第8話 光の指先、影の設計
市場通りは、香辛料の匂いでむせ返っていた。
赤、黄、黒。布袋が口を開け、湿った空気に色粉がにじむ。昨夜のスコールで、連結用の環がずれていた。屋根の連なる樋の継ぎ目から滝みたいに水が落ち、露店の棚を直撃した跡があちこちに残っている。木の台は反り、ひびが水を吸って暗く染み、瓶に貼った紙のラベルは半分はがれて指に張りついた。
「塔からの学生さんらしいな。頼む、今日はもう降らないって予報でも、これじゃ怖くて並べられん」
店主が肩を怒らせながらも、ぼくらの腕章を見て深く頭を下げた。声は荒いが、熱が本物だ。失うものの匂いは、香辛料より強い。
「まず角から見る」
ぼくは屋根の縁に目を走らせた。連結環は二連続でずれている。環の噛み合い角度が雨の荷重で戻り、樋の曲率に対して捻じれが残った。
「芯材を差し替える。角度を一度だけ変える。全体をいじらない」
「時間は?」
「二〇分で暫定、四〇分で持たせる」
ルナはうなずき、すでに光糸の蝶を飛ばしていた。
細い糸を二筋、落水線の手前に渡し、水滴の肩にそっと触れる。触れるだけで、落ちる先が変わる。露店の瓶には落ちず、空いた路面へ逃げる。
店主が息を吐いた。
「おい、粉、粉をしまえ。先に乾かすやつだけ出せ」
声が飛び、子どもが布袋を抱えて走った。
ぼくは脚立に乗り、連結環を一度外した。
銅の環の内側に薄く白い粉。電蝕の兆候。ここで削らない。削れば今日の雨でまた広がる。
代わりに芯材を細く切り、差し替えで角度を変える。押し込みすぎない。噛ませるだけ。
「角度、あと半度」
下のルナが目を細める。糸の震えで水の癖が見えるらしい。
「半度」
ぼくは指先で押し、環の噛み合いをわずかにずらす。
樋の線が素直になり、水が継ぎ目の肩を越えなくなる。
別の箇所に移動。同じ手順を繰り返す。
芯材の端を指で撫でると、金属の湿りが指に移った。湿りの重さが、屋根の上から市場の底まで通っている感じがする。
ルナは糸で露店の棚の角を守り続けた。
蝶がひとつ、ひさしの裏に止まり、翅の間から薄い光を落とす。
「目印。そこは角度が戻りやすい」
「わかった」
ぼくはそこに仮留めの抑えを置いた。仮の部品だから、外すためのタブを必ずつける。緊急で切れるものは、最初から切り口を想像しておく。
最後の一本を差し替えると、落水は線から面になり、面から静かな流れに変わった。露店の布の上を滑って、路地へ抜けていく。
店主が腕を組んで、肩の力を抜いた。
「助かった。香りが死ぬところだった」
「まだ雨が一度来たら、ここが戻る」
ぼくは蝶の目印を指で叩いた。
「持たせるための角度を、明日、塔の大工が本施工でやり直す。それまでに出す品を選んでおいてください。水を吸う前に逃がせるものだけ」
「選ぶ、ね。ああ、選ぶのは商売の仕事か」
店主は笑って、粉で白くなった手で頭を掻いた。
ルナは水の糸をほどき、蝶を胸元に戻した。
「匂いが攻撃的。大好き」
「ぼくはちょっと負けそう」
「じゃあ、帰りは甘いパンで中和する」
軽口を交わしながら、ぼくらは片づけを終えた。
塔へ戻ると、廊下が少し騒がしかった。
安全委員会の掲示が出ている。
〈連結環の規格を見直す。市場通りでの事例を基に、屋根勾配別の推奨角度と電蝕防止材の標準を追加〉
講師の「規格は現場の妥協」という言葉が頭をよぎる。
妥協は負けじゃない。守るための折り方。ならば折り方は、現場から戻すべきだ。
ぼくは提出資料のフォーマットを呼び出し、「現場からのフィードバック・ループ」を一項目として明文化して追記した。
文は硬くなりがちだ。ぼくの癖。
横からルナが覗き込んで笑う。
「言い方を優しく」
「どこを」
「“指導”はやめて“提案”に、“改善”は“持たせる工夫”に。“遵守”は“みんなで守る約束”に」
「やわらかすぎない?」
「市場の人はこっちのほうが読んでくれる。匂いの強い場所は、言葉に砂糖がいる」
試しに差し替えると、文章の角が少し丸くなった。
紙の上の角が丸いと、読む人の肩も少し落ちる。
ぼくは保存ボタンを押し、送信先に委員会と市場の同盟会を加えた。
翌日の午前、演習室でトラブルが起きた。
新入生の一人が光コードの基礎演算を試していて、演算体が暴走したらしい。
天井を這う薄い光の虫が、一斉に壁へ吸い込まれていく。
壁の向こうは設備配線だ。塔の心臓の管。
演算体はそこで詰まると、局所的に熱を持つ。最悪、火花。
教室の空気が乾いて、誰かが息を呑む音がした。
「ルナ、糸で押さえられる?」
「手繰り寄せられる。三十秒」
ぼくは壁際に走り、設備の機械図を頭の中に広げた。
配線の束の背骨。分配盤。安全の切り離し点。
緊急停止点を挿入する“影の経路”を即席で作る。
表の細工はルナ、裏の逃がしはぼく。
指先でコードの線を結び、壁の縁から半歩入ったところに仮のバッファを置く。
演算体がそこに集まり、絡まり、速度が落ちる。
ルナの糸がそこへ伸びた。糸は光を撫でる。撫で方はやさしいが、掴む手つきは迷いがない。
「戻って。ここじゃない」
人に話しかけるみたいに彼女が言う。
バッファで解けた演算体が、糸のほうへと戻ってくる。
壁面の光が薄くなり、代わりにルナの掌の中が明るくなる。
新入生が泣きながら頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「次は、切る点を先に決めてから遊ぶ」
ぼくは短く言い、仮のバッファを解体した。
“影”は痕跡を残さない。残せば次の暴走が迷い込む。
ルナは解け残りの糸を指で巻き取り、蝶に戻して胸元に収めた。
「怖かった」
「怖かったけど、間に合った」
「間に合わせたのは、あなたの“先の怖さ”」
彼女の視線に、ぼくは視線を落とした。
答えたくない記憶が喉にひっかかる。
工房で拾った部品の冷たさ。箱の角。
「怖さは、知れば少し小さくなる」
ぼくはそれだけ言った。
「なら、わたしは“今の眩しさ”を渡す」
ルナはふっと笑い、細い光糸を一本、ぼくの指先に軽く絡めた。
熱が指に灯る。鼓動と同じ拍で、熱が微かに波打つ。
怖さと眩しさが、同じ手の中で並ぶ。
握り方を間違えなければ、二つは喧嘩をしない。
午後は委員会の臨時会議だった。
市場通りの件で、各班の報告が出る。
樋の角度、連結環の材質、各屋根の勾配の実測。
安全委員が頷き、規格の草案に赤線を引く。
「現場からのフィードバック・ループ」
ぼくの書いた見出しを読み上げる声があった。
「妥協を、現場の側から提案し直す項。柔らかい言い方だが、内容は固い。よく書けている」
横の席でルナが肘でぼくの腕をつついた。
「砂糖、効いたね」
「効いてる」
紙の角が丸いと、会議の声もすこし丸くなる。
塔の蛍光灯は冷たい光だが、それでも、紙の上でやわらかい言葉が生き延びる。
会議を終えると、温室の本補修に呼ばれた。
先週ぼくらが仮修繕した継ぎ目に、塔の専門班が入る。
角度を二度追い込む。糸を三筋。仮封止。
ぼくとルナは補助に回りながら、自分たちの仮手順が正しく本施工へ引き継がれるのを確かめた。
苗の葉に落ちる水は、もう苗を傷つけない。
ガラスの肌が光を返す。光の上を蝶が滑る。
「持たせる、って言い方、いいよね」
ルナが指先で葉を避ける。
「完璧じゃないものを、壊さず長く使う。手の仕事」
「うん。ぼくは、それが一番好きかもしれない」
いつか大きなものを直すときにも、今日の角度と糸を思い出したい。
完璧に直さない勇気。持たせる賢さ。
それを規格に載せるのは難しい。だから、書いて残す。
夜、塔のバルコニー。
街の灯りは遠くで粒になって、静かに脈を打つ。
塔の外壁を走るラインが、風に合わせてほんの少しだけ明滅を変える。
ルナが手すりに腰をかけ、足をぶら下げた。
「あなた、どうしてそんなに“先の怖さ”がわかるの?」
真正面から来た。
胸の奥に、箱の蓋の感触が蘇る。
開ければ戻れない。だから、ぼくは言い方を選ぶ。
「怖さは、知れば少し小さくなる。名前がつけば、触れる場所が決まる。触れる場所が決まれば、止める点が置ける」
「名前」
ルナは目を細め、空へ蝶を一匹放った。
「わたしは、忘れ物の名前を探してるの。自分の中の、欠けてる感じの名前」
蝶は塔の影に紛れ、見えなくなった。
しばらく風の音だけが続く。
ルナはふいに笑い、ぼくの指に糸を絡めた。
「じゃあ、わたしは“今の眩しさ”を渡す。怖さを縮めるのがあなたなら、眩しさを広げるのがわたし」
絡んだ糸は熱く、脈と同期していた。
光が一拍ごとにゆるむ。影が一拍ごとに締まる。
並べてみれば、対立じゃなくて合奏だ。
寮の机に戻り、ぼくはノートを開いた。
見出しを書いた。
“光×影の協奏”
自分でも笑ってしまう。似合わない言葉。
でも、今日の一連の動きには、これしかない。
生活のスケールと、塔のスケール。市場の樋と、委員会の規格。演習室の事故と、温室の本補修。
どれも、光の指先と影の設計が重なったとき、いちばん静かに止まった。
静かに止まる、がいい。派手に止めるのは、きっと長続きしない。
ぼくは箇条書きをはじめた。
一、直さずに済む部分を先に探す。
二、直すなら、“切る点”と“結ぶ点”を必ず対で置く。
三、怖さに名前をつける。名札は停止点。
四、規格は現場の妥協。妥協には優しさの言い換えを添える。
五、眩しさを借りる。借りたら返す。返す手段は、書くことと、残すこと。
ペン先が余白の角で止まったとき、部屋の外で足音がした。
ルナだ。扉の窓越しに、蝶が一匹、ぴたりと止まる。
ぼくは扉をほんの少しだけ開けた。
「甘いパン、まだ効いてる?」
「やっと中和した」
「よかった。明日、また市場。連結環の本施工の立会い」
「行く」
「あと」
ルナは少し言いにくそうに首をすくめた。
「新入生の子、今日のこと、謝りに来たいって。怖くて逃げてたけど、今は来れるって」
「いいよ。謝ったら、次の遊び方を教える。切る点を先に置く遊び方」
「うん」
蝶がひとつほどけて、廊下の灯りに紛れた。
ベッドに横になる前に、ぼくは箱の角に触れた。
布越しの角。
ここにあるべきものの重み。
名前をまだ呼ばない。
でも、箱の位置は毎日確かめる。
箱の位置を忘れないことが、いまのぼくの“結ぶ点”だ。
眠り際、指先にまだ熱が残っている。
光の糸の熱。
その熱が、怖さの輪郭を少しずつ丸くしていく。
丸くなったところから、人は触れる。
触れて、止める。
止められたら、また動かす。
その往復を、協奏という。
翌朝。
市場は昨日より色が戻っていた。
香辛料の山は乾き、布袋の口はきちんと結ばれ、瓶は新しいラベルをもらって並んでいる。
塔の大工と委員会が来て、本施工が始まった。
角度を二度。糸を三筋。仮封止。
店主がぼくらに小さな袋を差し出した。
「これは甘い。塩気はあとでついてくるやつだ。辛い日は、順番が大事だ」
ルナが目を細めて笑い、ぼくも笑った。
順番は、どこでもだいじ。
直さずに済むか。
切るか。
結ぶか。
持たせるか。
眩しさを借りるか。
怖さに名前をつけるか。
ぼくらは交互に袋を受け取り、角度の確認に戻った。
午後、塔の掲示板に新しい紙が増えた。
〈安全規格更新案・意見募集〉
見出しの下に、小さい文字で、ぼくの書いた文があった。
“現場から戻る妥協を、約束として記す。約束は、誰かを守るための折り方”
硬い言葉の中に、砂糖をひと粒。
十年後、この紙を読む若い誰かが、今日の香辛料の匂いを知らなくてもいい。
でも、持たせるための角度のことは覚えていてほしい。
光の指先で守った棚の端、影の設計で用意した切り口。
その両方を、いつか誰かがさらに遠くへ持っていく。
ぼくらはそのために、今日の線を丁寧に引く。
夕暮れ、塔の脈動が少し強くなった。
ルナと並んで歩く廊下は白く、床に落ちる四角の光がゆっくり伸びる。
「ねえ、灯真」
「なに」
「“光×影の協奏”、見出し、似合ってるよ」
「からかったでしょ」
「半分はね。半分は、本当に似合ってると思ったから」
ぼくはうなずき、壁の手すりに手を置いた。
今日は手すりが冷たくない。
指先の熱が残っているからかもしれない。
その熱で、ぼくはもう一度だけ心に刻んだ。
互いの強みを、少しずつ借りる。
借りたら返す。
返すために、設計する。
設計したら、渡す。
渡したら、残す。
その循環がうまく回れば、どんな“暴走”も、止められる気がした。
ぼくは、そう信じている。




