を出さないだろう。カッコ悪い行動をして彼女にまで恥をかかせてしまった。
その後二週間ほど経ってから薮田の家に電話をして彼女を大久保駅前の二人でよく行った喫茶店に誘ったが2時間待っても彼女は来なかった。体調が悪くなって来られなくなったのか心配になった僕がその夜彼女に電話をすると、彼女は喫茶店に行って待っていたが僕の方が来なかったと言い張って、一方的に電話を切られた。大久保駅には通りの向こうに並んで二軒、こちら側にも一軒あるので彼女が勘違いしたのだろうと思って改めての検証はしなかった。
次の日、わざわざ母が僕に美恵子ちゃんを諦めるように言いに来た。喫茶店で会うために薮田の家に頻繁に電話をしたので僕が彼女を気に入ってるのが分かったのかと思ったら、もっと以前から僕が彼女に熱を上げていることを知っていた。伯母からの情報で彼女の部屋に男友達を泊めたりしているそうだからお嫁さんにしても苦労するよとの趣旨だった。僕は彼女がそのようになってしまったのは僕が彼女とのセックスをできなかったせいだと反論したかったが、婚前交渉などはもっての外の社会風潮なので何も言わずに黙っているしかなかった。
その晩にバス停の側にある万屋(コンビニのような店)で買ったウィスキーを一本空けたが最愛のヒロインを護る事ができなかった悔しさと情け無さで寝付くことができなかった。
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いつのまにか秋風が立つ頃になっていた。喫茶店でコーヒーに砂糖を入れる時に手が震えて上手くスプーンを使えなくなったので病院に行ったところ、甲状腺機能亢進症いわゆるバセドー病と診断された。基礎代謝が高くいつもマラソンをしている状態で脈拍も120と多い。医師からいくら食べてもどんどん痩せていくと言われた。気づかなかったが確かに68キロあった体重が56キロに落ちていた。母や祖母は異変に気づいていたが、美恵子ちゃんとの恋窶れだと思っていたらしい。手術はせずにメルカゾールという特効薬で様子を見ることになった。
僕は商社マンになろうと思っていたので、入学後すぐに大学の貿易研究会に入った。商業英語でも習おうと思っていたが学生運動の名残か暗い色のヘルメットが並ぶ部室でレーニンの「帝国主義論」を渡された。亡くなった父親が警察官だったこともあり、ノンポリの僕は一年経たずに此処にいても無駄だと思って退部した。父親が亡くなったため、母親と祖母から海外などとんでもないことで、家族の近くにいるように言われて商社マンを断念した。
父に死なれ、住居が新宿から埼玉に変わったことで僕は母、祖母両方から転勤の無い市役所に就職して欲しいと言われた。文化財として刀や槍を扱って暮らすのも悪くないと思った。近隣の市では高校で通学したZ市には大きな禅寺があり文化財の仕事もあるのではないかと思いZ市を就職先に選んだ。父の葬儀に始まり居住場所の変更、運転免許の取得、思わぬ病気、就職試験と次々と物事を処理する中で、美恵子ちゃんを僕のせいで深く傷つけたために失ったという空虚感と彼女を取り戻す勇気の無い情け無さは僕の気持ちを落ち込ませ続けた。
翌、昭和49年4月に僕はZ市の教育委員会に無事奉職した。文化財ではなく移動図書館というバスで市内を巡って本を貸し出す仕事だった。絵本目当てにお母さんと子供が沢山借りに来るし、まだ図書館が無いため話題の作品はリクエスト待ちというようにやり甲斐のある仕事だったが、夏を迎える頃に持病が悪化して家に帰ると寝込むようになってしまったので持病となった甲状腺の手術をした。何かあって死んでもよいと思っていた手術後の病院のベッドで麻酔から醒めた。喉を切って仰向けに寝ていたが同じ姿勢で動けないでいると枕が鉄のように固く感じているが頸部に力が入らずピクとも動けない情け無い痛みに耐えながら、父親のように子供が一人前になる前に死ぬようなことがないように身体を大事にしようと思った。
市役所の女性とはフロアの近い人と付き合ってみたが、どうしても美恵子ちゃんのイメージと比較することが多くて恋愛にならなかった。
弟が早々に結婚したので、僕へのお見合い攻勢が始まった。三十歳が近くなって何回目かのお見合いで祖父の隣町である祖母の実家の親戚筋から話が来た時に、祖母が僕に手を合わせて拝みながら「お願いします」と言った。
「僕を何だと思っているんだ。」僕は初めて祖母を怒鳴った。戦死した伯父が入っているお墓を守る跡取りが欲しい祖母の気持ちも分かっていたのだが、当たりどころの無いイライラを爆発させた。翌日にスッキリした気分で見合い相手に会って大きな眼を見た時に、やって行けそうな気がして結婚を決めた。
教育委員会から税金関係の所属課に異動となってカブで市内を回る仕事となった。バイクが面白くなってもっとパワーのあるのに乗りたいと思いバイクの中型免許を取って長野など遠くの未舗装林道まで行くようになった。
結婚して二人の娘がいる身となり、生活も落ち着いたころ税金から教育委員会の公民館に戻った。都合の良いことに刀剣研究では有名な大御所をニ名も輩出した大学の出身で刀剣研究などの東洋美術だけでなく西洋美術にも詳しくアメリカの美術館で東洋室長をされている方とコネクションがあるスタッフがいたため、思いがけず簡単に刀剣鑑定講座を開催できることとなった。同僚スタッフの中には昔なら赤面してしまいそうな綺麗な眼の人もいたが、そのような状態は影を潜め平気で話せるようになっていた。
市役所に入った目的である刀剣関係の講座を開催できたことで転職も考えたが、少なくとも父の年齢を超えるまでは生きていたいと思っていたので、通勤が自家用車で定時に帰れる現在の状況が最適だと考えた。平成4年に高校、大学の先輩が市長になり、なるべく楽に仕事をしていたいと思っていたが、立場上身体のことを気にせず働かなければならないと思っていた。ところが管理職試験制度が導入されて、今までは市長が選任していた課長職を選任の前提として試験を受けることになった。僕は試験を受けてまで課長になりたいとアピールする人達に管理職を任せて、精神的にも身体的にもストレスを抱えることを避けて、岩神家の柱として長生きすることを選び、これ幸いに父が亡くなった年齢を超えるまで試験をスルーした。
平成9年に僕は課長補佐の役職で市庁舎内の課に戻った。文化財を担当する課であったが刀剣はお呼びでなく、成人式や市民文化祭が主な仕事だった。
歓送迎会の会場へ向かっている時、「補佐!こちらです。」という声掛けとともに後ろから僕の右手に腕を絡めて来た女子職員がいた。「大谷珠美」であった。驚きと同時に振り返ると上目遣いの綺麗な瞳と眼が合った。僕の中で薮田の家への帰り道での美恵子ちゃんがフラッシュバックした。
宴席でも主賓の僕の席に大谷さんは笑顔でお酌に来た。
「君は何年生まれだい?」と訊くと「48年です。オイルショックがあった年です。」と返事が返ってきた。
「ええ…?オイルショックはもっと前だったんじゃないかな。」
「小学校でそのように教わりましたので間違いないです。」彼女は笑いながら言った。
「このおじさんは経験しているんだけどね。まぁいいか。」
ニ、三日後に調べてみるとオイルショックは昭和48年だった。すぐにピンとは来なかったがあの精神的に楽しさ、嬉しさの後に悲しさ、悔しさを大きな振れで体験したエピック年であった。オイルショックなどの記憶は飛んでしまいテレビの「太陽にほえろ!」でマカロニ刑事役のショーケンが殉職したシーンは覚えているが、あとは美恵子ちゃんしかなかった。僕は当時の感覚がまとわりついてくるのを感じた。
後日、大谷さんに会った時に「ごめん。オイルショックって48年だね。」と言いながら、美恵子ちゃんと結婚できれば、もしかしたらこれくらいの年齢の娘がいたのかもしれないと彼女を眺めていた。
「間違いないですよぉ。」彼女は笑いながら言った。
「今度の日曜日に上野の西洋美術館と国立博物館に一緒に行ってみない?」衝動的に誘ってしまった。
「ええ、行きますよ。」教育委員会の仕事柄から興味があるのか彼女は即座に答えてくれた。
その晩に僕は悩んだ。彼女を誘った理由は何なのか?美恵子ちゃんのイメージを珠美ちゃんに変えたいのか?珠美ちゃんに変えても相手は自分の子供でもおかしくないほど年齢差があるのだ。美恵子ちゃんがダメになってすぐの時期にこのような機会があったならともかく出会いが遅すぎてとても恋愛関係にはなれないし、もう美恵子ちゃんは僕の中ですっかりアイドル化しているので、またウィスキーを一本空けても酔えないほどの後悔が蘇るのがオチだ。
次の日の朝、僕は大谷さんにそっと「上野行きの話はせっかくオッケーしてもらったのに悪いけど無かったことにしてください。」と言った。
「そうですか。楽しみにしていたのに…。もう誘ったりしないでください!」彼女は僕を睨んで不機嫌に答えた。
その後、彼女は仕事以外に僕と言葉を交わすことは無くなった。
また腕を組んでくれた女性に嫌われてしまった僕は、後ろに無防備なことがマズいと考えた。確か新撰組が京都市中見廻りの際には前ニ割、後ハ割の意識を持って歩くと司馬遼太郎の小説で読んだ覚えがあったので、公民館を道場にして、不意に何処から攻撃されても対処できることを稽古している居合のグループを知っていたこともあり、モヤモヤとした気分から逃れるため早速入会した。僕を指導してくださった先生は面白い方で、居合の本部が高知にあり龍馬に心酔していたためか指導の時や酒席で高知弁らしき言葉を使っていた。僕は高知には何の感情も無かった。幕末に東北地方の奥羽列藩同盟の藩は土佐藩に酷い目に合わされていると思っていたが、青森の父の実家では同じ青森の津軽と野辺地というところで戦ったことで津軽を非常に嫌っていたが、薩長土への恨み言は聞いたことがない。父が亡くなった後、伯父から大小揃いであった脇差を頂いた。
居合をするに当たり、僕は鑑賞用の刀は持っていたが、刀は長さ、重さ、反り具合、樋の有無など一振りごとに使い勝手が違う。したがって居合や抜刀に使う実用の刀がいつのまにか増えてしまい、女房に終活の目の敵にされている。
簡単だと思った居合だったが、バイクで転けて左踝を骨折したことがあったため正座が出来ず、浴槽の中で浮力を利用した正座練習をして徐々に慣らしていくために時間がかかってしまった。後ろの気配に気を配ることは大分出来てきたが、市役所の若い女子職員が居合に入会したりZ市内の駅ビルに発足させた刀剣鑑定会を手伝ってくれたりしていても後ろから腕を絡めてくるような女性は現れることは無かった。
結婚を機に美恵子ちゃんのスナップ写真は頂き物のクッキーの四角い缶の空き箱に入れて勤務先のデスクに入れておいた。勤務先が変わるたびにその缶も持って回った。勤務先での歓送迎会や福利厚生の旅行などの写真が多くなってA4サイズの箱になっていた。退職前年に東日本大震災が発生し、平成七年の阪神淡路の時よりも大きな影響を受け、東北地方の市町村に若手の職員が派遣された。釣り仲間が派遣されたので陣中見舞いに行って地震の惨状を観たが波打つ舗装道路、湾曲して途切れた線路、陸側からはしっかりとしている家が海側から見ると骨組だけだったりと自然災害の凄まじさを目の当たりにした。いろいろとあった市役所を退職後に写真の入った箱を見てみると、美恵子ちゃんの白黒写真がカラー写真の中で場違いに目立っている。
僕が死んだ時の遺品整理でこの白黒写真は誰だろうということになるのは分かっていても、ずっと彼女の気持ちを傷つけていたという悔恨と一緒に捨てられずに半世紀以上も経ってしまった。年齢を重ねて性欲減退の著しいこの頃は、彼女の気持ちを傷つけたこと、プライドを捨てて思い切って彼女を追いかける勇気が無かったことなど悔恨の情が大きくなってはいるが、正直なところ、またと無いチャンスを逃した心残りが彼女を忘れられない大きな理由だったとは思う。僕は写真を彼女に返すことで、永く重荷になっている悔恨を整理して彼女を忘れることにしようと沖縄行きを決心した。もし彼女が亡くなっていて実家で写真を受け取ってもらえない時は、乙女チックで環境に悪いが沖縄の海に流してこようと思った。




