第7話 初めての勝負、初めての敗北
導入課程が終わるやいなや、塔の掲示板に新しい紙が貼られた。
二人一組の試験。課題名は〈沈む街の模型〉。
小さな水路と建物のミニチュアが並ぶ、手のひらより大きい街。上流のタンクから時間差で水が流れ込み、地下には“バグ”が仕込まれている。一定条件で暴発し、模型を崩す。制限時間は一刻。評価は「被害最小化」「復旧時間」「総消費リソース」の三本柱。
紙の前に人だかりができる。
ざわめき。笑い声。緊張の乾いた匂い。
ルナがぼくの横に立ち、紙の角を指で押さえた。
「組む?」
「組む」
迷いはなかった。温室の実習で掴んだ“角度と糸”の重なり方は、試験でもきっと効く。
当日。塔の三層、実験ホール。
一台ずつ模型が並び、天井からは透明な配管が降りている。床は薄い水の筋で光り、演算体の羽音が天井の梁から絶えず聞こえた。
審査官が淡々と条件を読み上げる。
「外装の大改造は禁止。追加できるのは臨時の堤と簡易のバイパス、水位センサーの閾値変更。光の糸による局所操作は許可。消費した材料は点数化する。開始」
砂時計が返され、音が消える。
ぼくはまず観察に入った。
上流タンクの吐水量。水路の幅。分岐角度。排水口の口径。建物の材質。
周流と渦。壁際の浮き。
模型の北側は住居区で、道が細く、排水が弱い。南側は工場区で、敷地が広いが、地下に大きな空洞がありそうだ。
ルナはもう水面に糸を垂らし、指先で撫でていた。表面張力を少しだけ変えて、水の縁を“躱す”。蝶のような演算体を三匹、水路に放つ。糸が呼吸するたび、泡の並びがわずかにほぐれた。
「上流の駆動、五分刻みで強弱がある」
ぼくはメモを渡す。
「南の曲がり角、渦が育つ。小堤を二カ所。北は排水に迂回路。緊急停止点を三段階で噛ませる」
「やって」
ルナは短い返事のまま、糸の角度を調整し続ける。
ぼくは設計に入った。
余剰経路を用意する。
第一段の停止は、上流の吐水が規定値を越えたら即時に北の二筋を閉じる“切断”。
第二段は、中央の広場を通る水を工場区へ逃がす“集中”。
第三段は最悪時の“犠牲の優先順位”。人口密度の低い工場区を沈める代わりに、北の住居区を守る配列。
数字は妥協のためにある。優先順位の並べ替えは、紙の上で先に済ませる。
ぼくは紙に印をつけ、配管の継手へ小さなバルブを挿入し、光の糸で“切る点”の目印を作った。
時間の砂が思ったより早く落ちる。
手の奥、肩に張りが出る。ルナの呼吸は一定、糸の束は増えたり減ったり、蝶は状況を映す鏡みたいに反応を返す。
中盤、塔の仕掛けが発動した。
地下の“バグ”が泡立ち、模型の北側がゆっくり沈み始める。
壁の裏で何かが崩れる音。水の色がわずかに濁る。
「来た」
ぼくは第一段を発動し、北の二筋を閉じる。水位は一瞬落ち着いた。
だが、上流の吐水が次の強に切り替わり、中央の広場の縁がにじむ。
「第二段、行く」
切り替えに手を伸ばした瞬間、視界の隅でタイマーが赤く点滅した。
第三段の回路がまだ未実装。
紙の上では完成している。現場の手が追いついていない。
ぼくの指が一瞬止まる。
その間に、北の住居の端が崩れ、屋根の一枚が沈んだ。小さな窓に水がかかる。
ルナは躊躇なく光糸を束ね、北側の住居の屋根の“雨よけ”を再設定した。
糸が屋根に沿う。落ちた水が南へ誘導される。
広場は助かった。けれど、南の工場区に水が回る。
工場の床に仕込んだ空洞が最初に受け皿になり、次の拍で一気に沈む。
「評価に響く」
ぼくの喉が乾く。
「仕方ない。今は人のほう」
ルナの声ははっきりしている。蝶の一匹が糸を咥え、水を一筋持ち上げるみたいに方向を変えた。
ぼくは第三段を切り離した。もう間に合わない。
未実装を抱えて進むより、できている方法で“被害の集中”を選ぶほうが、まだマシだ。
シンプルな迂回路を一本足し、余計な枝を切る。
切る。
切った場所に赤い印。
止めるための切断は、壊すための切断と違う。
頭ではわかるけれど、手の中がざわつく。
隣の組は判断が速かった。
図は粗い。余裕もない。
でも、迷わず一本を切って一本を通す。その繰り返しで水を短い道に集め、復旧を先に完了させた。
審査官がそちらに歩いていく。復旧時間のボードに緑の印が増える。
ぼくらの模型では、北は守れたが、南の工場が沈んだままだ。
ルナは最後まで糸で流れをいなし、ぼくは余剰のバルブを閉じ、残りの水を抜いた。
砂時計が落ちきる。鐘。
終わり。
結果、ぼくらは上位には入ったが、首位を逃した。
審査官は短く講評を置いた。
「優先順位の設計は良い。観察の密度も。だが、時間配分。未実装を抱えるな。最後の判断に遅れが出た」
数字よりも、その声の温度が重かった。
ルナがぼくの肩を軽く叩く。
「わたしたち、負けたね」
彼女は手のひらを上に向けた。
ぼくはその手を見て、息を吸った。
「俺が遅かった。守ろうとして、全部を遅くした」
正直に言うと、胸の奥の石が少しだけ軽くなった。
ルナは首を横に振る。
「あなたの設計は優しい。それを捨てたら、あなたじゃない。要所で“切る勇気”を持てば最強」
その“勇気”が怖いことを、彼女は知っている口ぶりだった。
片づけ。模型の水を抜き、道具を拭く。
審査が終わったホールは、さっきまでの緊張が嘘みたいに静かだ。
隣の組の二人が、笑いながら肩を組んで写真を撮っている。粗い設計で勝った二人。
ぼくは彼らを羨ましいと思った。
同時に、あの手つきに、いつか追いつきたいと思った。
何かを切る手つき。ためらわない手の角度。
夕方、塔の外壁の光がやや強く脈を打つ。
寮の屋上は風が冷たい。街の脈動音が低く続いている。
ぼくはノートを開いた。
見出しの下に、今日の言葉を足す。
“優しさのための最小破壊=切断の指針”
書いて、手が止まる。
優しさは、何かを守るための線引きだ。
線を引くには、誰かの上を通らなければならない場面がある。
それを考えると、胸が締めつけられる。
けれど、恐怖を設計に組み込むのが、ぼくのやり方だ。
恐怖は無視するものじゃない。停止点に結びつける印だ。
印を先に決めておけば、迷いは短くできる。
短くできた迷いは、だれかを救う時間になる。
寮の非常灯が点く。屋上の縁が薄く光る。
ルナが小さく手を振って上がってきた。
「風、強いよ」
「うん」
彼女はぼくの隣に座り、工具箱のふたに蝶を一匹止まらせた。
翅が光をほどいて、指の節に触れる。
「次は勝とう」
「勝ち方、少しわかった」
「どうするの?」
「質問の順番を変える。“どこまで直さずに済むか”のあとに、“どこで切れば、一番やさしくなるか”」
「それなら、わたしは“切ったあと、どうやって結ぶか”を考える。糸の仕事」
ぼくらは同じ方向を見た。
塔の向こうで、街の灯りが細かく瞬いた。
負けた夜は静かだ。くやしさはあるのに、不思議と呼吸は乱れない。
手順を並べ直せば、次に使える。負けも、それで部品になる。
ルナの蝶が、ぼくの指に移った。
翅が震える。
光がはじけて、痛くはなかった。
その瞬間だけ、模型の水音と審査官の声が、遠い別の街の出来事みたいに薄くなった。
ノートの端に小さく足した。
“切る勇気=恐怖の可視化+停止点の先置き”
線で囲む。
屋上の風は冷たい。けれど、背中の中ほどにだけ、火のような温度があった。
翌朝、ホールに掲示された成績表の前で、ぼくらは立ち止まった。
ぼくらの組は二位。隣の組が一位。
悔しさが喉の奥で小さく丸まる。
ルナがパンと手を打った。
「朝ごはん、行こ」
「うん」
掲示板から目を離すと、視界に空の四角が戻ってきた。
階段を降りながら、ぼくは昨夜書いた見出しを心の中でなぞる。
“優しさのための最小破壊”
重い言葉だ。
軽くするつもりはない。
軽くしないまま持てるように、手の筋を増やす。
それがここでの訓練だと思った。
食堂の窓際、朝の光がテーブルを滑る。
ルナはスープにパンをひたし、ぼくは工具箱を椅子の脚に引っかける。
「ねえ、灯真」
「なに」
「昨日の“切る”の顔、よかったよ」
「ひどい顔だったと思う」
「うん。ひどかった。でも、必要な顔」
ぼくは笑って、スープを飲んだ。温かさが喉を通り、胸の石が少しだけ溶けた。
午後、掲示板の下で、隣の組の二人が話しかけてきた。
「お前ら、あの北の守り、どうやってた?」
ぼくは紙を出し、ざっくり説明した。
「切る場所、先に決めてたんだ」
「それ、いいな。俺たちはその場で手探りだった」
「でも、お前らの“迷わなさ”が勝ちだったよ」
言いながら、あの一瞬の赤い点滅が、また胸に刺さる。
未実装のまま抱えた第三段。
ぼくは自分に向けて短く頷いた。
次は、抱えない。
“切る勇気”を、先に準備する。
夜、寮の机に座り、ノートのページを一枚増やした。
タイトルは“切断の指針(暫定)”。
一、切る理由を事前に三つ用意する。
二、切った先の受け皿を必ず作る。
三、切るか迷ったら、迷う時間の上限を決める。
四、切ったあと、結ぶ人の名前を書いておく。
名前を書きながら、ルナの横顔と、遠い工房の扉の感触が重なった。
書き終えて、深く息を吐く。
窓の外、演算体の羽音が細く通り過ぎる。
負けた日の夜は、頭がよく動く。
その動きを、次の朝まで残す。
ページを閉じ、工具箱に手をかけた。
金属の冷たさが、昨日よりもまっすぐだった。




