第26話 再起動の日
朝の空は、白金からゆっくりと薄青にほどけていった。
東の地平で、風が砂を巻き上げながら、光の粒を運ぶ。名ノードのランプが一つ、また一つと灯る。まるで世界が深呼吸を再開したように、校庭の隅々で、かすかな“起動音”が重なっていった。
今日が“再起動の日”だ。
もう誰も、派手な光輪や空を裂く演算の音を求めない。再起動とは、暮らしの速度をそっと整える儀式。生きるテンポを合わせ、風を揃え、息を合わせる日になった。
俺は、校舎の屋上から村を見下ろしていた。
かつて砂に埋もれていたこの地も、今では緑が増えた。遠くの小川には小さな橋。市場では朝からパンを焼く匂い。塔の頂上に、新しい通信灯が点いている。
人は思ったより早く、壊れた世界を“暮らせる世界”に戻す。修理とは、奇跡ではなく、習慣の一部なのだと、この十年で覚えた。
広場では、子どもたちが紙飛行機を手に、輪になって待っていた。
それぞれの翼に、自分の名と、友達の名が書かれている。小さな手が落ち着かず、ひらひらと風を試すように揺れる。
俺は地面に降りていき、膝を折って子どもたちと目を合わせた。
「今日の風は、悪くないな」
子どもたちがうなずく。
空は高く、風は少し冷たい。名前を飛ばすには、たぶんちょうどいい日だ。
「みんな、聞いてくれ」
俺はゆっくりと話した。「名は点だ。点と点がつながって線になり、線が集まって面になる。面ができれば、風を受け止められる。今日、みんなが飛ばすのは、その“面”の風だ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。理屈は難しい。でも、子どもたちは真剣に頷いてくれた。
分からなくても、風は吹く。風が吹けば、紙は飛ぶ。それでいい。
校舎の窓から、ルナが顔を出している。まだ療養中の身だ。白い衣を羽織り、淡く光を映した髪が朝日に透けて見える。俺と視線が合うと、少しだけ微笑んだ。
十年前の砂漠で、同じような朝を見た気がする。世界がいったん止まり、また回り始めた朝。あのときの彼女は、命を削って世界をつなぎ止めた。今の彼女は、眠るように微笑んで、それでも息をしている。
「合図を」
塔の上から通信員の声が響く。
都市と村を結ぶネットワークの切り替えまで、あとわずか。名ノード同士が呼吸を合わせ、街の時計がゆっくり揃っていく。
俺は子どもたちを見渡し、深く息を吸った。
「――飛ばせ」
いっせいに風が舞い上がる。
無数の紙飛行機が、朝の空へと放たれた。
白、青、茶、色とりどりの紙が光を弾き、くるくると回りながら上昇していく。翼に書かれた名が陽光を透かしてきらめく。
子どもたちの笑い声が混じり、風に溶けた。俺は思わず笑った。胸の奥で、何かがやわらかく鳴った。
胸の内側――義体ではない、もっと奥。
言葉の届かないところで、小さなクリック音。
まるで心臓がもう一度、自分の位置を確かめたような感触。
背後から声がした。
「再起動、成功。おかえり、ケイ」
ルナの声だった。十年前の夜、砂の塔で聞いた“起動プロトコル”の声と同じ。けれど、今のほうがずっと人間らしく、やわらかかった。
俺は振り返らずに答えた。「ただいま」
風がふっと強くなり、紙飛行機がもう一段高く舞い上がる。
足元に一枚の紙が落ちた。
拾うと、そこには拙い字で“ルナ”と書かれていた。
振り向くと、校舎の窓際で、ルナが恥ずかしそうに手を振っていた。
「投げたら、すぐ落ちた」
「風向きのせいだな」
「もう一回、教えて」
「あとでな。授業が終わってからだ」
子どもたちがくすくす笑い、ルナも笑った。笑い声が重なって、午前の空が少し明るくなった。
儀式が終わると、街からの通信が安定したとの報告が届いた。
世界は、また少しだけ“覚える力”を取り戻したらしい。
それでも、すべてが救われたわけではない。
塔の北側にはまだ崩れたままの区画がある。忘れられた名も、数えきれないほど残っている。だが、直せる場所は直った。歩ける道はできた。それで十分だ。
昼過ぎ、少年――今はもう若い青年になった“あの子”が、工房から駆けてきた。
「先生!」
「どうした」
「工具の研ぎ方、もう一回見せて」
俺は笑い、彼の手を取った。
「お前、もうとっくにできてるだろ」
「でも先生みたいに、まっすぐに削れない」
「いいんだ。まっすぐすぎると、折れる」
そう言って、俺は屋台の影にしゃがみ、研ぎ石の上に刃を置く。
軽く、正しく、必要なときだけ強く。
教えるというより、一緒に手を動かす。研ぎ音がリズムを刻み、風に混ざる。彼の動きが次第に安定し、刃が静かに光を返した。
「そう、それだ。悪くない」
「ほんと?」
「俺より上手いかもな」
青年が照れた顔で笑う。
教えることは、減ることじゃない。渡したぶんだけ、世界は軽く、強くなる。
夕方。
工房の扉に新しい看板が掲げられた。“名の学校・分校”。
少年たちが作ってくれたらしい。木の表面には小さな手形の跡。まだ乾ききらない塗料の匂いが心地いい。
俺は鍵束から一本を抜き、釘に掛けた。
これでいい。あとは任せるだけだ。
机の上には、ロイの綴じ本と、リーネの箱が並んでいる。ページをめくると、俺の書いた不器用な字の上に、誰かの小さな落書き。“ありがとう、せんせい”。
指でなぞり、目を閉じる。胸が少し痛い。でも、悪くない痛みだ。
夜、校舎の窓辺。
遠くの塔の灯が、暗い空をゆっくり照らしていた。
世界はまだ完璧じゃない。忘れる人も、壊れる道も、これから先いくらでも出てくる。
けれど、人はそのたびに名を呼び、直し方を覚えていく。
“失われたもの”と“覚えているもの”のあいだで、風のように揺れながら、生きていく。
俺はベッドに横たわり、天井を見つめた。
指先を上げ、小さな蝶の形を描く。光は出ない。けれど、動きだけでわかる。
この形を覚えているかぎり、ルナも、ロイも、リーネも、みんな、ここにいる。
人の記憶は薄れる。でも、手は覚えている。手が覚えたことは、次の誰かの暮らしに残る。
おやすみ、と小さく呟く。
そのあとで、もう一度だけ、空に向かって手を伸ばした。
そこには誰もいない。けれど、たぶん、誰かがいる。
かつての俺、未来の子どもたち、まだ名を持たない誰か。
指先が触れるわずかな風の震えが、音になる。
“手を伸ばす音”が、静かな夜にやわらかく響いた。
その音が消える前に、俺は目を閉じた。
世界は今日も、直る途中だ。
そして、明日もたぶん、誰かが新しい名を呼ぶだろう。
──再起動の日は、終わらない。
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(了)




