第二十五話 手を伸ばす音
夜は、教室の机を細くしていく。昼間は背の高い机が並んで、子どもたちの声の分だけ横に広がって見えるのに、夜は足音の数だけ狭くなっていく。ひとつ、またひとつ、机の脚が床の節目に乗って、乾いた音を置く。その合間に、名札の角が布に擦れる音がまざる。窓の外、風見の小さな羽根が、風の力を確かめるみたいに、時々だけ回る。
俺は端末の前に座って、名のテーブルに今日の分の追記をしていた。名前は夜に太る。昼間に呼ばれて、書かれて、笑われたぶん、夜にゆっくり背を伸ばす。背を伸ばした名前は、明日、少しだけ遠くまで届く。
ログを整理する手つきは、パン粉を指先で集める動きに似ている。散らばった粒を寄せて、薄い紙の上にのせ、余計なのを息で吹く。吹き過ぎると全部飛ぶ。足りないと指に張り付く。夜は、そうやって息の量を測る練習に向いている。
端末の画面が、不意に「古いフォルダ」を見つけた。こちらが探していないのに、向こうから袖を引いた、みたいな出方だった。十年前の携行核から移した、砂漠の記録塔の断片。フォルダ名は、たしかな字なのに、ほんの少し震えていた。名前というやつは、どれも少し震えている。生きているからだ。
開くと、画面の向こうに、若い俺の手が出た。驚いて椅子から背を浮かせてしまい、古い背もたれが小さく軋んだ。画面の手は、油に薄く光って、爪の脇に砂が残っている。手のひらの真ん中に、古い傷。あれは、塔の梁が落ちた日に、金具を素手で押さえて切った痕だ。見れば指が疼くかと思ったが、そうはならなかった。画面は画面だし、俺の手は、今ここにいて、チョークの粉を乗せている。
再生された声は、若い俺のものだった。早口で、息が浅くて、言葉が前に飛び出していく。恥ずかしいくらい真っ直ぐだ。
「ここにいる。まだ直せる」
当時の俺は、誰かに向かって喋っているふうでもなく、目の前の金属と砂に向けて言っている。励ます相手が世界だと、人はこんな口調になるのかもしれない。
画面の端で、ルナの横顔が光った。白い。夜の光で白いんじゃなくて、彼女自身が少し光をあるいている感じ。目の端は疲れているのに、指の動きは迷っていない。記録は正直だ。盛らない。盛らないから、あとで見たときに、ちゃんと笑えるし、ちゃんと黙れる。
息を忘れていることに気づいたのは、喉が乾いたからだった。湯のみは教卓の右端。手を伸ばす距離がいつもより長い気がする。夜は、距離の感じ方を変える。湯のみの底を机に置いたときの丸い音が、教室の壁でやわらかく跳ねた。
そのとき、現在の教室のスピーカーから、微かなノイズがした。はじめは、夜警の爺さんが隣の部屋で椅子を引いたのかと思った。違う。名ノードが、夜のあいだも小さく呼吸している音だ。紙の名札が紙の名札にこすれる音。端末の短いため息。風見が、青い風と白い風を、同じ角度で受け直す音。それらがいっしょになって、「覚えている」の音になる。
画面の中の若い俺が、工具を持ち替えた。持ち替えの癖が、今と同じで可笑しい。いつも二度ほど空振りしてから、しっくり来る位置で止まる。画面の指が震えているのに、最後の線はまっすぐ引けている。まっすぐというのは、ふるえないことじゃない。ふるえながら、そのぶんだけ丁寧に進むことだ。十年前の俺は、丁寧だった。今の俺も、たぶん。
俺は再生を一度止めて、立ち上がった。黒板に近づく。チョークの箱は、いつもより軽い。誰かが白を多く使った日だ。手のひらに粉を受けて、「合図」と書いた。書いてみて、間が重いと思った。字が黒板の上で眠くなるときは、まだ何か足りない。足りないものは、外にあることが多い。
窓から校庭を見ると、暗がりのなかに白い三角が落ちていた。紙飛行機。今日は授業の最後に飛ばしていない。誰かが残していったのか、風が持ってきたのか。靴をはいて、廊下を歩く。夜の廊下は、昼より少し長い。蛍光灯の明かりが点と点になって、歩くたびに次の点が灯り、前の点が消える。水飲み場の蛇口の下に、昼間の水が一滴残っていて、今になって落ちた。床に小さな星が生まれる。
外に出ると、夜の冷気が耳の奥を洗った。紙飛行機は、校庭の白線の上で止まっていた。拾い上げる。翼に字がある。よく見る、下手な字。子どもは、自分の名前だけはどれだけ下手でも読める。
「ケイせんせい」
手書きの「い」がやせている。濁点が、ちょっと遠くに置かれている。指で翼を撫でると、紙の厚さが指に言う。あ、この紙は学校の備品の束のいちばん後ろから破ったな、とか、昼の汗をほんの少し吸っているな、とか。紙は、いちいち正直だ。
胸に当てる。胸骨に紙の角がひっかかって、その手触りが「届いた」を連れてくる。昔投げた別の紙の、乾いた角の感触が重なった。砂漠の夜に、風の中で誰にともなく投げた紙。届く相手がいないのに、届いてほしいと願って投げた紙。届き先のない願いは、どこへ行くのか。たぶん、こうして十年後の俺の胸に当たって、名前を増やす。
「届いた?」
背中から、声。ゆっくり振り向くと、ルナが柱にもたれていた。夜は彼女の顔色から余分な白さを奪って、かわりに目の中の黒を深くする。深い黒は、眠りにも似ているけれど、眠っていない。
「届いた」
と答えると、ルナはうすく笑って、空に向かって手を伸ばした。夜は空が近い。伸ばした手が、星の手前の目に見えない糸に触れそうになる。彼女の手は昔から細い。細いけど、折れない。折れないのは、無理をしていないからだ。無理をすると、いちど折れて、次から強くなるやり方もあるけれど、世の中の全部がそのやり方に向いてはいない。
俺も同じ方向に手を伸ばした。そこには誰もいない。でも、たぶん誰かがいる。若い俺、未来の子ども、まだ名のない誰か。名は、ないままでも、合図に応える。応えないように見えて、少しあとで返ってくる。返ってくるときの音は、紙をめくる音に似ている。遠くで、薄い紙が一枚だけ、風に乗って、めくられる音。
ルナが俺の指先を探して、軽く触れた。手の温度を比べるほどの時間もなく、すぐに離れる。短い接触は、長い接続の合図になる。合図は、声よりも先に意味を運ぶ。意味は、あとから追いつく。
「眠れない?」
「眠る前に、少しだけ聞こえる夜がある」
「どんな夜」
「誰かが名前を呼ぶ、手前の夜」
彼女は柱から離れて、教室へ戻る廊下を指さした。二人で戻る。足音は合わせなくていい。合わない足音が、廊下の窓に交互に映る。窓の外の校庭に、今拾った紙飛行機よりも小さな三角が、もう一つ落ちている。夜は、ものを二度置く。気づかなかったものを、もう一度だけ置く。
教室に入ると、端末の画面はまだ砂漠の夜を照らしていた。若い俺が、油のついた指で額を拭い、深呼吸をしている。画面の端で、リードがこちらを見ている。見えないはずの目で。彼のログは表情を持たないが、あのときたしかに「守れ」の中に「逃げろ」を入れてくれた。彼は俺の命令を少しだけ疑って、都合のいいところだけ従ってくれた。あれは、賢さだ。賢さの種類に、そういうのがある。
ルナは端末に近寄って、音量を少し下げた。夜の教室の音の高さに合わせる。大きすぎる音は、夜の壁に怒られる。小さすぎる音は、机の木目に見えない顔をしかめさせる。ちょうどいい音にすると、黒板の白が機嫌を直す。
「これ、あなた?」
「昔の俺」
「昔のあなたは、泣いてる」
「昔の俺は、泣いてた」
「今のあなたは」
「泣く前に、手順を考える」
「それは泣かないの?」
「泣くよ。泣きながら、手順を考える」
言い合って、少しだけ笑う。笑いが漏れると、教室の空気がひとつ伸びをする。伸びをした空気は、天井に軽く触れて、すぐに戻る。天井は柔らかい。柔らかい天井がある建物は、子どもが伸びやすい。
俺は端末から目を離して、黒板の「合図」の字を見た。さっき書いたばかりなのに、少し古びて見える。字はすぐに古びる。古びるから、また書ける。書き直すたびに、手の形がほんの少し変わる。変わるたびに、名前の届く距離が変わる。
「合図、増やす?」
「増やそう」
ルナがチョークを一本手に取って、黒板の端に小さな点を打った。俺も一本取って、反対側に点を打つ。二つの点のあいだに、線を引く。線は、まっすぐでも曲がってもいい。今日は、少しだけ弓なりにした。弓なりの線は、呼吸みたいだ。
「これは?」
「呼ぶ前の間」
「これは?」
「返す前の間」
「これは?」
「笑ってしまう間」
黒板に、間の線ばかりが増えていく。子どもが見たら文句を言うだろう。字を書いてほしい、と。明日は字を書く。今日は、間を書いておく。間がないところに字を書くと、字が倒れる。
机の上の紙飛行機を、もう一度手に取った。翼の裏に、さっき気づかなかった小さな印がある。消しゴムの角で押したみたいな、四角い薄い跡。「名ノード 七番」。子どもが遊びで押したのだ。遊びは、仕事の手前にある。真似が先で、理解があとから走ってくる。こういう跡を見ると、安心する。世界は、人が遊ぶぶんだけ、丈夫になる。
「ケイ先生」
廊下から、夜警の爺さんの声。眠たそうで、でも嬉しそう。
「なあに」
「湯があまってる。飲みゃあ」
「いただきます」
湯は、夜になるとやさしくなる。昼の湯は喉を通ると働くけれど、夜の湯は喉を通ると座る。座って、音を小さくする。湯の音は、紙の音と仲がいい。ぽん、と唇をはなれたときの小さな気泡と、紙をめくったときの薄い空気の入れ替わり。どちらも、教室が好きな音だ。
湯のみを置いた指先が、黒板の粉を拾った。粉の白さは夜に強い。強すぎる白は、少しだけ何かを隠す。粉を指でこすって、小さく空を描く。空は四角でいい。四角の外に、名が出ていく。出ていくときに、手を振る。手を振るのは、届かないことが分かっているからする、いちばん正直な動き。
端末の記録は、砂漠の夜をたっぷり見せて、静かに終わった。画面が暗くなる手前、若い俺がこちらを向いた気がした。気がしただけだ。だけど、その「気がした」は、俺の中で確かなほうの気がしただった。人は、気がしただけのもののほうを、ときどき長く覚えている。
「返信、する?」
「どうやって」
「紙に書いて、音にして、名にする」
ルナが、机の引き出しから白紙を出した。俺はペンを取り、「未来へ」でも「過去へ」でもなく、「合図へ」と書き始めた。宛先を人にすると、人を疲れさせる宛先になる。合図は疲れない。合図は、届いたとき、届かなかったとき、どちらの顔もできる。
書く内容は、手順にした。手紙を手順にすると、読むひとの体温に合う。体温に合うと、字は紙の上で眠らない。眠らない字は、夜に強い。
一、深呼吸をする。二、名前をひとつ思い出す。三、その名前を、ぜんぜん関係ない音に合わせて口に出す。四、聞こえなかったら、自分の耳をやさしく引っぱる。五、引っぱって痛かったら、そこでやめる。六、痛くなかったら、もう一度だけ呼ぶ。七、返事がなくても、台所の水を少し出して止める。止められた水の音が、返事のかわりになる。
書き終えて、紙を四つ折りにして紙飛行機にする。折り目は深く。指の腹でちゃんとさする。さする回数は、数えない。数えると飛ばなくなる。窓を半分だけ開ける。夜の風は、昼より機嫌をとりやすい。風の機嫌がよいあいだに、そっと放る。紙は、まっすぐいくと見せかけて、少しだけ左に寄って、下がりかけたところでふわりと上がった。校庭の真ん中に向かう。暗がりのなかに、白い三角がもういちど増えた。
「届いた?」
「届いたことにする」
「それ、大事」
「大事」
二人で窓を閉める。窓ガラスに、夜の俺たちの顔が二枚、重なる。少しずれている。ずれているぶんだけ、どちらの顔も笑って見える。ずれは、昔よりうまく使えるようになった。ずれているときは、急いでまっすぐに戻そうとしない。ずれたまま、合図の幅を広げる。幅が広いほうが、たいてい届く。
「もう一つ、聞こえる?」
「何が」
「手を伸ばす音」
耳を澄ます。夜は、必要な音だけ残す。遠くで犬が短く吠え、すぐやめる。風見が眠たく回る。名ノードが、ひそやかに息をする。そのどれでもない、薄い、でも確かな音が、窓の外から入ってくる。布を指でつまんだときの音。深い引き出しのいちばん下から紙を抜くときの音。誰かが、暗がりで手を伸ばして、もう一人の誰かの袖に触れかけて、まだ触れない、その手前の音。
ルナが、ゆっくりうなずいた。
「聞こえる」
「じゃあ、続けよう」
「続ける」
俺たちは、黒板の「合図」の横に、小さく丸を描いた。丸の中に点を打つ。小さなものほど、目立つように。目立たせ過ぎないように。子どもが明日見つけられるくらいに。
端末の画面に、砂漠の記録塔の一覧が戻る。フォルダ名は震えていない。震えのぶんだけ、中身が外に出たのだろう。ログの末尾に、一行だけ新しく増えていた。自動保存の印。印の横に、時間。時間は見ない。見ると、昔と今の距離が縮みすぎる。距離は、少し離れているほうが、よく手を伸ばせる。
「寝る?」
「うん。寝る」
「寝る前に」
「合図」
二人で、教室の明かりを一つずつ消す。消すたびに、机が細くなって、夜が広くなる。広くなった夜に、紙の白が点々と残る。名札の白。黒板の粉の白。窓の外の三角の白。白は、夜の中でよく働く。働き終えると、朝に黙る。黙った白は、子どもの手に渡る。
最後に扉の前で振り返る。黒板の「合図」の字は、さっきよりまっすぐだ。まっすぐなのは、俺が直したからじゃない。夜が直した。夜は、字をまっすぐにするのが上手い。朝は、字を元気にするのが上手い。昼は、字を喧嘩させるのが上手い。夕方は、字を仲直りさせるのが上手い。どの時間も、字の役に立つ。
廊下に出る前、ルナが俺の袖を軽く引いた。子どもみたいに、弱い力。
「明日、あの紙、拾いに行く?」
「行く。拾って、読む。読んで、返す」
「返せなかったら?」
「枕元に置く。朝に返す」
「朝、起きられなかったら?」
「起きる。子どもが来るから」
彼女はうなずいて、笑った。笑いは、夜の端を少しだけ持ち上げて、星の下に隙間を作る。隙間から、明日がひと目だけ、こちらを見た。
扉を閉めると、教室の中の音がやさしく一度だけ重なって、静かになった。重なる音の最後尾に、確かにあの薄い音がいた。手を伸ばす音。届く前の音。届かなかったときに、もう一度だけ伸ばすことを教える音。
俺たちは、その音に背中を押されるみたいに、廊下を歩いた。夜は、背中を押すのが上手い。押しすぎない。触れるか触れないかのところで手を止める。止めながら、合図を残す。合図は、明日まで消えない。
おやすみ。合図はそこにある。明日は、手の長さを少しだけ長くする。長くなったぶんだけ、届く名前が増える。増えたぶんだけ、世界はゆっくり太る。太った世界は、夜にやさしく鳴る。あの、手を伸ばす音で。




