ムーンウェルの日暮れ
「こんな街、絶対に出てってやる――。」
そう心に誓ってから、早10年。
特に変わったことはなく、何も変わらない日常が繰り返されるばかり。
昼は薬局で店番、そして夜は地下への扉を開けて合言葉の確認。
もう酔っ払いの相手も慣れたものだ。
そう、ここは合衆国東海岸屈指の商業都市グレイヘイヴンだ。
もっとも、【東海岸屈指の商業都市】というのはこの街の数少ない綺麗な部分だけを取り出して不純物を一つ残らず排除して何が何でも世間に顔向けできる二つ名が欲しいという、歪んだ信念のもと作られた作り物の美談だが。
しかし、私がいる【第七地区】はまだマシな方だ。銃声なんて月に一度くらいしか聞かないし、弾痕のある壁はたまに見るが体のあちこちに銃創のある死体は16年生きて来て未だ見たことが無い。
自分はきっと恵まれた方だ。そう思いながら一人薬局のカウンターにもたれ、古びた木製の棚を見る。
ふと、外で教会の鐘が鳴った。
日が沈む。
私は【薬局の店番】から――――【スピークイージーの看板娘】になる。
禁酒法が制定されてからこの街には違法酒場、所謂スピークイージーが爆発的に増えた。ここ、【ムーンウェル薬局】は昼間は薬局として佇んでいるが夜になると酒場として営業するよくある違法酒場だ。
今日も私は扉の役割をするよう改造された古びた木製の棚をずらし、地下への階段をのぞき込んだ。
窓越しに店の外を見る。続々と常連たちが列を作っていく様子は少し面白かった。
「アンタ達、今日も来てるんだ。飽きないねぇ」
ドアを開けながら、誰にも聞こえないように小声でそう言った。
こいつらは、いつ摘発されてもおかしくない所に何年も通い続けている。そんな常連たちを見ていると、少し居た堪れなくなってしまった。
「合言葉は?」
何年も言って来た、正直意味が有るのかは怪しい台詞を今日も常連たちに向けて言った。
「……月は見てねぇよ」
列の先頭に居たぶっきらぼうな工場労働者、ハロルドが最初にそう言った。彼の身体からいつもと同じ、取れない機械のオイルの匂いが漂っていた。
「……入りな」
私が地下への階段を指差すと、ハロルドは一瞬の迷いも無く地下へ降りて行った。
続いては、年中黒いコートを着ている謎めいた男だ。
「月は見ていない」
淡々とした、味気の無い声。男は私の許可も得ずに階段を下りて行った。
「やぁ。今夜も月は見ていないようだね、お嬢さん」
階段の方を見ていると、不意に芝居がかった声が飛んできた。
「……ルクスか。いい加減にしろ」
この頭のおかしい男はルクスだ。自称詐欺師の訳わかんない奴。変装して酒場に入ろうとするような行為をここ数日ずっと繰り返していたが、昨日まで何度も注意して来たのが実を結んだのか今日は変装していない。
「今日もその毒舌は健在だねお嬢さん。それじゃ」
私に向けてウインクをして階段を下りて行った。最初から最後まで、よくわからない男だ。
次の客は、久しく会っていない奴だった。
新聞配達の少年、テオだ。本来なら酒場としてのムーンウェルで働いていたが数週間前から休暇を取っていた。
「薬は足りてるか?」
これは、従業員専用の合言葉だ。
シンジゲートの最下層構成員により一時流行った手柄欲しさによる警察への密告。それを防ぐために急遽決められたのだ。
正直この店はシンジゲートの保護下にあるので純血の奴らに対する威嚇行為にしかならないのだが。
「はい!薬なら地下にあるっス!」
久しぶりなのか元気いっぱいで答えるテオ。しかし、見つかるリスクなどを考えてみるとこの大声はとてつもなく迷惑だった。
「……元気いっぱいだな、入れ」
テオは、駆け足で階段を下りて行った。
続いては白髪の老人、グランパだ。
「……月は見ていない、今日も宜しくな」
細い目を更に細めて、まるで孫に接するおじいさんのような顔で私に笑いかけた後、階段を下りて行った。
これでもう最後か、と思い自分も地下に行こうとした時、階段の上から艶やかな女性の声が響いた。
「ごめんねエリス。ちょっと遅れちゃった」
女性の一つに括られた長い金髪が夜に染まる窓の外との差で輝いて見える。
「ミラさん、今日もよろしく」
軽く挨拶を返す。この女性はミラ。この酒場で客との接待を担当している。迷惑な客からの誘いをのらりくらりと回避し続ける才能は正直どうやって居るのか分からないが、彼女曰く『持ち前の頭脳』が大切らしい。
「薬は足りてるか?」
お馴染みの合言葉をミラにかける。
「地下にあるわ、今日も」
やけに色っぽい声でそう答えた後、ミラさんは地下へ降りて行った。
私も、辺りに人がいないのを確認して階段を下りる。
夜はまだ、明けないようだ。
扉の向こうには酒と煙草の匂い、それから止む事の無いジャズが漂っていた。




