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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第19話 戦う理由

 朝一番のオペレーション室に、薄いざわめきが漂っていた。壁面のモデルに映る数値は穏やかに波打っているのに、人の声だけがどこか急いでいる。夜のうちに届いた報告書の束には、同じ語が繰り返されていた。忘却。抜け落ち。名の薄れ。

 当番の若い接続員が、乾いた喉を鳴らしながら俺にメモを渡す。「南一帯で、朝起きたら夫婦がお互いの名を言えなかった例が三件。学校では昨日覚えた字形が……」

「黒いしみになる」

 言い終わる前に、彼は目を見開いた。「先生、どうして」

「昨日の北で見た。板書がまだ湿っているみたいに滲む。滲んだところだけ、子どもの口から音が出なくなる」

 俺は工具袋ではなく、携行核と紙束を肩に掛けた。今日は止めるための棒より、刻むための紙がいる。名は、一度は声に乗せ、一度は紙に落とし、一度は端末に刻んでから、ようやくそこにいる確かさを持つ。三層あれば、一層が欠けても、もう一層で踏みとどまれる。


 午前の現場は学校だった。教室の窓を抜ける海風は涼しいのに、子どもたちの頬は熱い。先生がチョークを走らせると、二画目で線がにじむ。黒板じゃない。空気のほうが、線を掴みきれずに震えている。

「昨日、ここまで書けたのに」

 前列の女の子が、二本指で机を撫でながら呟いた。指の腹に粉がつくはずもないのに、彼女は拭う仕草をした。癖は、記憶の手前で続く。

「名前を言ってみよう」

 俺は腰を落とし、目線を合わせた。女の子はゆっくりと音を並べ、言えた自分の名に安心して笑う。次に、俺の名を真似る。俺は「ケイ」と言い、彼女も「ケイ」と言う。二度三度繰り返すと、舌が迷い、声が紙の裏に滑り込むように消えた。彼女は笑った。困っているのに、笑うしかない笑い方だった。

「忘れるたびに、何度でも会えるね」

 胸が詰まった。俺は家族を呼び、簡易手順を紙に書いて渡す。名を朝昼晩に音読、紙に写し、端末に刻む。声が詰まったら歌でもいい。歌のほうが呼吸が長く、名前は長い呼吸のほうに残りやすい。家族はうなずき、女の子は紙を抱えた。紙が彼女の胸の温度を少し吸って、角が柔らかくなった。


 午後は民家を回る。朝、夫が妻の名を言えず、夕には妻が夫の声色を忘れた家。玄関の鈴は、ひとつ鳴って止まった。応対した年配の男は、目の下が少し薄い茶色になっていた。眠れていない目の色だ。

「妻に、名を聞いたら、何度も笑ってごまかして。夕方には、わしの声を『知らない声』って言うんです」

 妻は座敷で膝に毛布をかけ、両手で湯飲みを包んでいた。俺の顔を見て、首を傾げた。見知らぬ来客に向ける丁寧な笑顔を作り、湯飲みを持ち上げかけて、やめた。断り方が上手い。きっと昔から人に優しくするのが上手い人だ。

 俺は二人の間に低い机を引き寄せ、紙を三枚並べた。一枚は妻の名。一枚は夫の名。もう一枚は、互いの呼び名。あだ名や、家の中だけで使う短い名前。正式名より、そっちを先に乗せる。短い音は留まりやすい。留まった音は、次の音の杭になる。

 夫に書いてもらい、妻に読んでもらい、端末に刻む。夫の声は最初こそ強張っていたが、二度目の音から、喉の中で熱がほどけた。妻は揺れながら音を拾い、三度目にようやく息の長さが言葉の長さに合った。

 玄関に戻ると、彼は深く頭を下げた。「ありがとうございます。うちは、まだ、大丈夫でしょうか」

「大丈夫かもしれない。大丈夫じゃないかもしれない。どちらにしても、できることを今日ぜんぶやる」

 嘘にも希望にも偏らない言葉を選び、俺は靴を履いた。戸口の上にぶら下がる古い札の裏に〈停止ピン〉互換口が埋め込んである。指で軽く撫で、差し込み口の角度が変わっていないか確かめる。変わっていない。誰かがここを見ている。見ている誰かがいる限り、この家はまだ大丈夫のほうへ揺れ戻る。


 夕方、塔に戻ると、会議室の空気が冷えていた。床から伝わる冷たさは、機械の冷却の温度だ。机の上の端末は北から南へ、名の波形を滑らせていた。波の谷が深くなるところに赤い印。谷が浅くなるところに緑の印。視覚化された痛みは、理屈の速度で判断を迫る。

 会議は攻撃的ではなかった。けれど、妥協を先に置く余裕も、もうなかった。

「局所再起動の繰り返しでは間に合わない」

 ルナが言った。声は静かで、表情は冷たい。冷たいのは怒りではなく、疲労の上に置いた冷静さだ。

「全域で一度巻き直す。痛みは大きい。でも、そのあと滑らかに動く。動いてから、名の固定網を広げればいい」

「動いてからでは遅い」

 俺は返す。自分の声の温度を確かめる。高いと、言葉が走る。低いと、届かない。中域を選び、言葉を置く。

「名は世界の停止点だ。停止点を抜いたまま動かすと、足場がない。立て直したあとに立つ足が折れる。立つ前に杭を打つ」

「杭を打ちすぎたら、救済の速度が落ちる。目の前で薄れていく子どもの名を、今日明日まで待たせるの」

 机の端の影が揺れた。誰かの指が力んだのだろう。会議室の空気の温度は変わらない。温度が変わらないほど、言葉は鋭くなる。

「痛みを一度でやり過ごしたい気持ちはわかる。でも“やり過ごす”の中に、喪の経験までまとめて捨てるわけにはいかない。喪は、世界の骨の一部だ」

「骨の比喩に逃げないで」

「逃げてない。手順の話をしている。再起動前に、名の固定ノードをもう一段増設する。負荷は上がる。だから、切る場所を限定する。切る勇気を、俺が紙に置く。君は光で通してくれ」

 ルナは目を伏せ、端末に視線を落とした。波形の谷がひとつ深くなる。彼女は指でそこを示し、「ここが、今朝の学校」と言った。俺は小さくうなずいた。言葉の刃の角度を、互いに少しだけ鈍らせる。鈍らせることで、深いところに届くこともある。


 会議室を出ると、廊下に派閥ができ始めているのが目に見えた。腕章の色で分けたわけじゃない。ただ、紙束の抱え方、歩幅の速さ、すれ違うときの顎の角度が、役割と意見の場所を示している。再起動派。固定派。言ってしまえばそれだけだが、そのどちらにも、同じ皺と同じ目の赤さがある。どちらも寝ていない。どちらも必死だ。

 派閥は苦手だ。急ぐときの輪は、意外なほどもろい。輪に入るより、もう少し現場に出たほうがいい。明日の段取りを組み直し、俺は塔を降りた。


 夜の現場は病室だった。昼間の学校の女の子が、念のため観察のためにと塔の診療棟に来ていた。廊下の灯は柔らかく、病室の枕元には紙と筆が置かれている。看護の手は、名の手順をもう覚えていた。

「ケイ」

 女の子が俺の名を呼ぶ。呼べる。次に、自分の名を言い、俺の名をもう一度言う。二度目で音が滑る。俺は頷き、紙を指した。女の子は笑って書き、口でなぞり、音で追いかける。彼女の父母は肩を寄せ、声を揃えた。揃った声は、怖さを少し柔らかくする。

「忘れるたびに、何度でも会えるね」

 彼女はまたそう言った。俺も笑って、うなずいた。人は、何度でも会えるほど強くない。けれど、そう言える子のために、何度でも会えるしくみを作ることはできる。俺がやることは、そこだ。


 屋上に出ると、風が背を押した。塔の上の空は近く、街の灯は遠い。ルナが手すりに手を置いて、遠くを見ていた。背中だけで、わかる。彼女の立ち方は、夜でもまっすぐだ。

「あなたを壊さないといけないのかもしれない」

 振り向かずに、ぽつりと落とした言葉は、風より冷たかった。

「壊すな」

 俺は手すりの隣に立ち、同じ方向を見る。

「議論は壊していい。関係は、壊すな」

「難しいね」

「難しい。だから手順にする。明日、限定再起動+名固定ネットワークの同時実装の骨子を紙に置く。救済速度の下限と、名の保持率の下限を明記する。どちらも下がったら、中断して巻き戻す。臨床の手順に近づける。君は、そこに管理者権限の通路を結んでくれ」

 ルナは少しだけ頷いた。髪が風に押され、光糸が短く震えた。

「あなたの言葉は、人に渡す形になっている。そこが好き」

「任務の人に好かれても、仕方ない」

「人としても、好き」

 彼女は顔を上げずに言い、すぐ、息を吐いた。「冗談。半分はね」

「半分で十分だ」

 俺は笑った。笑いは、硬さを薄く剥がす。


 翌朝、紙束を抱えて会議室に入る。提案のタイトルは長くしない。“限定的再起動と名固定ネットワークの同時実装”。項目は短く、順番は厳密に。切る場所の指針、速度の上限、名の杭の配置、切断の前後で必ず挟む点検の手順。〈停止ピン〉の思想を、塔の上層の言語に翻訳して並べる。紙の上では、俺の字は相変わらず雑だが、行間は広く取り、誰の手でも追えるように矢印を添える。

 提出すると、ルナは文末を見つめた。たった一行。「上記手順においても、名の保持率が閾値を割り続ける場合、再起動計画は中止し、代替案に切り替える」。彼女はその行に親指を置き、筆を取り、文末に短く書いた。「検討する」。インクが少し滲んだ。筆跡に、かすかな震え。


 塔の廊下に出ると、派閥の線は前よりはっきりしていた。再起動派の若者は走る。固定派の老練は歩く。どちらも正しい速度だ。どちらの速度も必要だ。ただ、速度をぶつけると、どちらも転ぶ。ぶつけないで並べる方法が、紙の中にあることを願う。

 外へ出ると、広場の匂いが強くなった。パンの焼ける甘い匂い、油の匂い、子どもの汗の匂い。匂いは忘れにくい。名より先に残ることもある。匂いに名を結びつける手順を作れないか、とふと考える。名の固定ノードに匂いのセンサーを足す。匂いが名前の杭を助ける。馬鹿げてはいない。明日、紙に書いてみよう。


 午後、塔の北斜面のノードの点検に出ると、琥珀の片目の青年が待っていた。砂漠で出会った兄妹の血を引く青年だ。彼は相変わらず、支える手をしている。

「先生、ここ、名の波形が時々痩せるんです」

 斜面の風が冷たく、手の甲が乾く。互換口の矢印は薄くなっており、差し込み口の縁に砂がわずかに噛んでいた。俺はブラシで砂を払い、矢印の上から透明な保護塗料を薄く引く。小さな作業だ。けれど、小さな作業が網の目を詰める。

「塔の中、どうだ」

「線が見え始めています。再起動派と固定派。どっちも、あなたの名前を出す」

「やめさせろ」

 俺は苦笑した。

「名前は杭だ。杭を争いに使うな。杭は帰るために使え」

 青年はうなずき、矢印の乾きを確かめてから立ち上がった。肩に下げた道具袋が重そうだ。俺は袋の位置を手で示す。重心を少し変えるだけで、歩く距離が伸びる。彼は素直に直し、足取りが軽くなる。


 日が傾くころ、塔に戻ると、ルナが屋内の渡り廊下に立っていた。外に出る前の衣に袖を通し、襟を軽く整える。司祭の顔と人の顔の境目に、少し長い息が挟まる。

「検討する、の続き」

 彼女は言った。俺はうなずく。

「限定再起動の波は三波まで。各波の間隔は名の杭の反応に合わせて伸縮させる。保持率が閾値を割った地区は、その波から外す。外した地区は局所に切り替え、あなたの網で拾う」

「拾いきれない場所が出る」

「出る。だから、拾えなかった名を記録する。記録は、喪のために残す」

 喪のために。ルナの口から、その言い回しが出るとは思っていなかった。任務の言語の端を、彼女は少し人間の側へ引いた。

「あなたの言う“喪は骨”というの、ちょっとわかった」

「喪は、元に戻らないものを、戻らないまま抱えるための手順だ。抱えられるように、名前がいる」

 風が廊下を抜け、衣の裾が揺れた。ルナは目を伏せ、短く笑った。「難しいね」を言い出す前の顔だった。けれど、言葉は違った。

「一緒にやろう」

 短い。けれど、そこには確かに、彼女自身の声が乗っていた。


 夜、俺はまた紙に向かった。昼間病室で会った女の子の名を、ひらがなで書き、その横に彼女の好きな歌の一節を小さく写す。名だけでなく、名に絡まる糸も一緒に残す。匂いのセンサーの図を描き、杭の根元に小瓶の記号を添える。馬鹿げてはいない。名は音だけに宿らない。匂いにも、手触りにも、歩幅の癖にも宿る。

 書きながら、ロイの綴じ本の最後の空白を思い出した。――恐怖を設計に組み込む。怒りを設計から外す。今日の俺は、できているだろうか。会議室で声が荒れかけたとき、息を一度整えた。現場で、焦る母親の手に自分の手を重ねた。屋上で、壊さないといけないと言うルナに、壊すなと言えた。どれも完全じゃない。けれど、どれも手順の中にある。


 提案書の最後に、もう一行足す。――戦う理由を、紙に書け。人に見える形にしろ。

 善と悪で分けるな。優先順位で語れ。

 俺はペンを置き、肩の力を抜いた。窓の外で、塔の光のラインが一つだけ短く脈打ち、すぐに整った。遠くで犬が吠え、近くで鈴が鳴り、足音が一つ廊下を過ぎる。

 世界は、たぶん、今日も少し薄くなった。けれど、紙の上の線は、昨日より太い。名の杭は、昨日より一本多い。

 戦う理由は、どちらにもある。ルナの速度にも、俺の杭にも。どちらも人を助けたいからだ。だからこそ、ぶつけず、並べる。

 並べることが、戦うことの手順だ。

 明日は波が来る。波を数え、杭を刺す。刺した杭の数だけ、帰れる人が増える。

 それでいい。

 俺は灯りを落とし、紙を重ね、携行核を胸にしまい、工具袋を肩に掛け直した。

 戦う理由は、人の名だ。

 名は、呼ばれて強くなる。

 呼ぶ声がある限り、俺は止めない。

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