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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第二十二話 新生の暁

 夜の底で縮こまっていた街が、ゆっくり背伸びをした。東の空が薄く白むにつれて、屋根の上の布が湿り気を吐き、窓の桟が朝の指で撫でられたみたいに冷たく光る。鐘はまだ鳴らない。けれど、人の喉は先に動き出す。

「安いよ、今日の葉物は水を飲みすぎてないよ」

 市場の呼び声は、昨日より半音低い。喉をいたわっているのかもしれない。子どもの笑いは、そのぶん一段高く、軽い。広場を駆け抜ける足音が、石畳の目地で小刻みに跳ねた。

 名札が増えた。家の入口に紙の板、学校の机の端、病室の枕元。どれも同じ形だが、字はそれぞれ違う。上手い字、急いだ字、やたら丸い字。朝の空気に、名の粉が薄く溶けている感じがする。吸い込んでもむせない粉だ。むしろ肺が少し広くなる。

 名固定の“家庭版”の手引きは昨夜のうちに刷り上がっていて、掲示板には図解が貼られ、パン屋の前には折り畳み台が出ていた。台の上には鉛筆と紐と、子ども向けの厚紙の丸。「ここに書いてね」「声に出してね」「端末の口は大人と一緒にね」。書いたら吊るして、家の風に揺らす。

 〈停止ピン〉の互換口は、今は“名ノード”と呼ばれていた。名前が増えると、人は急に親しげになる。金属の小さな口に紐の先の札をそっと差し、家族の名を順に読んでいく。子どもがそれを遊びに変えるのに、時間はかからなかった。

「父を刺しまーす」

「やめなさい。言い方が物騒」

「じゃあ父をさします」

「さらに物騒。『父の札を挿します』」

「ふっふっふ」

 その“ふっふっふ”は、意味のない笑いだが、意味がないから強い。笑いは怖さを噛み砕く歯になる。遊びは要するに、繰り返しの仕組みだ。繰り返せば、手は迷わない。迷わない手が増えるほど、街は転びにくくなる。

 一方で、反動も来た。来ないほうがおかしい。

 象徴建築の解体に抗議する人たちは、朝から広場の隅で布を振り、声を揃える。布は新しい。声は古い。議員のひとりは、政治の責任をどこかに置き忘れたまま、拾ってほしそうな顔でこちらを見る。母システムにまつわる変な話も、街角で芽を出す。「塔の上に本当の塔が浮いている」「名前を三回言うと魂を吸われる」。魂はそんなに暇じゃない、と言いたくなる。

 会議が開かれ、俺は机の上に暮らしの事実を並べた。数字は少なく、皿の上のパンや校庭のボールのほうを多めに出す。

「朝のパン屋、開いています。昨日より早い。学校の鐘、鳴りました。昨日よりきれい。病室の枕元、札が増えました。呼ぶ声が増えたぶん、迷子が減った」

「象徴はどうするのだ」

「象徴が必要なら、人の名を呼んでください。そこにいる人が、象徴になる」

 会議室の空調は相変わらず乾いていて、舌の裏に粉を貼り付ける。水を飲む。椅子が軋む。誰かが小さく咳をして、窓を少しだけ開けた。街の匂いが入り、粉がほどける。窓って便利だ。

 言い争いは長くなる気配を見せたが、暮らしは待ってくれない。パン屋は時間で開くし、学校は鐘で動く。この速度に勝てる反動は多くない。会議がまだ続いているあいだに、広場の屋台では揚げたての何かに行列ができ、紙袋が油の輪を作った。行列は難しい話を簡単にする。腹が減っている人は、だいたい正直だ。

 ルナは塔の上階の部屋で眠ったり起きたりを繰り返している。光の糸は今、指先ではなく枕元の薄い布に絡んで、風鈴みたいにかすかに揺れている。医師は難しい言葉を使わなかった。「疲れました。休めば戻ります」。その言い方が好きだ。

 俺は毎朝、見舞いに行く。大したことはできない。だから、紙に小さな絵を描いて置いていく。工具、蝶、塔、パン、名札、屋根の猫。

「これは何?」

 目を開けるたびに、彼女はそう訊く。忘れてしまったわけじゃないのは分かる。説明が欲しいのだ。説明は、愛に似ている。

「これは工具。昨日、広場の端で子どもが踏んで、痛いって泣いた。今日は踏まないように、絵で覚える」

「これは?」

「パン。二つ買って、一つは途中で誰かに半分あげた。残った半分を、私が食べた」

「それはパンではなく、親切の絵」

「どちらもだな」

 会話は短く、温かい。息が合う。合うように、ここまで来た。

 昼前には彼女はまた眠りに落ち、俺はそっと窓を閉めて部屋を出る。廊下には同じように紙を持った人がぽつぽつ並ぶ。皆、誰かに何かの説明を届けに来ている。説明が街を支えている。大げさじゃなくて、ほんとうに。

 昼過ぎ、村から少年が来た。以前、工房の鍵を預けた少年だ。背は伸び、声は少し低くなり、でも笑うと昔の角度に戻る。

「先生、工房、うまく回ってる」

「知ってる。回ってる音がここまで聞こえる」

 そんな嘘をつくと、少年は照れて首をかいた。

「“家庭版の手引き”も教えたよ。図の色を変えた。小さい子は赤が好きだ」

「いい工夫だ。赤は遠くからでも見える」

「家の名札、みんな自分で書くから、うちの通り、字が三種類あるんだ。上手い字と、頑張りすぎの字と、面白い字」

「面白い字は大事だ。飽きない」

 少年はポケットから鍵を出しかけ、またしまった。

「返さないから」

「返す気があったのか」

「ちょっとだけ」

 笑って、彼は胸を張る。

「北のほうにも教えに行く。塔の人が来られない日でも、手順が動くように」

「頼む」

 渡すことは、減ることではない。渡したぶんだけ、世界は軽く強くなる。少年の肩は以前よりまっすぐで、背中は少し広い。鍵は彼が持っていたほうが、街は大きくなる。

 午後の会議は、午前の会議の続きだった。塊になった言葉を一つずつほぐす。政治の話は、パンと違って冷めても美味くならない。だから、できるだけ熱いうちに食べてしまう。

「母システムは危険だ」

「母は道具だ。道具は危険にもなる。刃は紙も切るが、パンも切れる。使い方で決まる」

「君たちは街の歴史を軽んじている」

「歴史は建物だけにあるのではなく、朝の呼び声と、机の落書きと、夕方のため息にもある」

 噛み合わない瞬間が続く。噛み合わせは歯車と同じで、削りすぎてもだめ、磨かなくてもだめ。結局、暮らしの速度に会議が押し流され、決は形だけ降りた。

 外に出ると、パン屋の前にはまた行列ができている。油の輪は朝より大きい。鼻孔の奥が少しだけ鳴り、腹が正直に意見を言う。俺は列の最後尾につき、ゆっくりと進み、揚げたての何かを受け取って噛んだ。熱さで目を閉じ、舌をやけどしそうになり、笑って水を飲む。政治は腹を満たさないが、腹が満ちれば政治の声は少しだけ小さくなる。これは昔からそうだ。

 夕暮れ、塔の屋上で風を浴びる。遠くの地平に、まだ崩れたままの区画が一つ、二つ。全部は直らない。全部が直ると言う人は、たぶん明日、嘘をつく。直せるところは直った。直せそうなところは、目印を付けた。目印の紐が風に揺れ、紐の先で小さな札が音を立てる。札には名が書いてある。

 俺は胸の内で「ありがとう」と呟いた。誰に、とは言わない。言わないほうが、届く相手が増える気がする。

 夜が落ちる前に、学校から声が届いた。教師たちが“家庭版”の読み合わせをしているらしい。俺は手引きを抱えて教室に顔を出した。木の匂い。古い黒板の粉が、まだ空気の隅にいる。

「難しい言葉は抜きます。子どもが家で読み上げるのが目的ですから」

「読み上げると、家の人が笑います。つられて子どもも笑います」

「笑いが出たら成功です。次の日もやるので」

 教師たちの目は赤い。眠いのだ。眠いけれど、黒目の中心は冬の夜みたいによく光る。

「明日、ケイさん、最初の授業に来てもらえます?」

「わかりました。大声出す練習なら任せてください。腹から声を出すタイプです」

「腹筋の授業ではありません」

「知ってます」

 ちょっと笑いが起き、黒板の前の緊張がほどける。誰かがチョークで小さく“呼ぶ声は薬”と書いた。下に“苦くないほう”と添えられ、また笑いが起きる。笑いの小皺は、街を丈夫にする糸だ。

 塔に戻ると、廊下の突き当たりでリードが立っていた。夜番らしい。金属の脚は磨かれて、昼間の砂がきれいに落ちている。

「見回り?」

 問いかけると、彼はわずかに首を傾け、胸の板に触れた。意味は分かる。胸には昔の命令がうっすら刻まれている。“守れ。だが、必要なら逃げろ”。

「今日は逃げる必要は?」

 彼は足を一歩だけ引き、また戻した。つまり、まだだ。俺は親指を立てたくなったが、やめた。彼は親指の意味をまだ勉強中だ。代わりに、軽く肩を叩く。金属の音は短く乾いて、夜の空気にすぐ溶けた。

「ありがとう。君のいる通路は、音がいい」

 リードはほんの少し背筋を伸ばし、目にあたる光点を細めた。機械にも、誇らしいという姿勢があるのだと知る。そういうのを見ると、人間は急に嬉しくなる。

 寝る前に、名のテーブルを開く。白い面に小さな灯が森みたいに散っている。灯は歩き回らない。そこにいる。灯の隙間に、今日の“合奏”の印を小さく置いた。“合奏済:北中枢”。欄外に“明日、学校へ”。

 欄外は自由だ。自由は責任に似ている。書いたからには、行く。行って、呼ぶ。呼んで、笑う。笑って、覚える。覚えたら、眠る。眠ったら、また朝が来る。

 窓を開けると、夜風が紙の端をめくり、綴じ本の黄ばんだ余白が一枚だけ顔を出した。紙はもうあまり残っていない。けれど、書くことはまだたくさんある。

 灯りを落とし、廊下の角を曲がると、ルナの部屋の前で足が止まった。扉をノックし、そっと開ける。彼女は目を閉じていたが、気配に気づいたのか、薄く笑う。

「今日は何の絵?」

「学校の机。角が丸い。角で膝をぶつけない」

「優しい机」

「あと、パン」

「またパン」

「朝はパン屋の行列が長かった。政治より長かった」

 彼女は笑い、短く咳をした。俺は水を渡し、彼女は一口飲んで、息を整える。

「明日、あなたは学校へ?」

「うん。大声の授業」

「わたしも行きたい」

「来て。できれば窓から覗く係で」

「どうして」

「窓の外から見てる人がいると、教室は背筋を伸ばす」

「なるほど」

 なるほど、の言い方が、昔と同じで少しだけ胸が痛い。痛いのは悪くない。痛みは、どこが生きているか教えてくれる。

 部屋を出るとき、彼女が呼び止めた。

「ねえ」

「うん」

「ありがとう。今日、街の声、きれいだった」

「きれいな声は、明日も出る」

「明日はもっと」

「うるさくなるかも」

「それもきれい」

 扉を閉める。廊下を歩く。足音が少し跳ね、天井の灯りがそのたびに小さく揺れた。塔は眠り、街は半分だけ起きている。半分起きている街は、夢の続きを自分で選べる。

 寝床で横になり、天井の木目を数える。数はすぐに分からなくなる。眠りが先に来る。眠りの手前で、俺はうっすら笑った。

 明日は学校だ。大声を出して、名を呼んで、笑う。授業が終わったら、パンを買って、二つに割って、どこかの誰かに半分あげる。残った半分を、俺が食べる。

 そういう普通の時間が、やっと押し寄せてきた。押し寄せてきた普通は、足元を洗っていく。洗われた足は、次の一歩を忘れない。

 街は朝を取り戻した。

 新しい朝は、前より静かで、前よりうるさい。

 そのちょうどいい混ざり具合の中で、俺は目を閉じた。

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