第18話 ルナ再会
北へ三日。草原の色が薄くなり、砂が舌を伸ばすように道の両側へ入り込んできたころ、黒い塔が現れた。空を刺す、と言うのは大げさじゃない。雲の手前で止まった鉛筆の芯みたいにまっすぐで、外壁に走る光のラインが昼でも脈を打っている。
塔の周囲には新しい居住区が広がっていた。碁盤の目の街路。角ごとに簡易の掲示板と、柱の腰の高さに埋め込まれた〈停止ピン〉互換口。色も形も、俺が十年前に書いた仕様に近い。差し込み向きを示す矢印は、はがれにくい材に替えてある。子どもの背丈で触れる高さに統一。
胸が温かくなる。どこかで、誰かが、紙の線を生活の線に変えた。けれど、同時に喉に小さな刺が引っかかる。誰の手だ。俺の知らない誰かの手だ。届いた、という事実はうれしい。けれど、届いた先でどう使われているかは、まだ見えていない。
塔の前広場は人で満ちていた。露店が香辛料の山を並べ、子どもが紐の先で小さな風車を回し、兵の列が通るたびに波のように人波が割れる。中央の壇に、白銀の衣が立った。袖から落ちる布は光を吸って輪郭を鋭くし、指先からは微細な光の糸がこぼれて空気に触れていた。
声が広場に落ちた。澄んだ声だった。音は高くないのに、よく届く。どこか懐かしい旋律の癖がある。
ルナだ。
十年という時間は、彼女に冷たく美しい精度を与えた。顔の形も、目の線も、大きくは変わっていない。けれど、淵が硬い。任務の縁取りが、目尻から頬へ薄く延びている。
彼女は儀の前段を進めていた。口にする言葉は祈りの形を取っているが、内容は手順だ。各町域から集めた“名の留め具”の接続確認。塔内の演算層の負荷配分。無停電域の切り替え順。光糸が指の間で束ねられ、壇の縁から見える端末のランプが順番に点く。
視線がぶつかった。
彼女はほんの一瞬だけ表情を崩し、すぐに司祭の顔に戻した。俺は立ち尽くしたまま、儀が終わるのを待つ。人々は拍手し、帽子を脱ぎ、手を振った。拍手が海のように引いていく。俺は臨時の柵の外れに身を寄せ、息を整えた。
背中を軽く叩かれ、振り向くと、女がいた。背は低く、顔の骨がはっきりと浮いている。薄い琥珀色の目。
「覚えているかい」
口元が笑う前に、目の奥が笑っていた。
砂漠で水を分けた兄妹の、妹に似ていた。年を重ね、頬の肉が落ち、目だけがあのときの光を残している。隣に立つ青年の片目も、同じ琥珀だ。
「ここまで来たのね」
「来た」
「うちの家族、あんたの〈停止ピン〉のおかげで何度も助かったよ。塔の人たちが“先生の文書”って呼んで、ここらの規格に混ぜてくれた」
青年が照れたように目を伏せた。
「俺、接続員の見習いです。塔の外の留め具を点検する班で」
俺はうなずき、彼の手を見た。硬いが、壊す手ではなかった。支える手だ。
「あなた、ルナに会いに来たんでしょう」
女が言う。
「控室に通してあげる。今なら少し時間がとれるはずだよ」
塔の内部は冷えていた。外壁の黒は中に入ると灰に変わり、壁沿いの光のラインが足元を淡く照らす。控室は簡素で、机と椅子と水差しと布だけが置いてある。
扉が開き、ルナが入ってきた。衣の襟元を片手で押さえ、もう片方の手で扉を静かに閉める癖は変わらない。
「来てくれた」
近い。光糸の微細な震えが空気を揺らす。十年前、夜のバルコニーで指に絡められた光の温度が、皮膚の裏側に薄く残っているのを思い出す。
「来た。君を探して」
言葉はそれだけしか出てこなかった。
ルナは席を勧め、自分も腰を下ろした。少し息が上がっている。儀の緊張の残り。水差しから杯に水を注いで差し出す手が少し震えた。
「塔のことを先に話すね」
司祭の顔から、人の顔に戻るタイミングを選ぶように、一拍置いてから言葉が継がれた。
母システムは、局所再起動でどうにか世界の破綻を遅らせている。破綻箇所を切り離し、壊れた流れを迂回させ、加重を別に逃がす。だが、名の散逸は進んでいた。
「子どもが“昨日の自分”と連続できない事例が増えた。朝、鏡を見て泣くの。昨日の顔の“名”が、今の顔にうまく掛からないから」
言葉は簡単なのに、刃を含んでいた。
「町と町の境を越えたときに、名の揺らぎが大きくなる。留め具の網は広がってきたけど、網の目がまだ粗い。母システムは“全域再起動”を提案してきている。わたしは、どこまで許すべきか迷っている」
「忘れない世界にしたい、か」
「うん。忘れていいものまで忘れてしまうのは、もう嫌」
彼女は指に光糸を一筋絡め、ほどき、また絡めた。
「でも、忘れることが全部悪いとも思わない」
小声で続け、目を伏せた。任務の言葉と個人の言葉が、胸の中で擦れているように見えた。
俺は懐から携行核を取り出す。名のテーブルを開き、塔の端末に近づけた。控室の壁に埋め込まれた端末が小さく明滅する。
「名の固定のアルゴリズムは、まだ実験段階だ。でも、局所なら十分戦える。全域でやろうとすると、負荷が跳ねる。時間がいる」
ルナは首を振る。
「局所なら可能。でも、全域は遅すぎる。今日も誰かが薄れていく。明日も」
声がほんのわずか揺れた。悲しみは熱い。だが、方法は冷たい。
俺は息を整え、踏み込む。
「“全域リセット”は、多くのものを消す。君の任務はそれを許すかもしれない。けど、君自身は本当に望むのか」
沈黙が落ちる。
光糸の震えが止まり、控室の静けさに、遠くの演算層の低い唸りだけが戻ってくる。
やがて、彼女は微笑んだ。笑い方は昔と同じなのに、笑いの縁が硬い。
「わたしは任務でできている。でも、あなたに会ってしまった。だから、迷っている」
まっすぐだった。逃げなかった。
「迷いは、悪くない」
「うん。悪くない。ただ、迷う時間が短くて困る」
冗談みたいに言って、すぐ真顔に戻る。
控室の扉が軽く叩かれ、塔の補佐が顔を出した。
「司祭、次の段取りの確認を。外部ノードの接続が一箇所弱いままです」
「後で行く」
ルナは短く答え、扉が閉まるのを待ってから、俺の方に身を寄せた。
「お願いがある」
指先が胸元に伸び、衣の布越しに俺の胸骨を軽く押した。心臓の鼓動が指先に伝わるのが自分でもわかる。
「あなたの中の管理者断片を貸して。再起動計画を前に進めるために」
目を閉じる。
貸せば、世界は救いに近づく。方法を誤れば、名は消える。
俺はゆっくり頭を振った。否定ではない。条件の前置きとしての首振りだ。
「貸す。だが、条件がある」
ルナの目がわずかに見開かれる。
「名を残すこと。再起動の波がどれだけ大きくても、個々の名の“杭”を抜かないこと。杭が抜けたら、戻る場所がなくなる」
「杭……名の固定ノードのことだね」
「うん。〈停止ピン〉を物理から全層に拡張する。止めるべきを止め、切るべきを切る。そのうえで、名の紐だけは切らない。切る代わりに、束ね直す。再起動の前に“束ね直し手順”を入れる」
「負荷が上がる」
「上がる。だから、切る場所を絞る。優先順位は俺が紙に置いていく。君は光で通す。現場の妥協は、優しさだ」
ルナは短く息を呑み、うなずいた。
「交渉成立」
言葉は硬いが、目の縁が柔らかい。
「ただし、あなたにも条件」
「聞こう」
「“わたし”を任務だけで見ないこと。代理者としてのわたしと、人としてのわたしが同じ場所に立てるよう、時間をくれること」
俺は間を置かずにうなずいた。
「約束する」
「約束は、優しさ」
昔、そう言ったのは彼女だった。今、同じ言葉が戻ってくる。
握手をした。
手は温かいのに、背筋は寒かった。
再会は甘くない。約束は重い。
指が離れ、空気が冷える。控室の壁が遠くに下がったように感じる。
ルナは立ち上がり、衣の裾を整えた。司祭の顔に戻るのに、時間は要らなかった。
「外へ出るね。今日の儀では全域の“呼び名”を一度巻き直す。君の断片はわたしが責任を持って扱う。記録塔の名簿とのすり合わせは夜に」
「わかった。補助員として君の後ろに立つ。光が足りないところは言ってくれ」
「足りないのはいつだって、時間と人」
彼女は笑い、扉に手をかけ、止まった。
「それと」
振り向かないまま言葉を置く。
「この街の〈停止ピン〉互換口、あなたの文書が元だよ。ねじ穴の規格の数字が、あなたの癖のままだった」
思わず笑ってしまった。
「ねじ穴の数字で、人がばれるのか」
「ばれるよ。あなたは小数点以下を二桁で書く。わたしたちの標準は一桁」
「直した方がいい」
「直さない方が、あなたを思い出せる」
扉が静かに閉じ、控室に冷気だけが残った。
広場へ戻ると、儀の第二段が始まっていた。各町域から伸びる名の線が塔へ集まり、塔の上層から白い輪がゆっくりと広がる。人々は頭を上げ、口を閉じ、見上げる。
俺は壇の陰に立ち、補助端末に指を置いた。ルナの光が走り、演算層の負荷が少し跳ねる。俺は即席の迂回を作り、余剰の熱を南の冷却塔へ逃がす。
名は、呼ばれるたびに強くなる。呼ばれないと、薄くなる。
広場の隅で、年寄りが震える声で誰かの名を呼んだ。返事はない。けれど、声の跡が空に浮かび、白い輪に吸い込まれていく。
俺は画面の端に、うっすらと残る名の波形を見た。残る。完全には消えない。
ルナの背筋がまっすぐ伸び、指の間の光糸が太くなる。
全域再起動ではない。名を束ね直すための巻き直し。俺たちが今合意したやり方の、初期運用だ。
負荷は予想より少し高い。だが、抑えられる。
壇の下の補助席に座る青年がこちらを見上げ、親指を立てた。琥珀の片目が光る。
俺は小さく頷き、端末の隅の小さなランプを押した。遠くの地区の互換口がひとつ応答し、名の波形がわずかに太る。
儀が終わると、人々は息を吐き、笑い声が走った。塔の壁面に沿って子どもが走り、兵の列が崩れて警備が緩む。香辛料の匂いが戻る。
俺は壇の裏の狭い廊下に入り、腰を下ろした。背中が汗で冷たい。掌にまだルナの指の温度が残っている。
そのとき、廊下の向こうから、怒鳴り声がほんの少し聞こえた。
「全域だ、全域をやるべきだ!」
別の声が押し戻す。
「名が消える。やめろ」
議論の筋は予想のとおりだ。時間は、どちらにも味方しない。
俺は膝に置いた手を開き、指の関節を鳴らしてから、立ち上がった。
廊下の角で足を止める。
ルナがそこにいた。数人の補佐が周りにいて、彼女は静かに頷き、短い指示を出していた。司祭の顔だ。
俺は近づかず、背中だけを見た。
背筋のまっすぐさは、十年前から何も変わっていない。
近いのに、遠い。
手は温かいのに、背筋は寒い。
それでいい。
甘い再会は、たぶん物語には不要だ。
俺たちが握り合ったのは、約束の重さだ。
その重さが、街の呼吸のどこかで、確かに仕事をした。
それだけで、ここまで歩いてきた甲斐はある。
夜、塔の外の空気は冷たかった。居住区の角ごとに灯がともり、互換口の矢印が淡く光る。手すりに寄りかかる青年の片目が琥珀色に反射し、昼間の女が腰を下ろして足を揉んでいた。
「司祭様、忙しい?」
「忙しい。けど、迷ってた」
俺は笑い、首を振った。
「迷うのは悪くないって、ここでも言ってきたよ」
「うん。悪くない」
青年が立ち上がる。
「先生、明日から塔の外巡回に組み込まれますか。北の斜面のノード、少し弱くて」
「行く」
返事は短くていい。
俺は夜の塔を見上げた。
黒い壁に走る光は規則正しく、遠くの演算層の唸りは一定を保っている。
忘れっぽい世界に杭を刺す作業は、始まったばかりだ。
明日も、多分、うまくいく部分と、うまくいかない部分が出る。
止めるところは止め、切るところは切り、束ねるところは束ねる。
その全部を、ひとつずつやる。
ルナと俺は、今は同じ方向を見ている。
その先でまた、違う道に分かれるかもしれない。
それでもいい。
そのときは、そのときの約束を作って、握手をすればいい。
俺は指を開き、掌の熱が夜気に逃げていくのを感じながら、目を閉じた。
遠くで、名を呼ぶ声がした。返事は聞こえない。けれど、音は杭になる。杭があれば、帰って来られる。
背筋の寒さをまっすぐ飲み込み、目を開ける。
明日の段取りを、心の中で並べた。
工具の位置を確かめ、歩き出す。
再会は甘くない。
甘くなくて、よかった。




