第二十四話 最後の修理
朝、薬指が他人のものみたいだった。つねっても、ゆっくり返事をする。指の腹で机を叩くと、木の目はちゃんとそこにあるのに、触った感触だけが半歩遅れて届く。夜のあいだに冷えたのだろう。あるいは、長いあいだ働き続けた小さな部品が、そろそろ「休ませて」と言っているのかもしれない。
湯をわかして、湯気で指をあたためる。湯のみの口縁が唇に触れると、落ち着いた土の味がした。工房の棚から工具を出し、右の袖をまくる。補助の肢の接ぎ目に薄い布をあてがって、いつもの順で留め具を外す。金具は、無言で全工程を覚えている。順番を入れ替えると、すぐに不機嫌になるから、こちらも素直に従うのがいい。
「無理はだめ」
戸口から、ルナの声。朝の光にまぶたが筋を描いたまま、彼女は工具の箱をひょいと持ち上げる。指先に昔の光が戻ってきている。強くも弱くもなく、ちょうどいい力だ。
「見せて」
言われるまま、机の上に肘を置く。緊張していると、部品は拗ねる。深呼吸。鼻から吸って、口から吐く。工房のにおいは、金属と油と、昨日のパンを焼いた鉄板の香りがまざっている。こういう匂いのなかで直すと、ものはよく言うことを聞く。
ルナは、俺より先に布をめくった。仕組みを知っている手つき。ひとつ、ふたつ、金具が薄い音をたてて外れる。彼女の指が、肌に触れても驚かない。十年前に、もっとひどい触れかたで世界に触った。あのときより、いまは静かで、やさしい。
「摩耗。けっこう来てる」
「うすうすそう思ってた」
「『うすうす』のときに持ってきて」
「うすうすにも段階がある」
「言い訳の段階ね」
小さな笑い。ルナは、ひとつの留め具をわずかにねじって、錆の粉を落とした。粉は指の腹にくっつき、拭き取ると布に黒い花が咲く。彼女はバネを伸ばし、短い管をかるくしごいて、詰まりを抜く。詰まりは目に見えないけれど、抜けた瞬間の空気が変わる。ひと呼吸ぶん、工房が広くなった気がする。
「ここ、交換。手持ちの中では、これがいちばん合う」
ルナが小箱から部品を選ぶ。指先で転がして、薄い光にかざす。厚みのばらつきが少ないやつ。角の手触りが、丸すぎず、角ばりすぎず、指に言うことを聞くやつ。
「痛い?」
「いい痛み」
「よく分からない」
「痛いけど、役に立つほうの痛み」
「じゃあ、今日はそれでいこう」
彼女が部品をはめる。体の中で、細い橋が渡される感覚。橋桁がきしんで、でも倒れない。次の瞬間、右の指が自分のものとして戻ってくる。一本ずつ、点呼。親指、ひと。人差し指、ふた。中指、みっ…と口に出しかけて、ルナに笑われた。
「数は、朝の空に任せよう」
「そうだな。空はいつも上手く数える」
接合部の上に布を戻し、外した順番の逆から留め具を締める。カチ、カチ。音が軽くなった。軽い音は、だいたい正しい。
そのとき、工房の窓が鳴った。小石がガラスに当たる音。ふいに、胸の奥の部品がぎゅっと縮む。嫌な合図を覚えている筋肉が、先に反応する。
「ケイ先生!」
子どもの声。手を拭いて戸を開けると、名の学校でいちばん背の高い少年が、肩で息をして立っていた。額に汗。目はまっすぐ。
「教室に、変な大人たちが来た。大声で、みんなびっくりしてる」
ルナと目が合う。彼女はすぐに頷き、棚から掲示用の紙束と太いチョークを取った。俺は工具箱のいちばん軽いほうを肩にかける。重い箱は力になるけど、今日は言葉のほうが要る。軽い箱は、言葉を助ける。
教室は、倉庫だったころの癖がまだ残っていて、声がよく響く。扉をくぐった瞬間、その響きの真ん中に、強い音が立っていた。
「名の固定だの、名の網だの、そんなものは魂を縛るやりくちだ!」
前に立つ男は、肩幅の広い服を着ていた。肩を大きく見せたいときに選ぶ服だ。怖がっているとき、人は大きく見せたくなる。うしろには、同じような顔つきが何人か。こちらを見る目に、怒りの色と、不安の色と、疲れの色がまだらに浮いている。
子どもたちは机の下のほうに集まって、小動物みたいになっていた。教師は黒板の前でうろたえて、チョークを落とし、屈んで拾って、また落とした。
「こんにちは」
俺は挨拶をした。挨拶は、いちばん簡単な網だ。投げると、たいていどこかに引っかかる。
「あなたが、ここをまとめているのか」
「片付けの順番を知ってるだけです」
男の言葉に、少しだけ余分な重さがのっていた。重さは、どこかでついた埃かもしれない。埃は払える。
「黒板を使わせてもらっていいですか」
教師がうなずく。俺は前に出る。足が勝手に歩き方を選ぶ。早くもしないし、遅くもしない。黒板に、丸を描く。真ん中に、点を打つ。点の左下に、短い線をのばす。
「名は網です」
男が顎を上げる。俺は続きを描く。点と点を結ぶ線。線が増えて、面のようなものができる。面の隅に、井戸の絵。片方の辺に、家の絵。もう片方の辺に、畑の絵。真ん中に、机。机の上に、名札。
「網は、つかまえるためだけにあるものじゃありません。落ちそうな人の下に広げるためのものです。井戸の縁。屋根の上。川のほとり。名は、そこに網を張るやり方です」
「それでも、縛るだろう」
「縛るのは、網の使い方です。網は柔らかくもできる。風が通る目にすれば、風は通り、人は落ちない」
「言葉遊びだ」
「言葉で人は落ちるし、言葉で人は拾える。だから、言葉遊びでもいい。遊びは強い」
教室の後ろから、誰かが、ふっと笑った。笑いは、小さな穴を開ける。空気がそこから抜ける。固いものが少しずつ形を変える。
俺は黒板の丸をなぞって、人の絵を足した。手を伸ばした人。隣の人の手を取る人。長い線で結ぶのではなく、短い線をいくつも重ねる。
「名を呼ぶと、腕が伸びる。腕が伸びると、誰かに届く。届かなくても、次の人が伸ばす。そうやって、網は広がる。広がった網の中で、みんなが動ける」
「網の中で、自由に?」
「自由と無茶は別。無茶は、自分も他人も壊す。自由は、自分をまっすぐにして、他人を曲げない」
男の肩の服が、少し下がった。肩を張るのに飽きたのかもしれない。子どもが机の下から出てきて、黒板の丸の近くに立った。指で点をさす。
「ここ、わたし?」
「そう。君」
「じゃあ、この線、父ちゃん」
「そう。お父さん」
男の目が、その子に吸い寄せられる。目は正直だ。正直な目は、喧嘩が長く続かない。
「魂を縛るつもりはありません。縛るなら、こんなに蝶むすびは教えない」
俺は、蝶むすびの輪を作って見せた。机の角で、紐をふわりとかけて、片方の耳をつまむ。もう片方の耳を合わせて、くぐらせる。するすると締まって、でも、両方の耳を持てば、すぐにほどける。
「結んだり、ほどいたりできる結びは、人の名前にも使えます。強く結びたいときにだけ、ぎゅっと引っ張ればいい。ほどきたいときは、深呼吸して、耳をさがす」
男は長い息を吐いた。息が床に落ちて、すぐに消えた。彼の後ろにいた男たちも、目の端が少しだけ柔らかくなった。
「……子どもは、怖かっただろう」
「怖かった。でも、怖いを知った手は、もっと上手に結べます」
俺はチョークを置いた。白い粉が指に残る。指をこすり合わせると、粉が少し鳴いた。黒板の前に立ったまま、胸の中で、昔の声を思い出す。壊すことを恐れるな。壊しっぱなしを許すな。あの声は、黒板のこの位置で、いちばんよく響いた。
男は、頭をかいた。髪をかく手つきに、仕事の癖が出る。手の甲に古い傷。油のにおい。俺はそのにおいを知っている。
「すまなかった。大きな声を出した。俺は……」
言葉が続かないときは、手で続けるといい。俺は、扉を指さした。外に、風と太陽が待っている。
「外で、深呼吸してきてください。戻ってきたら、名の由来を教えてください。ここは、そういう場所です」
男は頷いた。頷くとき、首の横の筋肉がきれいに動いた。怒鳴る筋肉と、頷く筋肉は、仲が悪いわけじゃない。使い分ければいいだけだ。
彼らが出ていくと、教室に静けさが落ちた。静けさは怖くない。静けさは、声の寝床になる。教師が胸に手をあてて、深く息をした。子どもたちがいっせいにしゃべり出す前に、俺は手を叩いた。
「はい、今日は『名の網』を掃除してから、おやつ。網は掃除しないと、魚でもないものが引っかかる」
「魚でもないものって?」
「怒鳴り声とか、変なうわさとか、先生の焦りとか」
「せんせいの焦り?」
「ときどき出る。すぐ取れる」
笑いが戻る。笑いは、教室の床に散って、また集まる。集まった笑いは、午後の授業の燃料だ。
騒ぎのあと、指の痺れはむしろ軽くなっていた。黒板の前で話しているあいだに、手が自分の形を思い出したのだろう。工房に戻ると、ルナが湯を足して待っていた。湯のみから立ちのぼる香りは、午前よりやわらかい。
「どうだった」
「ちょっと長い掃除」
「掃除は、どこも同じね」
彼女は俺の肘を持ち上げ、接ぎ目をもう一度なでる。皮膚の下で、細い道が並んでいる。どの道も、今日は混んでいない。道は、混むときにこそ、やさしく扱うべきだ。
「ひとまず、今日の分は大丈夫」
「今日の分、が助かる」
「今日の分が積もって、明日になる」
彼女は言いながら、机の端に置いてあった紙飛行機をひっくり返した。裏に書いてある子どもの字を声に出して読む。読まれた名は、紙の上で静かに背伸びをした。
昼過ぎ、村の集会所に顔を出す。板の床は足音をよく覚えていて、こちらの靴の重みも、隣の家の犬の爪の音も、平等に鳴らす。名の家庭版の手引きを貼り直して、角のめくれ上がったところに新しい糊を足す。糊は、よく働く。働きすぎると、貼りたくないものまで貼るから、適度が良い。
「先生、さっきの人たち、帰りました」
集会所の係の女が、窓の外を見ながら言った。外の空気が落ち着いている。落ち着いた空気は、昼寝に向く。
「戻ってくるかもしれません」
「戻ってきたら?」
「名の由来を聞きます」
女は笑った。笑いは、紙に似ている。折れば飛ぶ。濡らせば透ける。火に近づけると、明るくなるが、やりすぎると消える。扱いはむずかしいけれど、あると助かる。
夕刻、工房に戻ると、机の上に綴じ本を出した。ロイから受け取った本。空白だった最後の幾枚かは、この十年で少しずつ埋まってきた。けれど、まだ余白がある。余白は怖くない。余白は、呼吸の場所だ。
ペン先に軽く墨を含ませて、最初の一行を書く。書くときは、急がない。急ぐと、字が前のめりになって、紙のなかで転ぶ。
「家庭版 名の手順」
一文字ずつ、指に言い聞かせる。朝の教室でやったことを、暮らしに移すやり方に変えて並べる。家の名を朝に読む。昼に隣の名を借りる。夕方に返す。返せなかった名は、枕もとに置く。置いた名は、朝に必ず返す。返すときに、声を忘れない。声を忘れたら、深呼吸をする。深呼吸で戻らなければ、誰かに肩を叩いてもらう。肩を叩く手は、強くしない。弱くもしない。
ページを改めて、次を書く。
「停止ピンの約束」
といっても、難しい言い回しは使わない。子どもの手が届く範囲で、使い方の順番を置いていく。ここに差す。差したら、一度止まる。止まったら、必ず周りを見て、息を整える。息を整えてから、次の人を見る。次の人に、渡す。渡したら、手を離す。離した手は、膝の上で待つ。膝が熱いときは、いったん立つ。立ったら、水を飲む。飲む水がないときは、窓を開ける。窓が開かないときは、呼ぶ。名前を呼ぶ。呼ばれた名前が返事をしたら、また座る。
もう一枚。
「切る勇気の読み替え」
昔書いた「切る勇気」は、刃の話だった。いま書くのは、台所の包丁の話に近い。包丁は、誰かを怖がらせるためのものじゃない。食べられる形にするためのものだ。切る前に、まな板を濡らす。濡らすのは、刃がすべらないように。切る前に、置き場所を掃除する。切ったあとに、布を用意する。汁がこぼれないように。誰かが指を近づけたら、包丁をいったん置く。置いたら、目を見る。目を見るのは、怖がらせないために。切ったら、並べる。並べたら、匂いを嗅ぐ。匂いがよければ、だいたい大丈夫。匂いが変なら、もう一度、小さく切って、火を通す。
書いているうちに、紙の重みが変わる。最初は眠たげだった紙が、少しだけ背筋を伸ばして、こちらの言葉をまっすぐ受け止めるようになる。紙はわがままだ。わがままだから、相手をよく選ぶ。今日の紙は、機嫌がいい。机の木目も、いっしょにうなずいている。
最後の空白の、左下に、小さく一行を足した。
「恐れは設計に入れる。怒りは設計から外す」
書き終えて、ペン先を拭く。墨のにおいが指に残る。小さく鼻を鳴らす。ロイの字は、隣のページで静かに笑っているように見える。整った字は、長く歩ける。俺の字は、ところどころ靴紐がほどけている。でも、ほどけたら結べばいい。蝶むすびで。
綴じ本をそっと閉じる。表紙と本文が触れるとき、薄い音が出た。音は小さいのに、工房の空気が一瞬だけ止まる。止まった空気のなかで、体の奥の古い部品が、カチリと鳴いた。痛みではない。合図。長い道の途中で、石に白い印をつけたときの気持ちに似ている。そこに、戻る場所ができた、という感じ。
日が落ちる前に、屋上に上がる。手すりは昼の熱を少しだけ残していて、手のひらにささやかな陽だまりが移った。風が来る。風は、今日にしては優しい。塔の上で眠っている町の灯りが、順番に目を開ける。遠くの区画の影はまだ深い。でも、深い影の縁で、子どもが紙を飛ばしている姿が浮かんだ。見間違いでもいい。見間違えを信じる夜があってもいい。
「終わった?」
背中から、ルナの声。彼女の足音は、以前より軽い。軽いけれど、消えない。消えない足音は、心にやさしい。
「ひと区切り」
「『ひと区切り』は、だいたい『まだ続く』の前触れ」
「言い換えが上手い」
「仕事だから」
彼女は手すりに肘をかけ、夜の色を見つめた。星は、まだ遠い。届かない距離にあるものは、目にやさしい。
「あなたの修理、終わった?」
「部品は新しくなった。使い方は古いまま」
「古い使い方は、たいてい信用できる。新しい部品は、たいてい頑張りすぎる」
「じゃあ、間をとる」
「間をとるのが、あなたのやり方」
言葉の間に、風が通った。屋上の床が少し冷たい。冷たい床は、足の裏にまっすぐで、嘘をつかない。
「最後の修理って、なに」
「俺の手順を、他の人が続けられる形にすること」
「それは『最後』じゃない。『引き継ぎ』」
「やっぱり言い換えが上手い」
ルナは笑って、空を指さした。夜の向こうに、見えない線がある。線は、今日と明日を結んでいる。線の上に、名前が落ちないように、いくつも小さな結び目を作った。結び目は、蝶むすび。ほどけるし、結び直せる。
屋上から降りる前、工房の灯りをひとつだけ消した。暗くなりすぎると足元をぶつけるから、ひとつは残す。残した灯りは、机の上の綴じ本をやわらかく照らした。表紙が、呼吸をしているように見える。紙が呼吸をするとき、部屋も呼吸をする。呼吸がそろうと、人は眠くなる。
寝床に横になる。掛け布の端が冷たく、すぐに温かくなる。胸の奥の古い部品が、もう一度、小さく鳴った。カチリ。痛くない。痛いときの音は、耳の奥に尖る。いまの音は、骨のほうに丸く沈む。聞きながら、ゆっくり息を整える。大きく吸って、小さく吐く。吐きながら、今日の黒板を思い出す。丸、点、線、面。板書は簡単でいい。簡単だから、子どもが真似できる。真似できるものは、続く。
明日の授業のことを考える。名を飛ばす儀式。名を拾う儀式。返せなかった名の置き場所。置き場所の横に、甘い飴をひとつ。飴は、説明の代わりに使える。説明は飴ほど甘くないが、飴のあいだに入ると、よく入る。飴を噛む音は、教室をやわらかくする。
目を閉じる。まぶたの裏に、紙飛行機がやさしく重なっていく。翼に書かれた名。書いた手。返す足。笑う口。泣いた目。目をこすった指。指についた粉。粉を洗った水。水を受けた布。布から落ちた、最初の一滴。あの一滴の冷たさを、胸の真ん中にそっと置く。
怖れは、もう設計に入れた。怒りは、外に出した。手は、渡した。渡したことで、手が軽くなった。軽くなった手は、明日の教室で、紙をもっと遠くまで飛ばせる。遠くまで飛んだ紙は、誰かの靴の先に届く。届いた靴が、こちらを向く。向いた顔に、名を返す。
遠くで、犬が短く吠えた。すぐに黙る。夜は、必要な音だけを残す。必要な音だけを聴くと、眠りはまっすぐ来る。眠りの手前で、綴じ本の表紙が、もう一度、小さく笑った気がした。笑い返す。声にはならない。声にしなくても、届く相手は知っている。
明日を怖れない。怖れはもう、手順のどこに置くか決めた。怒りは、道具箱の外に置いた。閉めた蓋の上に、紙飛行機をひとつ。紙は薄い。薄いから、風を覚える。風を覚えた紙は、名を連れて戻ってくる。
おやすみ。明日は、引き継ぎの続きだ。




