第9話 師ロイの最期
朝、講義の前に塔の受付で名前を呼ばれた。
受け取り窓口の小さな台に、布で包まれた包みがひとつ置かれている。差し出した手の中で、金属の重みが指の骨にまっすぐ落ちた。送り主の欄に、短く、ロイとあった。胸の奥で何かが鳴る。悪い音ではない。けれど、良い音でもなかった。
包みを解く。古い工具が一式。小さなラチェットと、片口のスパナ、角が丸くなったヤスリ。油の匂いは薄いのに、手に移る感触ははっきりしている。その下から、薄い綴じ本が出てきた。布の背。表紙に黒い細字で書かれている——観察から始める修理。
手紙は綴じ本の最終ページに挟まっていた。薄い紙に、少ない字。
止まる前に渡す。
たったそれだけだった。
その二行を見ていると、塔の廊下の音がいっせいに遠くなった。講義の教室へ向かう列、掲示板の前の話し声、演算体の羽音。全部が薄くほどけて、目の前の紙だけが濃くなった。
ポケットに綴じ本を入れ、工具を包み直す。講義の教室には行かなかった。出欠の札だけ箱に入れ、塔の階段を駆け降りる。広場の端で護送隊の馬車に声をかけ、空きの荷台に乗せてもらう。
街を出る道は、思ったよりも乾いていた。去年の雨の傷はまだ地面に残っているのに、草は新しい緑でその隙間を埋めようとしていた。揺れる荷台の中で、包みの角がコツコツと膝に当たる。その小さな衝突ごとに、胸の奥の音もひとつ鳴った。
村に入る。泥の匂いは薄れ、川沿いの土手に背の低い花が咲いていた。工房は、屋根の一部が新しい板に変わっていて、雨どいの角にぼくが印した赤い目印がまだ残っていた。扉は閉まっている。叩く。木が軋む。
もう一度、叩く。
内側から返事の気配はない。けれど、金属の微かな摩擦音がした。
扉を開けると、工房の空気は薄い油と古い木の匂いで満たされていた。日差しは斜めに入り、床の傷を一本ずつ照らしている。
椅子に座っていた。ロイが。
胸殻が少し開いて、そこから白い息のようなものが漏れている。焦げ跡は以前より広く、光点は、ゆっくり、弱く、点っては消えた。
「来たか」
いつもの平らな声。けれど、端が少し揺れている。
「手紙、届いた」
「うむ」
ロイは頷いた。頷き方も、少し遅い。
ぼくは工具の包みをほどき、机の上に広げる。冷却系の迂回路を頭の中で描いた。簡易の配管、仮の放熱板、胸殻の内側の安全な取り付け点。
「延命は意味がない」
ロイは首を横に振った。
「渡すことが優先だ」
そう言って、ロイは机の引き出しから、壊れた玩具をひとつ出した。羽の付け根が欠けた小さな鳥。ぼくが子どものころ、何十回も直した形。
「最後の授業だ。手順、覚えているか」
「……観察」
「そうだ。まず、見る」
ぼくは鳥を手に取り、縁の亀裂の向き、塗装の剥がれ方、バネの緩み、羽の重さの偏り、指に伝わる冷たさを確かめた。
「仮説」
「羽の根元の受けに微細な欠け。ここに力が集まって折れた。受けの材質が乾燥で脆くなってる」
「分解」
ロイの声はゆっくり。ぼくはねじを外し、羽を持ち上げ、受けの部分を露わにする。
「洗浄」
ブラシで粉を払い、溝を薄い布で拭く。細い綿棒で亀裂の中の灰色を拭い取る。
「再組立」
欠けた部分に薄い補修材を差し込む。紙一枚の厚みを重ねる。バネの位置を半歯ぶん戻す。
「調整」
羽の重さを左右で揃える。塗装の縁を撫でて段差を消す。
「テスト」
鳥を机の上に置き、ゼンマイをひと巻きだけ回す。小さな鳴き声。羽が一度、二度、動く。最後に、静かに止まった。
手順のあいだに、部屋の古い時計が薄く鳴る。ロイはその音に一度だけ目を細めた。
「よい」
短く、それだけ言った。
次にロイは、古いポンプの部品を持ってきた。バルブの座面に段差。
「観察」
「座りに段差。パッキンが痩せて、押さえの力が点で当たってる」
「仮説」
「水漏れの原因はここ。座面の極小の歪みもある」
「分解」
「……」
言葉の途切れ目に、胸殻の中の光が揺れる。ぼくは代わりに手を動かす。分解、洗浄、再組立、調整、テスト。
同じ手順を、違う物で、何度も。
錆びた軸、小さなオルゴール、古い針金、歯の欠けたギヤ。
手が勝手に動く。ロイの声がそのたびに薄く重なる。
観察、仮説、分解、洗浄、再組立、調整、テスト。
七つの手順が、工房の空気の中で規則を持ち、前に進み、また戻り、また進む。
合間に、一度だけロイが別の話をした。
「書類を見た。学都への提出文。よかった」
「誤字、多かった気がする」
「誤字は問題ではない。人の環境を良くする設計になっていた。現場の妥協を、約束として記す、という言い回し。柔らかいが、骨がある」
ぼくは指先に残った油を布で拭った。
「あなたが教えたから、書けた」
「学んだのはお前だ」
穏やかに笑った。胸殻の中の光が、その笑いに合わせて少しだけ強くなった。
夕方、工房の前に影が伸びて、道の向こうで足音が増えた。
村人たちが来た。ロイに世話になった人間たち。
古い時計を抱えた老人、片手に包帯を巻いた父親、背の低い女の子、膝に補助の器具をはめた少年、集会所の世話役、井戸の修理で一緒に汗をかいた男。
ひとりずつ前に出て、短い言葉を置いていく。
「時計、まだ動いてます」
「孫が自分で靴を履けるようになった」
「雨の日、棚が濡れなくなった」
「この前の風で、屋根が飛ばなかった」
「井戸の手順、忘れてない」
言葉は短い。でも、長い冬を一つずつ越えてきた人の声だった。
ロイは椅子の背にもたれ、光点を細めてうなずくたびに、工房の中の音がひとつ小さくなったように感じた。
日が傾き、窓の向こうの空が淡く変わる。
ロイがぼくの手を取った。金属の指。冷たさはもうほとんどない。
「学ぶとは、壊すことだ」
ゆっくり言う。間に、機械の呼吸が入る。
「直すことは、学びの先だ。壊すことを恐れるな。だが、壊しっぱなしを許すな」
ぼくは頷く。喉が乾いて、返事が短くしか出ない。
「止まることを前提に、より遠くへ届く設計をする。忘れるな」
「忘れない」
ロイは目の光をゆるめた。
胸殻の奥で、音がひとつ、減った。
次に、もうひとつ。
やがて、光点が、静かに、消えた。
時間が止まったわけではない。工房の外で誰かが咳払いし、梯子が壁に当たって軽い音がした。窓の外で鳥が短く鳴く。
ぼくは立ち上がり、掃除を始めた。
床を掃く。端から端まで。木屑を拾い、油のしみを布で押さえる。
机の上の工具を形ごとに並べ直し、錆を薄く落として軽く油を引く。
ロイの胸殻を布で磨く。焦げた縁の黒が布に移る。力をかけすぎない。素材に合わせる。
胸殻を丁寧に閉じる。留め具を確かめる。布をかける。
擦れる音。布が金属に触れる、柔らかい音。
村の丘へ運ぶ準備をする。箱を用意し、布を折り、角を内側へ。
リーネの箱のそばに、石を積む場所を決める。石をひとつずつ持ち上げ、置く。
置く音が、土の中で低く響く。
夜になりきる前に、丘で小さな式をした。
言葉は多くない。
村人が輪になり、一度だけ、名を呼ぶ。
鈴が一回鳴った。
ぼくは箱の蓋を撫で、石の上に小さな印を刻んだ。工具の先で、薄く、短く。
泣きはしなかった。泣く代わりに手を動かした。
拾って、洗って、収めて、運んで、覆って、印を置いた。
工房に戻り、最後にもう一度、室内を見渡す。
壁の傷の一本一本、ランプの煤の跡、椅子の足の削れ方、道具の影の長さ。
扉を閉めた。木の手触りが、指にざらざらと残る。
外に出ると、風が冷たかった。
学都へ戻る道を歩きはじめる。足元の土が夜の湿りを含んでいる。遠くで川が音を立てる。
ポケットから綴じ本を出す。
観察から始める修理。
ページをめくる。見覚えのある言葉が並ぶ。余白に、ロイの小さな字がいくつも刺繍みたいに残っている。
最終ページを開く。そこに、空白があった。線も、文字もない、まっさらな白。
ペンを取り、手を置く。
呼吸を一度深くして、ゆっくり線を引く。
恐怖を設計に組み込む。
字が少し震える。けれど、線は真っ直ぐだった。
村の外れで空を見上げる。星は薄い。塔のあるほうから、遅い脈の光がうっすらと空を汚す。
ぼくは歩く。靴の裏が乾いた土の上で音を立てる。
背中の工具の包みが、いつもより少し重かった。けれど、肩がそれを受け止める。
遠くに街の灯りが見える。塔の縁に沿って、光のラインが脈打っているはずだ。
そこで、また学ぶ。
壊し、直し、止め、動かす。
今日の七つの手順を、明日の別の形で繰り返す。
ロイの声は、もう聞こえない。
それでも、手の中に残ったものがある。
観察、仮説、分解、洗浄、再組立、調整、テスト。
それと、止まる前に渡す。
渡されたものを、渡す側に回る決意。
それを胸の真ん中に置いて、ぼくは歩調を少しだけ早めた。
街へ入る手前で、短い休憩を取った。腰を下ろし、綴じ本の表紙を指で撫でる。布の背が、少し温まっている。
塔に戻ったら、寮の机にこの本を置く場所を作る。机の右側、手に取りやすく、汚れにくい位置。
教室では、優しさの言い換えを、まだ探し続ける。
委員会には、現場から戻る妥協を、もっと読みやすい言葉で書く。
演習室では、切る点と結ぶ点を、先に置く。
何より、誰かの手に、手順を渡す。
渡す前に、まず手を見せる。
手が迷ったら、恐怖に名前をつける。
名前がつけば、触れる場所が決まる。
触れる場所が決まれば、止める点が置ける。
止める点が置けたら、また動かす。
その繰り返しを、ぼくの仕事にする。
立ち上がると、風が額の汗をさらっていった。
塔の鐘が遠くで鳴る。ゆっくり、二度。
歩き出す。
背中の包みと、ポケットの本と、胸の中の新しい一行を連れて。
重心が、少し下がった気がした。
それは、沈んだのではない。
地面に近づいたぶん、前へ進む力が増えた。
ぼくは、足の運びを確かめるみたいに、道の小さな凹凸を踏みしめていった。
遠鳴りする演算体の羽音が、夜の空気をやわらかく震わせる。
行こう。
止まるまで、渡し続けるために。
そして、止まった先にも残るものを、ここから作るために。




