第2話 初めての言葉、初めての後悔
言葉を覚えるのは、たぶん普通より早かった。
それは努力とか才能とかじゃなくて、単に頭の中で音が勝手に分解されて、意味を探そうとするからだった。
雨の音も、工具の音も、リーネの声も、全部が一つの「規則」として見える。
だから、ぼくの世界は最初から少しだけうるさかった。
ある朝、リーネがコーヒーミルを回しながら言った。
「灯真は賢いね」
その言葉に、ロイがすぐ横で首を傾ける。
「賢さは刃物。使い道を間違うと危ない」
ぼくは、二人のやりとりを見ながら、自分が何か危険なものを握っている気になった。
だから、余計に慎重なふりをする。
言葉の使い方を間違えたら、誰かを傷つけるかもしれないと思った。
その日、ロイはぼくを工房の奥へ連れていった。
そこには、透明な板が机に固定されていた。内部を細い光の線が走っている。
「これは練習台だ。触れてみなさい」
ロイの声に従って指先を伸ばすと、光が少しだけ揺れた。
線をなぞると、小さな歯車がカチリと音を立てて回る。
次の瞬間、卓上の端末から火花が散った。
「これがこの世界の魔法だ」
ロイの目がわずかに光を増す。
「外見は呪文に見えるが、実体は信号と素材の応答。書き換えられたコードが、物質に命令を送る。人々はそれを“工学魔法”と呼ぶ」
火花を見ながら、胸の奥がざわついた。
どこか懐かしかった。
前の世界で、似たような光を見た気がする。
何かを組み立て、何かを壊した。
そして、誰かを救えなかった。
「命は……修復できないの?」
気づいたら、口に出していた。
リーネが工具を置く音がして、こちらを見た。
一瞬だけ、躊躇うようにまぶたが震えた。
それから、正直に頷く。
「完全には、ね。でも、直せる部分はある。歩けるようにしたり、掴めるようにしたり。少しずつ、生きやすく」
それを聞いて、胸の奥がひずんだ。
“完全に戻らない”ことへの苛立ち。
それでも、“少しずつ生きやすく”という言葉に、ほんのわずか救われるような息苦しさ。
ぼくは頷きながら、言葉の意味を体の中で回していた。
*
工房には、いつの間にか村の子たちが出入りするようになった。
リーネが義手や駆動輪を直してやる間、子どもたちは工具棚の影で遊んでいた。
ぼくの揺り籠のまわりに集まる子もいる。
「この子、変な目」
ぼくの目を覗き込みながら笑う子。
けれど、別の子がそっとガラガラを揺らしてくれた。
どちらも嘘じゃない。
ぼくは笑い返す練習をした。
ぎこちないけれど、笑うと相手の目が柔らかくなる。
それが嬉しくて、何度も真似した。
「子どもたちが遊びに来るの、珍しいね」
ロイが笑いながら言った。
リーネは溶接ゴーグルを外し、目尻を少しだけ緩める。
「この子がいると、工房が柔らかくなるから」
柔らかく、という言葉の意味はよく分からなかった。
でも、胸のあたりが少しだけ温かくなった。
*
夜になって、停電が起きた。
雷が落ちたのか、突然工房の照明が消え、外の雨の音だけが響く。
リーネがロウソクを灯し、ロイが非常灯を修理し始めた。
ぼくの世界は、炎の揺れと影の伸び縮みだけになった。
その光が、まるで生き物のように壁を這っていた。
リーネはぼくに毛布をかけ、ロイは外の様子を確認する。
遠くで村人たちの声がする。
誰かが困っている音。
ぼくの胸の奥で、またあの“救えなかった記憶”がざわめいた。
「リーネ」
「なあに?」
ぼくは言葉を探しながら、やっと口を開く。
「前のところで……ぼくは、失敗した。助けられなかった」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。
ただ、暗闇の中では、心の奥が見える気がした。
リーネは驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと笑った。
「じゃあ今度は、助けよう」
あまりにも簡単に言った。
だから、余計に胸に響いた。
そんなふうに言ってもらえることが、ずっと欲しかったのかもしれない。
ぼくは頷いた。
リーネは当たり前のように毛布を直し、火を見つめた。
ロイが小さく呟く。
「停電は一時的だ。すぐに戻る」
その声を聞きながら、ぼくは目を閉じた。
初めて“後悔”という言葉が、自分の中に居場所を得た夜だった。
*
翌朝、雨は止んでいた。
ロイが工具を持って外の装置を確認し、リーネは壊れた部品を洗っていた。
ぼくは机の上の練習台を見つめていた。
透明な板の上を、昨日よりも明るい光が走っている。
指先が勝手に動いた。
線をなぞりながら、思い出した言葉を形にした。
“灯りを消さない”
それが、ぼくが書いた初めてのコードだった。
火花が散り、机の端に置いてあった小さなランプが点いた。
ぼくは満足して、それを見つめていた。
けれど、それが“終わり”ではなかった。
そのランプは、一晩中明滅を続けた。
電力を食い潰し、工房の他の機器を不調にした。
リーネが起き出して修理に追われ、ロイが数値を調べて首をかしげた。
ぼくは、ただ黙ってその光を見ていた。
リーネは怒らなかった。
「きれいね」とだけ言い、明滅するランプを指先で包んだ。
ロイは、ぼくを見つめて言った。
「目的が善でも、実装を誤れば悪い結果になる」
淡々とした口調だった。
でも、その一言が胸に焼きついた。
ぼくは小さく頷いた。
ランプの光が、まるで心臓の鼓動のように揺れていた。
それを見ていると、胸の奥が痛くなる。
これが、ぼくの初めての“はっきりした後悔”だった。
*
夜。
ランプの光はようやく消えた。
リーネが工房を片づけ、ロイが端末のログを整理する。
ぼくは眠りの手前で、昼間の出来事を何度も思い返していた。
“善でも、誤れば悪い結果になる”
その言葉が、頭の中で何度も響く。
でも、ロイの声の奥には責める響きはなかった。
ただ、理解を求める音。
学ぶということは、分解して、組み立て直すこと。
ぼくはまた、少しだけその意味に近づいた気がした。
リーネが火を落とし、工房の中は再び闇に沈む。
暗闇の中でも、金属の匂いと、雨の残り香があった。
世界はまだ不完全だ。
でも、動いている。
ぼくも、動いている。
明日、また学ぼう。
また、直そう。
ぼくの中に残っている“壊れた部分”を。




