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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第二十一話 君の名を残す

 朝の塔は、薄い光の帯を壁に流し、まだ眠気の残る街をそっと肩で押し返していた。大広場の空気は冷たく、屋台の布が手の甲に触れると少しだけ湿っている。風は東から。砂の匂いは薄い。代わりに、磨かれた石と油の混じる香りが鼻に残った。今日の仕事はここだ、と足の裏が勝手に言う。

 中枢区画の切断。誰もが口をつぐみ、誰もが噂をする。広場の真ん中にそびえる象徴の建物は、遠目に見るぶんにはやたら立派で、近くで見ると意外と継ぎ目だらけだ。外壁の角は手で撫でると粉がつき、柱の足元は白く痩せている。そういうものほど、守りたいという声が大きい。

 反対派の代表は、朝から嗄れた声で喚いた。「歴史の破壊だ」「誇りが泣く」。俺は会議室で静かに言い返す。歴史は建物ではなく、名に宿る。名を残す。だから切る。

 言葉は届いたり、届かなかったりする。届かないほうの人は、手続きを山ほど並べてきた。印、印、印。紙は軽いのに、束になると重い。塔の使いが走り、机の上に紙が重なり、時間は薄く溶けて床に落ちていく。その間に、忘れっぽい世界はまた一歩進む。

 広場を歩けば、子どもが自分の名札の読み方を忘れて眉を寄せ、母親が子の呼び名を舌の上で探す。見つからない瞬間の顔は、寒い日に水を浴びせられたみたいに強張る。俺は立ち止まり、名の仮の杭を一本打って、子の耳元でゆっくり読んでやる。子は頷く。母は目を閉じ、深く息を吐く。少しだけ戻る。けれど、足りない。今日やるべきことは、もっと大きい。


 塔の上、作戦室の机はすでに地図でいっぱいだった。薄い紙を何枚も重ねた地図の上に、ルナの細い指が光の糸で道をなぞる。光は風に揺れ、紙の端を震わせる。

「切り口はここ」

 彼女が示すのは、象徴の建物の台座の少し外側。目には見えないが、古い水の筋と空気の通り道が十字に交わる地点だ。そこを静かに外し、別の道へつなぎ直す。やり方は決まっている。問題は、道の真ん中で立ち止まっている人たちだ。

「反対は続くよ」

「うん」

「でも、名を残すことは止めない」

「止めない」

 短い会話。息は合う。合うように、ここまで来た。


 作業当日の朝、俺は広場の端で手袋を引き、工具の重さを掌に確かめる。鉄の気配は今日は心強い。ポケットの内側には、見慣れた細い棒。握ると、昔の工房の景色が少しだけ浮かぶ。ロイの手。リーネの足音。粉のついた黒板。人は匂いで思い出す。

 合図の旗が上がる寸前、嫌な音が走った。壊れる音ではない。壊そうとして、やめた音。名固定の杭の一部が静かに倒れた知らせが、端末の角を震わせる。反対派が、先に手を出した。杭を抜けば、声は迷う。迷えば、止める作業が遅れる。遅れれば、忘却は喜ぶ。

 塔の中枢から、母の声が落ちてきた。いつか暗闇で聞いた声だ。乾いた冷気が喉の奥を撫でる。「補正中。負荷上昇」。文字より先に意味が胸に刺さる。

 ルナが横に現れ、顔色を変えた。「全停止に移行する」

 俺は首を振る。条件は分かっている。杭が足りない区画では止めない。だが、今は杭そのものが折られている。

「わたしが止める。短い一呼吸。あなたはその間に、つなぎ直して」

 彼女の声は硬い。恐さをきちんと含んだ硬さだ。俺は頷き、広場の真ん中を見た。人、人、人。旗、布、鳥。手。目。

 ルナが前に出て、手を胸に当てる。光が一筋、空へ昇る。母の声が、もう一度落ちる。「全域静止、許可」

 世界が、止まった。

 風は動きを忘れ、旗は垂れ、鳥は空でわずかに遅れた。歩いていた男の靴が地面に触れる直前で固まり、泣きそうな子の口は半開きのまま、涙のふくらみだけが光っている。声がない。音がない。静けさが、体に重りを結ぶ。

 その静けさは、刃物より薄かった。だから切れた。

 俺は走る。杭の折れた場所を足で探し、紙の板を壁に貼り、チョークで丸を描く。丸の中に名を書く欄を作る。欄の脇に、読み上げる順の矢印を引く。端末はここ。紙はここ。声はここ。指を置いて、ゆっくり息を吸う。

「名前を呼んでください」

 静止の中でも届く声の幅で言う。俺の声は自分の胸に跳ね返り、腹の底に落ちた。

「自分の名を。隣の名を。ここに、声を置いて」

 止まっていた世界が、少しだけ動いた。止まる直前の位置から、重さを変えないように。誰かが呟き、別の誰かが真似をし、呼吸が戻る前に音だけが生まれる。

 最初の声は細く、次の声は震え、三つ目の声は笑い混じりで、四つ目の声は涙をこしらえている。

 母は声を拾う。塔の腹の奥で、古い板がやさしく鳴る。声はそのまま杭に変わる。紙の丸に書いた名の文字が光の芯をひとつ飲み込んで、見えない地面にぐっと刺さる。端末の画面は明滅をやめ、灯は落ち着き、読み上げの欄には印が付く。

 人の輪の外で、金属の足音が風の代わりに駆けた。リードだ。彼は群衆の縁をなぞり、駆ける影を二つ、三つ、静かに横へ押し返す。腕は既に武器ではない。でも、守る手は残っている。妨害の手は、彼の胸に当たると、思ったより柔らかな抵抗にあって少し驚き、足を止める。

 俺の視界の端で、彼の頭がわずかに傾く。「守れ。だが、逃げろ」。昔、紙に書いた短い命令。命令は命令のままでは足りない。彼は自分で考え、危ないと判断した人をさっと後ろへ回して、通り道を空ける。自分はその道から外へ退く。誰もぶつからない。誰も転ばない。金属の脚が砂を踏む音は、頼りないほど軽かった。


 広場の杭が一本、また一本と立ち上がり、名前の呼び合いは歌みたいな形に変わっていく。母が子を呼ぶ。子が母を呼ぶ。見知らぬ者どうしも、名を交換するみたいに呼び合う。名は知らなくても呼べるのか、と最初は笑いが起きた。けれど、呼んでみると、笑いはほどけて涙に変わることがある。声が、照れや強がりの皮を少しだけ剥がす。

 俺は杭の反応を見て、足りない場所へまた走る。紙の丸に、太い線を足す。書きながら、昔の子どもたちにやって見せたときと同じように、小さな冗談を混ぜる。

「大きな声は、空に負けない薬です」

 年配の男が鼻を鳴らす。「薬なら苦いほうが効く」

「じゃあ、名前のあとに好きじゃない野菜の名も言ってください」

 笑いが波の端に生まれ、波は崩れずに大きくなる。薬は苦いほうが効く、たしかにそうだ。でも、笑ったほうが、息は長く続く。


 足場の悪い角で、老女が名を探して手を震わせていた。俺は手を重ね、指の節の硬さに合わせて節を寄せ、息の速さに合わせて声を遅くする。

「ゆっくりでいい。今日は“ゆっくり”のほうが速い」

 老女は小さく笑い、うん、と言ってから、自分の名をやさしく呼んだ。杭がわずかに沈んで、すぐに止まる。止まった場所は、もう少しやそっとでは動かない。


 静止の時間がひと呼吸分の役目を終えると、風がゆっくり戻ってきた。旗がため息をつき、鳥が空で進み直す。誰かが転ぶ音はしない。足音は重なっても喧嘩をしない。

 母の声が低く響く。「補正完了。静止解除」

 ルナがうなずき、胸の前で指を重ねる。詠唱は祈りではなく、段取りの確認。名の杭は立った。道は開いた。切り口は冷えている。

「いくよ」

「こっちはいつでも」

 俺はレバーを握り、金属の冷たさを掌に引き寄せる。指の腹に小さな滑り止めの刻みが触れ、昔と同じ位置に小さな傷が当たる。引けば、止まるべきものが止まる。止まった隙間から、新しい道が顔を出す。

 引いた。

 音は、やっぱり静かだった。

 象徴の建物の台座が、溜め息みたいに重さを手放し、別の支えへそっと乗り移る。石は崩れず、埃も上がらない。外から見れば、何も起きていないみたいだ。だけど、起きている。地面の下で、古い道が引っ込んで、新しい道が前へ出た。

 広場の隅で、泣き声が上がった。喧嘩の泣き声ではなく、見つけた泣き声。忘れていた名を取り戻したときの、ぐしゃぐしゃの泣き笑い。母が子の名を呼び、子が笑って応える。名を呼ぶ声は柔らかい。応える声は少し照れている。

 拍手が広場を回る。手と手がぶつかる音は、金属音よりずっとあたたかい。俺は掌を見て、粉が付いていないのを確認して、少し笑った。今日は黒板を使っていない。けれど、粉の匂いは、胸の奥にまだ残っている。


 作業が終わり、紙と端末と声の丸が揺れをやめたとき、母の声がまた落ちてきた。「代理者、負荷超過」

 ルナが膝を折りかけ、俺は慌てて背を支える。光の糸が指から離れて、空気の中に散る。彼女の額は汗で濡れているのに、手は冷たい。

「大丈夫」

 彼女は笑った。息は細いが、笑いは強い。

「名前、たくさん残った。ほら、耳を貸して」

 言われるまま耳を澄ませると、広場のあちこちで、まだ名を呼ぶ声が続いている。終わってからも呼ぶ声は、きっと習慣になる。習慣になれば、杭は太る。

「まだ終わってない」

 俺は彼女の手を握り、塔の階段へ向き直る。

「上へ。名のテーブルを見よう」

「歩ける」

「今日は、運ばせてくれ」

 ほんの少しだけ、俺は意地を張る。彼女は苦笑し、頷いた。抱えると軽い。彼女が軽いのではない。俺の腕が十年分、重いものに慣れただけだ。階段の踊り場で風が背中を押し、古い木の手すりが掌を支える。


 最上段の部屋は、静かに冷えていた。棚に並んだ板は整然と眠り、奥の机には綴じ本と空の紙束。端末の画面は、淡い灯で呼吸している。

 名のテーブルを開くと、白い面の上に細い線が無数に走り、その合間に、今日拾った名の粒がぱちぱちと灯った。灯った粒は歩き回らず、素直にそこにいる。小さな点の集まりが、街の輪郭を形づくる。

 数字で示すのは簡単だ。だが、今日はやめた。ここにいる、という事実があればいい。俺は画面の端に小さく文字を置く。点に寄り添うみたいに、そっと。

 ルナ。

 彼女は画面を覗き込んで、目を細めた。

「だめだよ、そういうのは」

「欄外だからいい」

「欄外が一番、ずるい」

 言いながら、彼女は笑った。笑うと、さっきまで硬かった顔が、昔の夕暮れの形に戻る。冷たい光ばかり浴びてきたはずなのに、人はすぐに温かいほうの顔を思い出せる。ずるいのは俺じゃなくて、人の体のほうだ。

「名は世界の停止点だ」

 俺は呟く。

「止まってくれないものを、ほんの少しだけここに縫いつける。縫い目は見えないけど、触ると分かる」

 ルナは頷き、空いた手で自分の胸を軽く叩いた。

「わたしの名は、あなたの停止点?」

「うん」

「あなたの名は、わたしの再開点」

 彼女は小さく息を吸い、すぐに吐いた。吸って吐いて、それだけで生き物は整う。

「続けよう」

 彼女が言う。

「今日のことは、今日だけの手柄じゃない。明日のやり方にしなくちゃ」

「そのための欄外だ」

 俺は画面の空白に、短いメモを残す。欄外は、未来のためにある。書いた文字は汚い。汚い字は、読み返す回数が増える。読み返すたびに、指先が覚える。指が覚えれば、手は迷わない。迷わない手は、人を待たせない。

 塔の外で、広場の歌がもう一度、細く始まった。誰かが誰かを呼ぶ声は、夜になると少し照れた調子になる。照れは悪くない。照れのせいで、声はやわらかくなる。やわらかい声は、杭を傷つけない。

 机の端で、古い綴じ本が小さく鳴った。ページの端が気流でめくれ、紙が紙に触れる音がする。俺は指で押さえ、黄ばんだ余白に目を落とした。空白は、もうほとんど残っていない。書くべきことは、たぶんまだ山ほどあるのに、紙はゆっくり尽きていく。

 尽きるものを見ると、人は急ぐ。急いで失敗する。だから、今日は急がない。灯りを弱め、冷えを少し強くする。こういう夜は、体を休める段取りが一番の仕事だ。

 扉の外で、金属の足音が一つ、二つ。リードが階段の踊り場に立ち、こちらを見上げている。光点は小さいが、揺れはない。守れ。だが、逃げろ。あの短い言葉は、彼の中で少しだけ膨らみ、別の形に変わりつつある。守るとは、何を守ることか。逃げるとは、どこへ逃げることか。彼は彼なりに考え、彼なりの答えを用意している。いつかそれが、俺の答えと違ってもいい。違いが、世界を強くすることもある。

 ルナが俺の袖を引いた。

「眠る?」

「眠る。明日も、呼ぶから」

「明日は、もっと大声で」

「大声を出すと、お腹が空く」

「じゃあ、朝は甘いパンを増やす」

 笑って、うなずく。塔の窓の外で、夜がやわらかく深くなる。砂の匂いはさらに薄く、紙と布と人の肌の匂いがゆっくり混じる。

 今日、街は止まり、そして動いた。止めるべきを止め、残すべきを残し、動かすべきを動かした。

 名は残る。

 君の名は残る。

 そして、俺の中の、君の名も。

 呼べば返ってくる声が、ここにある。

 なら、世界はもう一度、歩き方を思い出せる。

 その確かさだけを抱えて、俺たちは灯りを落とした。

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