第17話 過去の自分への手紙
朝の空気は、金属を冷やしてから人の肌に降りてくる。工房の戸棚は夜のあいだにしっかり冷えて、取っ手に手を掛けると薄い痛みが走った。俺は戸を開け、最上段の奥に寝かせてある綴じ本を取り出す。表紙の革は角が柔らかくなり、糸の継ぎ目に十年分の手の跡が滲んでいる。ロイの字で題がある。「観察から始める修理」。
指で挟んで開くと、空白のページが現れた。黄ばみは薄く、紙はまだ息をしている。指先の油がすぐ吸われる。呼吸を整える。観察。仮説。分解。――違う、今日は修理じゃない。言葉を置く。過去の自分に渡すための、手順のような言葉を。
昨日の焚き火で聞いた少年の怒りの場所を、まずは紙に写す。父親は北の塔の再起動“予備儀”の準備で職場を外され、家に残っていた古い機械は「危険物」として没収された。規格が改まると、旧い暮らしが丸ごと危険になる。危険と安全の境目は、紙の上の線ひとつで変わる。少年はそこに怒っていた。父が怒鳴るのも、少年が黙って拳を握るのも、元は同じ場所から出ている。
俺はペン先を置く。
――失敗したあとに謝れ。謝る順番を間違えるな。言い訳より先に、触ったものを元の位置に戻し、残りの破片を拾ってから謝れ。
――謝ったら、次へ進め。次に進むとき、怒りを道具にするな。怒りは短い力だ。重いものは動くが、長い距離は歩けない。
――恐怖は設計に入れろ。恐怖は長い。長いものは、道筋の形を変える。
――「誰のために止めるか」「何のために動かすか」を紙に書け。迷ったら、紙を見る。声の大きさではなく、紙に残った線の濃さで決める。
ペンは止まらない。字は相変わらず下手だが、線は真っ直ぐに引けた。空白がゆっくり埋まっていく。ページを捲る。半分は十年前に俺が書いた震える字で、半分は今朝の落ち着いた字だ。同じ罫の上で、二つの時間が並ぶ。
工房の外で、戸を叩く音がした。早足の音と、遠くの井戸の滑車が軋む音。村はもう起きている。綴じ本を閉じ、布で包んで棚に戻す。表紙に指を乗せ、短く息を吐いた。
午前は講習会の日だ。集会所の広間には、粗い板机が二列並べてある。机の上に、俺が夜に書いた手順書を積んだ。大きい版は老人向けに字を太く、絵を多めに。ポケット版は若い親と子どもたちに。表紙には〈停止ピンの使い方〉とある。
人が集まる。子どもは最前列、若い親は後ろで抱っこ紐を揺らし、老人たちは自分の椅子ごと持ってきて列の隙間に腰を落ち着ける。空気は少し湿って、焦った匂いはない。
「今日は難しい話はしない」
俺は言う。
「かっこいい言葉も、いらない。止めるための棒の話だ。棒は、棒として使えばいい」
笑いが起き、肩が軽くなった。笑いは怖さをほぐす。笑いが出ると、手元を見にくる目が増える。
俺は手順書の一ページ目を開く。
「まずは観察。機械が騒いだとき、音の高さ、息の長さ、匂いを嗅ぐ。匂いは大事だ。焦げた匂いと、濡れた匂いと、空回りの匂いは全部違う。次に、仮説。止める前にも、どこを止めるか考える。止めるのは勇気がいるが、止め方を間違えると、勇気が嘘になる」
子どもが手を挙げる。
「先生、棒はどっち向きにさすの」
「いい質問だ。赤い印が上。印が見えなくなるまで差し込む。止まらなかったら、抜いて、もう一つの口を探す。慌てて叩かない。叩くのは最後。叩く前に、息」
老人が笑う。
「わしら、叩いてきたからのう」
「叩くと直ることもある。でも、その前にできることはある。叩くのは、それらを全部やってからだ」
若い親がメモを取り、子どもが棒を握る練習をする。小さな手でも入れられるように、口の形を大きめにしておいた。
「棒は、棒だ。装飾はない。かっこよくはない。けど、止まる」
「止まる」
子どもたちが復唱する。声が揃う。揃った声は、怖さをさらにほぐす。
講習が終わると、少年が入り口の陰で待っていた。昨日の怒りの手を持つ少年だ。
「先生、塔に行くの」
「行く。見に行く」
「やっつけて」
言葉は短いのに、熱がある。
「やっつけるために行くんじゃない。直すために行く」
少年は不満そうに眉を寄せ、すぐに少しだけほぐした。
「直らなかったら」
「そのときは、止める。止めるべきを、止められるところから止める」
少年はうなずき、喉の奥で何かを飲み込んだ。飲み込んだのはきっと、叫びだ。叫ぶ代わりに、手が動くように。彼の手が、糸になるように。
昼、工房に戻ると、女衆が干し肉と塩漬けの根菜を置いていった。紙に包まれた匂いが机に残る。俺は礼の言葉を紙に書いて、玄関に貼った。
午後は携行核の前に座る。名簿の画面を開く。村の人の名を仮登録する。名の固定ノードはまだ試験段階だ。けれど、小さな留め具を散らしておけば、再起動が来ても、誰かの存在がたしかに“ここにいた”と世界に残る。
名を入力するたびに、指の腹が熱くなる。ゆっくり打つ。間違えないように打つ。呼び名は家で違うことがあるので、呼ばれ方も併記する。全てを拾うことはできないが、拾えるだけ拾う。拾えない穴は、次の人が埋められるように空白の形を整えておく。
画面の隅に、古い文字列がかすかに光る。〈名固定 局所 保持〉。十年前の砂の夜、薄闇の中で見たのと同じ光だ。
休憩に屋根へ出る。風は涼しく、空は薄く白い。屋根の縁に座って村を見渡す。子どもが池の周りで走り、老人が椅子を日陰に運ぶ。遠くの畑で誰かが鍬を入れ、乾いた音が空へ飛ぶ。
工具袋を枕に寝そべる。目を閉じると、骨の内側で昔の音が戻ってくる。塔の唸り、砂の擦れる音、ルナの指先で奏でられた光糸の擦過音。
目を開けて空を見た。北の地平は霞んでいる。輪郭はなく、色だけが薄く光る。呼ばれているのか、俺が勝手に聞き取っているのか、どちらでもいい。道は、ひとまず北に伸びている。
夕方、集会所の片隅で〈停止ピン〉の互換口の点検をする。高さは子どもの肩の位置、色は目立ちすぎず、暗がりでも分かる。差し込み角度を示す小さな矢印は、年寄りが触っても剥がれない素材に替えた。
村の男が寄ってきて、唇を尖らせる。
「先生、これ、前のより格好悪いな」
「そうだね。格好よくなくていい」
「よくないのか」
「格好よさは、手が覚えたあとで勝手に付いてくる。先に必要なのは、間違えないことだ」
男は笑い、矢印を指で押して「取れない」と確認し、満足そうに去っていった。
笑いは、規格を生活の中に混ぜる油だ。笑いが一滴入ると、紙の上の線が動き出す。
夜、工房に戻って灯りを落とし、戸棚から綴じ本をもう一度取り出す。今日の書き足しの続きをする。手を洗い、指を拭き、紙の上に手の影を作らないように姿勢を変える。
ページの上部に、太い字で書く。
――恐怖を設計に組み込む。怒りを設計から外す。
文字は乱れず、紙は裂けない。ロイの整った字と、俺の雑な字が、罫に沿って並んだ。罫の裏に、十年前の自分の息がまだ残っている。今の息と重なる。
俺はさらに短い段落を足す。
――「止める」と「壊す」を区別しろ。止めるのは、次に動かすため。壊すのは、次に組み替えるため。どちらも終わりじゃない。
――謝る言葉に、次の手順を添えろ。「ごめん」と「次はこうする」をセットで言え。
――名を呼ぶとき、名の向こうにいる手の温度を思い出せ。名は記号じゃない。指の腹で触った体温の残りだ。
ペン先が乾く。軽く振って、また滑る。
窓の外で風が柵を鳴らし、遠くで犬が一度だけ吠える。村は眠る準備をしている。俺も準備をする。
携行核を出して、今日登録した名の一覧を眺める。ここにある名は、どれも“ここにいた”の印だ。今日、生まれた子の名は一番下に小さく入れた。字は細いが、光は強い。
机の引き出しから、古い鍵束を取り出す。工房の鍵だ。朝から心の中で何度か回していた言葉を、今度は声に変える時だ。
戸口に立つ少年は、もう待っていた。昼間より少し背が伸びたように見えるのは、覚悟が骨に入ったせいだろう。
「これを預かってくれるか」
鍵束を見せる。
「え……先生の、工房の」
「うん。俺がいないあいだ、ここは君たちの工房だ。誰かのポンプが止まったら、止める。止めるだけじゃなく、直す。直せないときは、止めたまま返す。止めて返すのは、負けじゃない。次の順番だからだ。いいか」
少年は鍵を受け取り、指の腹で重さを確かめるように何度か回した。
「先生、帰ってくるんだよね」
「帰る」
少年は頷き、口を開き、何か言いかけてやめ、代わりに鍵束を胸に押し当てた。
「重い」
「軽くしていい。分けてもいい。持てないと思ったら、誰かに持ってもらえ」
少年は笑い、笑った顔のまま目を赤くした。
「先生」
「なんだ」
「俺、手紙、書いてもいい?」
「書け」
「誰に」
「過去の自分に」
少年は少し考えてから、頷いた。
「書く」
「それを誰かに渡せ。渡したら、次の人の字になる」
少年はもう一度頷いた。鍵束の鈴が小さく鳴った。
夜更け、最後の荷をまとめる。工具は最低限。止めるもの、繋ぐもの、記録するもの。余計な刃物は置いていく。刃物は必要な場所で必ず手に入る。
背負い袋の底に綴じ本を入れる。角が擦れないよう布で包み、上に衣を重ねる。携行核は胸の位置。名は心臓の代わりだ。鼓動が弱くなったら、自分の名を一度呼ぶ。次に、誰かの名を呼ぶ。呼べば、線が見える。
灯りを落とし、工房の真ん中に立つ。十年のあいだにここで直したものの音が、目に見えない埃のように浮かんでいる。時計、羽音、ポンプ、釘。どれも小さく、どれも同じくらい大切な音だ。
扉に手を添え、木目のざらつきを指で感じる。出るときは、いつも同じ手順。戸の枠の隅に小さく打った印を確かめ、錠の舌の引っかかりを耳で測る。
戸を開ける。夜気が肩に乗り、皮膚がきゅっと縮む。空には薄い星が散っている。北側の地平が、遠くで白く瞬いた気がした。気のせいかもしれない。けれど、心は知っている。
呼ばれている。
俺は扉を閉め、鍵を内側から回してから、再び開けた。
鍵はもう、俺だけのものじゃない。
外に出て、扉を押し、戸車の音を小さくさせる。
振り返らない。振り返らなくていいように、今日、紙に残した。
村の柵の端に立ち、耳を澄ませる。風の向き。犬の息。遠い配管の細い水音。
すべてが、まだ続いている。
なら、行ける。
歩きながら、心の中で手紙の続きを書く。過去の自分へ。昨日の少年へ。明日の誰かへ。
――道は、誰かの手の中にある。道に迷ったら、誰かの手を見ろ。掴み癖のある手は、怒りの手。離す癖のある手は、諦めの手。支える癖のある手を探せ。支える癖は、移る。
――北へ行け。北が間違いでも、歩いた距離は残る。距離は、戻るときの道になる。
――名を呼べ。呼んだあと、耳をすませ。返事がなくても、呼んだ音は残る。音は杭になる。杭があれば、次の人が帰ってこられる。
夜風が背中を押す。足裏は確かだ。工具の重さは、軽い。積んだ年数は嘘をつかない。十年前に書けなかった一行を、今朝は書けた。それだけで、明日の一歩は前に出る。
村の灯が背に遠ざかる。柵の影が短くなり、砂混じりの路地が北へ延びる。
俺は肩の紐を一度締め直し、小さく笑って、歩幅を一定にした。
渡すための言葉は、紙の中で生きる。紙の外では、手が生きる。
手が生きている限り、世界は直せる。少しずつ。
過去の自分へ。――待っていろ。遅くなったが、今から行く。
今の自分へ。――焦るな。手順を守れ。恐怖を設計に入れろ。怒りは置いていけ。
明日の誰かへ。――鍵は、もう渡した。君の番だ。




