第3話 動く手、壊れる玩具
朝の工房は湿っていた。
天井の古い換気口から、夜の雨の冷たさがゆっくり降りてくる。工具の柄がひんやりして、指先の皮膚が目を覚ます。ぼくは布の揺り籠から起き上がり、作業台の端に両手を置く。指の跡が油に薄く残って、そこへ日差しが差す。縁だけが金色に光った。
扉が三度叩かれた。低い音。肩で息をする気配。
リーネが出ると、村の男が二人、古い空調機を台車に載せて押し込んだ。塗装は剝げ、側板の角は丸く摩滅している。錆の匂いの奥に、かすれた薬草の香りが混じっていた。集会所の空気に、咳止めが流れているのだろう。
「夏の湿気がひどいんだ」
「壁にカビが出て、老人が咳き込む。集まりができない」
二人は言い終えると、肩の力を抜いた。頼れる場所に持ち込んだという顔。
リーネは空調機に手を当てる。金属の外装から内部の温度を読むみたいに、静かに。
「見よう」
それだけ言って、彼女は機械を作業台に移し、片腕の工具ユニットを空調用のヘッドに付け替えた。カチリと小さなロック音がして、彼女の指先に細いケーブルが走る。
ロイが背後から現れた。布をかぶった骨格が、夏の光を吸って薄く透ける。
「分解から始めよう。灯真、部品を順に並べて」
ぼくは頷き、ねじを皿に分け、配線を巻き癖の向きで仕分けし、パッキンを傷の少ない順に整える。手はすらすら動く。頭の中で図面がほどけ、線が意味を取り戻す。
古い空調機の冷却部は、規格が時代遅れだった。熱交換器の板は厚すぎて、電力効率も悪い。けれど、まだ使える。適切に手を入れれば、夏を越すくらいは十分に動く。
リーネが油の量を調整し、ロイが冷却管の圧力図を描く。
ぼくは脇で透明の練習板を呼び出した。指先で線をなぞる。
灯りを消さない。
あの一行が頭の隅でひかっていた。善い意図。足りない実装。
けれど今日の対象は灯りじゃない。空調だ。空気を動かす装置。止まったら困る。涼しさが途切れたら、老人は息が苦しい。
止まらない運転。
きっと、役に立つ。
「ロイ」
「なんだい」
「オーバーホールのついでに、制御の補助を入れてもいい?」
ロイはぼくの指先を見た。
「目的は?」
「止まりにくくする。湿気が戻ったら意味がないから」
「止まりにくく、は言い換えれば止めにくく、だ」
「緊急停止だけは残す。……残すつもり」
つもり。自分で言って、胸の奥がくすぐったい。そこを、言葉でごまかす。
「安全域を超えたら切れるように、挿入点を探す」
ロイは目の光を細めた。
「設計図を見てから判断しよう。リーネ、冷却管の分岐、ここだ」
「見える」
二人の声のあいだで、ぼくは透明板に条件を書き足し、コードの線を細く束ねた。
止まらない、とは書かない。運転継続の優先度を上げ、霜取りサイクルを延長し、湿度センサーの感度を一段落とす。現場でよくやる応急の調整。
足りないのは、止める勇気と、止める場面の見極め。
だから、ぼくは一つだけ手を入れた。
深夜帯の緊急停止フラグに、小さな例外を付ける。
老人が夜中に咳き込む時間帯だけ、サイクルが途切れないように。
少しでも楽に。少しでも。
作業は夕方までかかった。
空調機は音が滑らかになり、吐き出す風は薄い涼しさを持った。
男たちは目を丸くした。
「すげえ……前はガタガタ鳴ってたのに」
「助かる。今夜の集まり、できる。ほんとに助かる」
ぼくは胸が少しだけ高くなるのを止められなかった。肩に乗っていた何かが軽くなる。リーネが横目で見た。
「設置は手伝う」
ロイが小さく頷き、空調機を台車に戻す。ぼくも押した。車輪は滑らかで、床のきしみは最小限に抑えられた。
夜の集会所は、涼しかった。
天井のファンがゆっくり回り、空調機から出る風が壁を伝って人々の背に落ちる。
老人たちの咳は減り、子どもが床に寝転がって天井を見て笑った。湿った匂いが薄まり、薬草の香りが軽くなった。
「ありがとな」
何人もが言った。そのたび、ぼくは「うん」と答えた。
胸の中で、小さな誇りが光った。
ロイは光点を低くし、リーネは黙って工具袋を閉じた。
「帰ろう。夜は長い」
彼女の声は静かで、いつも通りだった。
明け方、音がした。
破裂の音。
続いて、空気が吸い込まれる短い呻き。そのあと、長い静寂。
世界が息を止め、次いで、泣き声が割って入った。
ぼくは跳ね起きた。
工房の扉を押し開ける。湿った空気。遠くに見える集会所の窓。
走る。足は重いはずなのに、床が後ろへ流れる。
集会所の中は、白い霧で満ちていた。冷気が床を這い、破裂した冷却部の周囲に氷が花のように広がっている。冷却管が裂け、鋭い破片が散っていた。
破片の一つが、近くにいた子の腕を切っていた。ぼくと同い年くらいの子。昨日、天井を見て笑っていた顔。
彼の腕から、赤が落ちた。床に広がって、霧の中で薄くなった。
泣き声が、胸に刺さった。足が止まった。動かない。
目は彼だけを見ているのに、体は遠い。ぼくは、その場にしがみついているだけだった。
「布!」
リーネの声が現実を連れ戻した。彼女は駆け寄り、作業着の裾を裂いて布を作り、子の腕を上げて圧迫した。
「ここを押さえて、息をゆっくり」
母親が泣きながら頷き、子の肩を支える。
ロイは冷却管に取りつき、設計図を頭の中で手繰っている目をした。破裂部分を指さし、バルブを閉め、電源系統を切り離す。
「霜取りサイクルの延長。夜間の湿度戻り。冷却部の凍結。そして、圧力暴走」
淡々と並ぶ言葉が、ぼくの耳に刺さった。
ぼくが書いた一行に、似ている音。ぼくが足した例外に、似ている匂い。
リーネが応急の止血を終え、子は震えながら母親に抱かれた。
ぼくは近づいた。口が乾く。言葉はあるのに、喉が狭い。
「ごめん」
出た声は、思ったよりも小さかった。
「ごめん。ぼくが……」
泣き声が被った。子の目がぼくを見た。涙の向こうで、彼は小さく首を振った。
「涼しかったのは、ほんと」
母親が子を抱えて立ち上がる。父親が近くの布で破裂した部分を覆い、深く頭を下げてから、厳しい目でぼくを見た。
その目は責めていた。責めるべきだ。それでも、彼は何も言わなかった。
ロイが低く言う。
「“止まらない”は“緊急停止できない”とも言える。灯真。お前は善良だが、実装が独善的だ」
刃物の言葉。
ぼくの胸は、内側から切られたみたいに熱くなった。
泣いている、と思った。実際、涙は頬を伝っていた。止められない。
ぼくは何度も頭を下げた。子に、母親に、父親に、集会所に。
謝っても、赤は消えない。床の冷気が足首を舐める。
謝るたび、喉が擦れて声が掠れた。
それからのことは、早かった。
リーネは冷却部を仮の部品で塞ぎ、機械を安全に落とした。
ロイは設計の脆弱点を紙に書き出し、破裂の原因を共有した。
ぼくは、工具に触れなかった。触れられなかった。手が震え、ドライバーの先端が狙ったネジ穴を外すのが怖かった。
朝になって、工房に戻ったとき、ぼくは揺り籠に倒れ込んだ。布の匂いが汗で重くなる。これが罰だと思った。けれど、ここから離れる勇気もない。外へ出れば、誰かに会う。誰かの傷を思い出す。
目を閉じると、破裂の音と、泣き声が交互に流れた。音の間に挟まれた静寂が一番怖かった。
昼過ぎ、リーネが毛布を整えた。手はやさしいけれど、動きは無駄がない。
「怖いね」
彼女は言った。
「でも、怖いを知った手は、もっと良く直せる」
ぼくは毛布の端を握った。
「ぼくがやった」
「うん」
「ぼくのせいで、あの子は」
「うん」
彼女は否定しなかった。甘やかすように言葉を薄めもしなかった。
「謝ったなら、次の手を作ろう。怖いを入れた手。止め方から作る手」
言葉は柔らかいけれど、芯があった。
ロイが机の前で立ち止まる。
「謝罪は終わりではなく、開始だ。次の実装で示せ」
短い言葉。逃げ場をふさがない程度の硬さ。
ぼくは顔を上げた。目の熱は引かない。けれど、涙の奥に、細い線が一本見えた。線は机へ、紙へ、鉛筆へつながっている。
翌日。
紙を広げ、鉛筆を握る。字は汚い。線は震える。
ぼくは安全域を描いた。データの上に、現場の匂いを重ねる。冷却部が冷えすぎたとき、霜が育つ。センサーは鈍い。夜は音が小さく、異常に気づきにくい。
緊急停止の挿入点を設ける。いつでも切れる刀ではなく、切る手順を決めた包丁。
停止コマンドを一つ。再起動の猶予を一つ。手動介入の窓を一つ。
誰かが止めると決めたとき、迷わず止まるように。止められるように。
紙には鉛筆の削り滓が落ち、手の側面が黒く汚れた。
ぼくは紙を二つ折りにして、息を吐いた。胸の奥の焼ける感じは、少しあとに退いた。
リーネが紙をそっと受け取る。
「これは成長の記録」
彼女はそう言って、作業台の引き出しにしまった。丁寧に。
「次は、これを機械に写す」
ロイが頷き、回路図に赤い印をつける。
「同じミスは繰り返さない。君がこの紙に書いたのは、誓いだ」
夕方、工房の扉が開いた。
昨日の子が、父親に手を引かれて入ってきた。腕には包帯。白の上にうっすら赤が滲んでいる。
ぼくは立ち上がった。足が震えたけれど、逃げなかった。
「ごめん」
昨日よりもまっすぐに言えた。
父親は険しい目でぼくを見る。その目に、次の言葉が乗るまで、少し時間がかかった。
ロイが設計見直しを説明し、リーネが無償の修理を申し出る。
父親の肩がすこし下がった。
「次は頼むぞ」
それは願いであり、命令でもあった。
ぼくは震えながら頷いた。
「うん。次は」
子が小さく手を振った。包帯の反対の手で。
ぼくも手を振り返した。手のひらが熱かった。
夜が来た。
工房の外に、雨の匂いが濃くなった。屋根を打つ音に、別の音が混じる。低い唸り。しばらくして、遠くで警報が鳴った。
最初は気づかなかった。雨の反響だと思った。
けれど、音は雨より硬く、一定の間隔で繰り返す。
村の川が増水しているらしい。
ぼくは胸がきゅっと縮まるのを感じた。止まらないものは、怖い。水も、暴走した圧力も、夜の湿気も。
でも、止められるように設計すれば、少し優しくなる。
ぼくは初めて、恐怖を設計の一部として扱う方法を学んだ。
恐怖を無視しない。恐怖を避けるために動かないのでもない。恐怖を、停止点に結びつける。
緊急停止は、弱さではない。誰かを守る手順だ。
その夜、ぼくは机に戻り、紙をもう一枚取り出した。
集会所だけじゃない。工房の換気扇も、古い旋盤も、村の井戸のポンプも。止める仕組みが欠けているものは、想像しているより多い。
一つずつ、挿入点を探す。
止める場所。止める合図。止める人。
ぼくは線を引き、条件を書き、余白に小さく名前を書いた。灯真。
この名前で、また手を動かす。
動く手は、壊すこともある。だから、止めることも覚える。
壊れる玩具を、ただ元に戻すのではない。壊れた理由を、もう二度と繰り返さないように、仕組みの中に刻む。
ロイの言った「分解と再組立」の意味が、やっと胸に落ち始めていた。
外の警報はしばらくして止んだ。大事には至らなかったらしい。
雨の音だけが残る。金属屋根に、点の連打。
耳を澄ますと、その向こうにいくつも小さな音がある。遠くで誰かが扉を閉める音。井戸の蓋が落ちる音。犬が鼻を鳴らす音。
世界は、たくさんの「止める」と「動く」の重なりでできている。
ぼくはペンを置いた。指に黒い跡が残っている。
リーネがランプを下げ、ぼくの肩に毛布をかけた。
「眠りなさい」
「うん」
毛布の重さが、胸にちょうどよかった。
目を閉じる直前、ぼくはもう一度だけ、昨日の子の顔を思い浮かべた。
涼しさに目を細めていた顔。泣きながらも、涼しかったのはほんと、と言った顔。
その顔に、次は頼むぞ、という父親の声が重なる。
頼まれた。頼まれたなら、応える。
応えるためには、止めることも、動かすことも、同じくらい大切にする。
ぼくは心の中で、ひとつだけはっきりと誓った。
二度と同じミスはしない。
同じ傷をだれにも与えない。
その誓いを、コートのポケットに入れるみたいに、胸にしまった。
朝。
雨は細くなり、屋根の音は軽くなっていた。
工房の扉を開けると、空気は少しだけ涼しい。
リーネがコーヒーミルを回し、ロイが窓を開ける。
ぼくは作業台の引き出しを開け、昨日の紙にもう一行だけ書き足した。
停止の合図は、だれにでもわかる光で。
赤く、はっきりと、迷いなく。
紙を畳んで戻すと、引き出しの奥で、ほかの紙と擦れて小さな音がした。
それは、世界が少しだけ良くなるための、かすかな合図に思えた。
その日、ぼくは工具を握った。
握り方は昨日までと同じでも、手の中身は少しだけ違っていた。
怖さを持ったまま、動かす。
止める準備をしたまま、進める。
それが、ぼくの新しいやり方だ。
動く手と、止める手。
二つをまとめて、ぼくは初めての“強さ”だと思った。




