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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第二十三話 子どもたちの村

 塔から南へ半日ほど歩いたところに、風の向きが素直で、土壁が落ち着いた色をしている集落がある。小川が一本、畑の端をなでて、昼になれば光を飲み込んで銀色に近づき、夕方になると子どもたちの足音を映して少し騒がしくなる。俺はそこで〈名の学校〉を開いた。といっても、立派な校舎が立ったわけじゃない。使われなくなった倉庫の埃を払って、壁をこすり、窓を磨いて、扉の蝶番に油を差し、机の脚に紙をかませてガタつきを止めただけだ。壁には大きな紙の地図を貼った。地図といっても道路や塔の位置がすべて書いてあるわけじゃない。家の場所、井戸の場所、畑の角、犬がよく寝ている石。その程度だ。けれど、その程度がいちばん役に立つ。机の上には色とりどりの名札。紐の先に厚紙がぶらさがって、風に触れると小さく鳴る。窓際には、薄い布を横一列に吊るした。朝晩の冷えに合わせて結露が落ちる。布の端を握ると、指先にひんやりした水が移った。

 学校の朝は、家の名から始まる。子どもたちは家族の名を持って登校してくる。胸の前で大事そうに抱えたり、頭にのせたり、口にくわえて両手を空けたり。名は落とすと角が曲がるから、くわえるのはおすすめしないのだが、すすめなくてもやるやつはやる。門のところで俺は一人ずつ受け取り、読み上げる。

「ほのか」

「はい」

「たける」

「はい」

「たけるの母」

「はい。本人は『母』じゃありません、気をつけて」

 名を呼ぶたびに、声が背中を押す。押された背中は自然にまっすぐになる。朝の背中がまっすぐなら、だいたいその日はうまくいく。

 授業の最初は、地図の前に集まって、札を貼る作業だ。家の名を、家の場所に。井戸の名を、井戸のところに。犬の名を、犬の石に。犬は石にいないことのほうが多いが、それはそれでよい。犬は風で動く生き物だ。

「せんせい、『かじのあるくみち』って何」

 小さな指が、地図のすみに描かれた細い線をさした。

「火事じゃない。鍛冶。金属を叩いて直す人の道。昼間は暑いから、朝と夕方しか使わない」

「じゃあ、朝の線」

「そう。朝と夕方の線」

 地図は、名と時間の地図になっていく。昼の匂いが濃い場所、夕方にだけ人が増える場所、夜になると猫が会議をする場所。子どもたちは覚えるのが早い。覚えたそばから忘れるのも早い。けれど、忘れたぶん、覚え直す。覚え直したぶん、線は濃くなる。

 机に戻ると、名の交換だ。自分の名を友だちに渡し、友だちの名を受け取る。札は二枚ずつ。片方は胸に。もう片方は机の角に。机の角は丸く削ってあるから、膝をぶつけても痛くない。俺は丸い角が好きだ。角が丸い机は、喧嘩が短くなる。

「先生、これ、どうやって結ぶの」

 ひもが指にからまって困っている子がいる。

「蝶むすび。蝶むすびは、忘れたときにもほどける。思い出して結び直せる」

「ちょうむすびって、ちょうちょの?」

「そう。ちょうちょの。ほら、指で輪を作って、耳をふたつ」

 蝶むすびは手が覚える。手が覚えると、口が追いかける。口が追いかけると、誰かの名が自然に出る。

 前の方で、小さな手が上がった。病室で出会ったあの少女に似た目をしている。光をまっすぐ見ようとしていて、でも時々、光のほうが早く逃げる。

「わたし、昨日の名前を忘れたけど、今日覚えた」

 教室が笑う。俺も笑う。

「それはすばらしいことだ。忘れるたびに、覚え直す。名は何度でも新しくなる」

 少女は満足げに頷いて、ノートに自分の名を大きく書いた。少しはみ出しても構わない。紙からはみ出したぶんだけ、声が広がる。

 昼まえの短い休み時間、外で縄跳びが始まった。名を跳ぶ遊びだ。回す二人がリズムよく名を読み、跳ぶ子が自分のところで高く跳ぶ。

「みずき、みずき、みずき」

 同じ名が続くと、跳ぶ子が照れる。照れると跳び方が変わる。変わった跳び方に、回す手も笑う。笑うと縄が少しゆるみ、ゆるんだ隙間に別の名が入り込む。

「父ちゃん」

 縄が止まった。回す子と跳ぶ子が同時にこちらを見て、顔を赤くする。

「『父ちゃん』は呼んでもいいけど、縄に入れるのはやめておこう。お父さん、縄に向いてない」

 笑いが広がる。笑いは、やわらかい合図だ。合図が増えると、暮らしはぶつからない。

 昼には、窓際の布から水が落ちる。皿で受けて、みんなでちびちび飲む。味は薄い。薄いけれど、舌の上で確かにひんやりする。

「これ、空の味がする」

「そう。空の味。空は毎日、同じ顔じゃない。今日はちょっと優しい」

 水の合間に、名の歌を歌う。難しい旋律じゃない。名を並べて、音を一つ足して、最後に声を引っかけるだけ。歌っているうちに、いつのまにか目の奥が軽くなる。歌は筋肉に近いところで効く。

 午後は家族参観だった。倉庫の扉が横に広く開いて、土間から風が入る。父と母、祖父母、兄弟。赤ん坊を抱いた姉も、杖をついた曾祖母も。皆で名を読み合い、互いの名の由来を話す。

「この名はね、畑の端に咲いた花からもらったんだよ」

「この字は、じいちゃんが書けなかったから、似た形で代わりにしたの」

 笑いながら話す人、泣きながら話す人。泣いて笑って、笑ってまた泣いて、最後にはだいたい笑っている。俺は黒板の隅に小さな丸を描き、その周りに線を伸ばした。

「名は点。点と点が線になり、線が面になり、面が暮らしを支える。点がひとつ増えると、線は二倍以上に増えます。……いえ、今のは忘れてください。とにかく、点が増えると、つながる場所が増える」

 難しそうな顔をした人が、線の先の自分の名を見て、肩の力を抜いた。肩は抜けるためにある。抜けた肩は、次の荷物も運べる。

 参観が一息ついたころ、教室の外でひとりの少年が俺に駆け寄った。胸が波みたいに上下して、目だけはまっすぐだ。

「先生、父ちゃんが、自分の父ちゃんの名前、思い出した!」

 言葉が一息で出た。息をもう少し使い分けてもいいが、今日は特別に一息のままで許す。俺は少年の肩に手を置いた。肩は少し汗ばんで、熱かった。

「よかったな」

「うん。父ちゃん、泣いてた。泣きながら笑ってた」

「いちばん強いやつだ」

 少年は鼻をこすって、また駆けていった。足音が小さくなって、庭の端で誰かに捕まり、もう一度大きくなって戻ってくる。名は行ったり来たりする。行ったり来たりの回数が増えるたび、道ができる。道ができると、迷っても戻ってこられる。

 授業の終わりに、紙飛行機を作った。翼は広め、先は丸め、角は爪で軽くなぞる。表に自分の名、裏に誰かの名。

「二人の名で飛ばすの?」

「そう。自分だけの飛行機は、風に飽きられる。誰かの名が乗ると、風は少し丁寧になる」

 校庭に出て、一斉に飛ばす。ひらり、くるり、すっと直線、ありえない角度の回転。紙飛行機は風を読むし、風は人を見る。どの飛行機も、どこかの足元に落ちる。拾った人が名を読み上げ、返しに行く。返すときに、もう一回、名を呼ぶ。

「ゆい」

「はい」

「たろう」

「はい」

「父ちゃん」

「返しに行く距離が長いな」

 笑いが起きる。笑いの上を、白い紙の群れがまた通り過ぎる。俺は空を見上げながら思った。──これが暮らしの儀だ。早くはない。再起動みたいに一度で変わりはしない。でも、確かに世界を直す。空に名が散って、地面で名が拾われて、また空に上がる。その繰り返しが、人を眠らせ、朝に起こす。

 夕方、子どもたちは家に戻る前に名を差し戻す。家の入口の名ノードに、今日持ち歩いた名を挿し、声に出して読む。読まれる名は、すこし姿勢を伸ばす。読んだ人も、読まれた名も、どちらも得をする。得した分は目に見えないが、夜、湯飲みの底に少し甘さが残るので分かる。

「先生、紐がからまった」

「紐はそういう生き物だ。まず深呼吸。焦ると、紐は喜ぶ。喜ぶと、もっとからむ」

「うう……」

「いい方法がある。紐に、『いまから直すから、じっとしてて』とお願いする」

「お願いでいいの?」

「お願いでいい。お願いが通じなかったら、ため息をひとつついて、もう一回お願いする。二回目はだいたい通じる」

 子どもは素直にお願いして、ため息をついて、二回目で笑った。紐はそういう生き物だ。

 名の差し戻しが終わったら、教室に戻って片付けだ。名札を種類ごとに分け、明日使う分を揃え、落ちた紙片を拾い、窓の布を新しいのと取り替える。誰もいなくなった教室は広く、埃の音がする。埃が動くと、夕日の柱が見える。柱はゆっくり寝る準備をしている。

 名札をまとめていた俺は、ふと戸口の気配に気づいて顔を上げた。ルナが立っていた。色はまだ薄いが、目は力を取り戻しつつある。指先の光は控えめで、代わりに頬の桜色が少し戻っている。

「あなたの授業、いいね」

「君の詠唱もな」

 自分で言って、少し照れた。ルナは笑って、机の一つに腰をおろした。子どもの描いた下手な蝶が机の角に貼られていて、彼女はそれを指でなぞる。

「これ、わたし?」

「そうだ。ずっと、ここにいる」

 彼女は目を閉じ、うん、と小さく返事をした。その返事の重さが、机を通して指先に降りてきた。机は柔らかい。柔らかい机は、言葉の重さを受け止める。

「今日はどうだった」

 尋ねると、ルナは肩をすくめて、窓の外を見た。校庭の端に、紙飛行機が一つ取り残されている。

「朝はよく眠れた。昼はパンを半分食べた。夕方、塔の上からこの村のほうが光って見えた」

「光ってたのは、名の粉だな」

「粉?」

「うまく言えないけど、声が風に混ざるときに出る粉。肺に優しいやつ」

「肺に優しい粉、いいね」

 彼女は笑い、机の引き出しをそっと開けた。中には子どもたちが忘れていった消しゴムや、折れた鉛筆や、よく分からない紙切れが詰まっている。

「忘れ物の箱」

「忘れ物は、次に会う理由だ」

「いい言い方」

 ルナは引き出しを閉め、手のひらを机の天板に当てた。

「わたし、ずっと、名前のことを冷たい方法で考えてきた。帳面の上で、詩みたいに並べるやり方。でも、ここに来たら、名前が柔らかいものになった。落ちても拾えるし、曲がってもなでれば戻る。そういうものとして、生きてる」

「名は道具だからな。道具は手の中で形を変える」

「あなたは、道具に優しい」

「道具に優しくしてると、人にも優しくなる。逆もあるけど」

 ルナは指を握ったり開いたりして、手の温度を確かめた。

「明日、わたしも参加していい?」

「もちろん。窓から覗く係でも、前に立って歌う係でも」

「窓から覗くと背筋が伸びる?」

「伸びる。目があると、人は急に姿勢を気にする」

「じゃあ、窓の目になる」

 彼女の声が少しだけいたずらっぽくなって、俺は机の端に置いていた紙片を丸めて、指で弾いた。紙は空中でくるりと回って、床に落ちた。落ちた紙には、小さな字が書いてある。誰かの名だ。拾い上げて読み、声に出す。

「りく」

 声は教室の隅で跳ねて、窓の外へ抜けた。夕暮れの匂いが入ってきて、遠くの犬がくしゃみをした。名前は、届いたようだ。

 ルナが立ち上がる。少しふらついたので、手を貸す。骨の軽さはまだ戻っていない。でも、足は地面を選べるようになっていた。

「帰り道、紙飛行機ひとつ拾っていく」

「いいお土産だ」

「窓の下にぶら下げる。風が来たら飛ぶように」

「飛んでいったら?」

「また拾う理由ができる」

 扉を開けると、廊下は薄暗く、外は朱に染まっていた。ルナは振り返り、教室を一度だけ長く見た。机、黒板、地図、窓、布、名札。目がすべてを順番に撫でていく。

「あなた、ここにいるとき、顔がやわらかい」

「子どもは、工具に似ている。手におさまる。手から逃げる。逃げても戻る」

「褒めてるの?」

「もちろん」

 彼女は笑って、小さく手を振り、夕焼けのほうへ歩いていった。背中の線は真っすぐで、でも固くない。風が背中の布を押して、押されたぶんだけ歩幅が伸びる。

 教室にひとり残ると、音がひとつずつ戻ってきた。紙が擦れる音、名札の紐が柱に当たる音、外の砂利を踏む足音。俺は黒板の前に立ち、今日のまとめを書いた。

「名は点。点は呼べる。線は渡せる。面は眠れる」

 書きながら、ロイの綴じ本の空白を思い出した。あの空白を埋める言葉は、案外こういう場所で拾える。拾った言葉は、いちど寝かすと甘くなる。甘くなった言葉は、朝、子どもたちに分けられる。

 片付けが終わるころ、外はもう群青に近かった。空気の冷えが足首に触れ、窓際の布から最後の一滴が落ちた。皿に残ったわずかな水を口に含む。味は薄く、でも確かだ。

「今日も生きた」

 自分にだけ聞こえる声でそう言って、灯りを落とし、扉を閉める。錠前は軽い音で返事をした。

 校庭に出ると、紙飛行機が一枚、月の光を受けて白く浮かんでいた。拾い上げて裏を見た。そこには、子どもの手で震えながら書かれた二つの名。見覚えのある組み合わせだった。俺は小さく読み上げ、胸の中で二度めに読み、そっとポケットに入れた。

 名は、飛ぶ。落ちる。拾われる。返される。返せない日もある。返せない日のぶんまで、明日、もう一枚飛ばす。

 夜の道は、昼よりもやさしい。やさしい夜の中で、俺は歩幅を少しだけ広くした。歩幅が広がれば、息がゆっくりになる。息がゆっくりになれば、名前がきれいに出る。

 村のはずれで振り返ると、倉庫の窓に小さな灯りがふたつ、みっつ。誰かが残って片付けを手伝っているのだろう。あるいは、窓から覗く係が予行演習をしているのかもしれない。覗かれている教室は、たぶん背筋を伸ばしている。背筋が伸びた教室は、明日、いい声が出る。

 工房までの帰り道、夜露が草の先に丸く乗っていた。指で触ると、転げずに指に移る。指に移った水は、舌に運ぶと少し甘い。名の粉が混じっているのかもしれない。そう考えると、笑えて、歩く速度がまた少し上がった。

 扉を開け、灯りをつけ、机に紙飛行機を置く。隣にロイの綴じ本。空白のページが、薄く光った気がした。

「明日の授業案」

 そう書いて、ひと息。続ける。

「名を飛ばす。名を拾う。名を返す。返せなかった名は、胸にさして眠る」

 最後の一行を付け足す。

「忘れてもいい。ただし、呼び直すこと」

 ペン先が止まり、音が消える。遠くで犬が一度だけ吠え、すぐに黙る。静けさは怖くない。静けさは、名前のベッドだ。

 灯りを落とす前に、机の端に置いた紙飛行機をもう一度撫でた。紙は薄い。薄いから、遠くまで飛べる。薄いから、すぐに折れる。だから、何度でも折り直す。何度でも、名を書き直す。

 目を閉じる。まぶたの裏で、白い翼が増えたり減ったりする。翼の上には、誰かの名。翼の下には、帰り道。帰り道は、明日の朝の道につながっている。

 眠りに落ちる前、胸の奥でやわらかい音がした。誰かが自分の名を呼んだ気がした。夢かもしれない。夢でもいい。呼ばれた名は、確かにここにいる。俺は小さく返事をして、布団の端を引き寄せた。

 明日はまた、子どもたちの村だ。名を呼び、名を渡し、名で笑う。笑えばだいたいのことは動き出す。動き出したものは、止められる。止められたら、もう一度、動かせる。

 そうやって、暮らしは続く。名で続く。声で続く。

 おやすみ。明日は、きっと今日より賑やかだ。

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