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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第16話 目覚めの村

 扉が開いたとき、世界は十年分、別の顔をしていた。

 あの夜、避難壕の膜を閉じたときと同じ冷たい空気が頬を撫でたのに、匂いが違う。砂の粉だけじゃない。湿った土の匂い、干した草の匂い、温くなった鉄の匂い。ここは砂漠の縁にある小さな村。名はない。地図にもほとんど載らない。けれど、朝になるたび、確実に目を覚ます場所だ。


 俺はこの村に流れ着いてから、ずっと同じことをしてきた。直す。生きるために必要なものから順に、壊れた箇所を見つけ、触れ、分解し、洗い、組み直し、調整し、試す。人の暮らしは、痛むところから治る。世界も、きっとそうだ。

 水の配管には、夜の冷えを使って結露を誘うための「息継ぎ」を二箇所入れた。配管の途中にわざと細くなる喉を作り、温度差が緩やかに起こるようにしておく。朝露のわずかな水でも器に集まるよう、管の勾配を指で確かめながら、何度も角度を直した。

 古い送電の節には、手の届く高さに〈停止ピン〉の互換口を新しく設けた。差し込めば必ず止まる。誰でも分かる。村の子どもでも、夜にうなる機械の前で立ち尽くすことなく、抜き差しで呼吸を整えられるように。町内規格にするための紙も作った。文字が苦手な人には絵で描いた。差し込む向き、抜くときの角度、戻し忘れを防ぐための赤い印。

 十年の間に、俺は“先生”と呼ばれるようになった。最初は照れたが、今ではちょうどいい重さだ。教えることは、渡すことだ。渡してしまえば、いつか自分がいなくても回り続く。それで世界は、少しだけ強くなる。


 その朝、工房の戸を叩く音がした。軽いが、急いている。

 扉を開けると、少年と少女が立っていた。兄妹に見える。兄の方は背が高く、肩の線が強い。妹は細く、顎に土の汚れ。二人とも汗で髪が張り付いている。

「先生、ポンプが止まらない」

 少年が言う。息は上がっているが、目の奥は冷静だ。

「止まらない、か」

「はい。夜の見回りの人が、別のポンプから音を聞いたって。うちの地下で、ずっと鳴ってる」

 俺は頷き、工具箱を肩にかけた。重さは十年で肩の骨に馴染んだ。

「行こう。止まらないものは、止められるところから止める」


 集会所の地下は涼しかった。石の階段に湿りが張り付き、手すりの金属が掌の熱を吸う。扉を開けると、湿った空気の塊が顔にかかった。鼻の奥が冷える。

 ポンプ室は狭い。壁は苔のような薄い皮膜で覆われ、モーターの胴が鈍い光を返している。音は低く、疲れた息の連続に似ていた。

 俺は、まず呼吸を整えた。観察。仮説。分解。洗浄。再組立。調整。テスト。ロイの七手順を、心の中で一つずつ置く。

 耳を近づけ、モーターのリズムを測る。回転は生きているのに、同期がずれている。吸い上げと吐き出しが半拍ずつ狂って、無駄にエネルギーを食っている。十年前に学都の塔で嗅いだ匂いだ。嫌な予感の前触れの、あの半拍のズレ。

 俺は少年に顎で合図した。「主系統を切る。三つ数えたら」

 少年はバルブに手を掛け、わずかに肩を固くした。

「一、二、三」

 バルブが回る。流れが細る。

 俺は少女に合図した。「補助を一瞬だけ活かす。今」

 少女は小さな手でスイッチに触れ、ぱちりと鳴らす。

 俺は〈停止ピン〉を互換口に差し込んだ。

 怯えたような唸りが、静かに、素直に萎んでいく。モーターが回転を落とし、最後の余熱が金属を通して指先を撫でる。

「止まった」

 少女が息を吐いた。

 俺は頷き、ピンを半分だけ残して、モーターの腹に耳を寄せる。まだどこかが揺れている。根の部分だ。

「完全には直してないよ」

 少年が首を傾げる。

「止めただけだ。これから、直す」

 俺はモーターの外皮を外し、内側の軸受けを露出させた。油は汚れて、粒が混じっている。古い砂。指で拭い、布で拾い、薄く、新しい油を差す。

 少年の手が、工具を握って固くなった。動きが直線的すぎる。怒りの手だ。俺は気づかないふりをした。修理の最中に心の蓋をこじ開けるのは、いい手順じゃない。

「軸の高さ、見てて」

「はい」

 少年の声が低く響く。

「目の高さじゃなく、耳で」

「耳」

「うん。目は嘘をつくことがある。耳は、嘘をつきにくい」

 少年が少し黙って、モーターの唸りに耳を傾けた。

「……下がってます」

「そうだね。じゃあ、下がった分だけ、上げよう」

 俺はスペーサーを薄いものに替え、軸をほんのわずかに持ち上げた。モーターの音が軽くなる。唸りが呼吸に変わる。

「補助、もう一度」

 少女がスイッチを押す。水が細く流れ、配管の内側で音が走る。

「主、ゆっくり戻して」

 少年がバルブを回す。

 流れは驚くほど素直に戻った。

 俺は〈停止ピン〉を抜き、ピン先の油を布で拭く。

「これで、今夜は眠れる」

 少女が笑った。

 少年は笑わない。けれど、肩の力が少しだけ抜けた。


 ポンプを閉じ、外に出ると、日が高くなっていた。石段の熱が靴底に移り、空気が乾いた。

 集会所の屋根に上がり、三人で腰を下ろした。屋根瓦の段差は尻に優しくないが、風はよく通る。村の中央には浅い溜め池があり、子どもが足を入れては悲鳴を上げ、笑い声が跳ねる。

 女衆が台所から顔を出し、手ぬぐいに包んだ保存食を手渡してくれた。干し肉、塩漬けの根菜、硬いパン。俺は礼を言い、少女にパンを渡す。

「先生」

 少年が言った。

 やっぱり、来る。

「昨日、北の塔から人が来ました。司祭、って呼ばれてた。再起動の儀を始めるって」

 俺はパンをかじるのをやめて、火の気のない空を見た。

 北の塔。司祭。再起動。

 胸の底で、古い音が鳴る。砂に埋まった記録塔の骨が、遠くから薄く共鳴したような気がした。

「どんな人だった」

「若い女の人。喋り方がきれいで、目を見られない感じ。いや、見られてるんですけど、目の奥に鏡があるみたいで」

 少年は言葉を探しながら、空を掴もうとする手つきで形を示す。

「わかる」

 俺は小さく笑って、喉の奥の乾きを誤魔化した。

 ルナ。

 名前を口に出すのは簡単だ。けれど、今はまだ、指の腹でそっと触れるだけにしておく。

「再起動で、何をするって」

「古い配管や塔の残骸から“名”を拾い上げるって。神様の言葉みたいに言ってました。名を呼ぶ練習をしろって。名を呼ぶ場所を作るって」

 少年の肩の硬さの意味が、少し見えた。

「それで、うちの親父が。昔の名を、もう呼びたくないって。呼ぶと、怒るんです。怒鳴って。だから、俺が代わりに集会所に行って」

 怒りの手だ。

 十年は、怒りの芯を柔らかくはしない。ただ、角を丸くして、切っ先が自分に向かないようにするくらいだ。

「君の手、いい手だよ」

 俺は言った。

「硬いけど、壊す手じゃない。直したい手だ」

 少年は答えず、空の向こうを見ていた。

 妹がパンを半分に割り、小さな声で言う。

「先生、うちの池、昔より減りが早いんです。カエルが卵を産んでも、真ん中まで届かないで干からびちゃって」

「見に行こう。午後に」


 昼過ぎ、池の周りの排水溝を開けた。土の匂いが強い。水は澄んでいるが、反対側の暗渠に小さなヒビが入っていた。わずかな漏れ。見落としやすい、静かな出血。

 俺は少女に手鏡を持たせ、暗渠の中に光を反射させてもらった。ヒビの筋が光の縁で浮き上がる。

「ここだ」

 泥をかき、藁と石灰と油を練った簡易の充填材を詰める。渇いたら縮む。縮んだ分だけ、上から薄い層を重ねる。三層目で、ようやくヒビが息をするのをやめた。

 息を止めるべきところで止める。

 夜に必ず止まる熱源を、夕方に一度だけ止める。

 止めるのは、壊すためじゃない。次に、動くためだ。

 俺は手を洗い、泥の匂いを嗅いで、十年前の砂の匂いと比べた。違う匂いだ。けれど、どちらも、暮らしの匂いだ。


 夕方、空の色が薄くなり、風が方向を変えた。屋根の上で三人で茶を啜る。少年の肩が少し落ち、妹の目の琥珀色が強く見えた。薄い琥珀。十年前、砂の塔の前で水の滴を見つめた妹の目と似ていた。血のつながりか、偶然か。どちらでもいい。点と点を結ぶ線は、たくさんあっていい。

 女衆が保存食をもう一包み持ってきて、「先生、夜は集まりに顔を出して」と言った。俺は頷く。

 十年前から、俺は“先生”と呼ばれてきた。名前で呼ばれるより、重さはある。けれど、悪くない重さだ。

「先生のいないところで、規格をいじられるのは怖いよ」

 女衆の一人が笑いながら言う。

「規格は現場の妥協だよ」

 俺は笑った。

「妥協は約束。約束は、優しさ」

 ルナが昔、横で小声で言った言葉を、今度は俺が口に出す。

 約束は、人がいる限り更新される。規格の改訂も、人の暮らしも。

 俺がいなくても動くように、今日も少しだけ作り替える。それで十分だ。


 夜、集会所の広間は、人の匂いで温かかった。焚き火の熱が柱に伝わり、天井の煤に薄い光の筋が走る。人々は輪になって座り、昼間の出来事や、誰かの畑の話や、子どもの笑い方の変化を話す。

 やがて、北の塔の話になった。

「司祭様は、やさしい声だったよ」

 年寄りが言う。

「けど、ちょっと怖かった。優しいのに、遠くてね」

「再起動で、村の名も守ってくれるのかな」

「名は守るもんじゃないよ、きっと」

 俺は口に出してしまってから、自分の言葉を聞き直した。

「使うもの。呼ぶもの。戻るための手すりだ」

 静かになった。火のはぜる音がこっそり響く。

 俺は言い足す。

「俺たちは、止めるべきを止めて、動かすべきを動かす。名はその間にある。誰かの名を呼ぶとき、呼ぶ人の手が、次の段に届くように」

 人々は頷いたり、頷かなかったりした。頷かない顔を責める気はない。十年は、それぞれの胸に別の地層を作る。地層の厚みが違えば、言葉の沈み方も違う。


 集まりのあと、少年が外で待っていた。

「先生」

 月は細く、風は冷たい。

「俺、北に行きたい」

 言葉は一気に出た。

「親父は止める。妹は泣く。けど、俺、見てみたい。司祭が何をしてるのか。名をどうするのか。もし嘘だったら、怒る。もし本当だったら、手伝う。俺、怒ってるんです。ずっと。わけわかんないことが起きたのに、俺、何もできなくて」

 怒りの手は、剣にも、糸にもなる。

 俺は彼の手を見てから、顔を見た。

「怒ってもいい。怒りは、方向だけ間違えなければ、いい燃料になる」

「方向」

「うん。怒りを人に投げると、遅れて自分に刺さる。怒りを手順に変えると、誰かの暮らしに熱が灯る」

 少年は黙って、拳を開いた。指の骨が光った。

「俺も、北に用があるかもしれない」

 俺は言った。

 胸の奥の薄い灯に、久しぶりに風が当たる。揺れるが、消えない。

「明日、旅支度を始めよう」

 少年は頷き、泣きそうな顔をして笑った。


 工房に戻る。戸を閉める。夜の静けさが、工具の影を濃くする。

 棚の一番奥から、十年前の携行核を取り出した。布で包んでいたが、角は擦れている。

 電源を入れると、弱い光が灯る。

 名のテーブルは、今も生きていた。

 〈名固定 局所 維持〉

 薄い文字が、十年の向こうからこちらを見る。

 ページをめくる。十年間の村の記録が、拙い字で埋まっている。

 新しい蛇口の位置。子どもの背丈の線。秋風の向きの変化。

 俺は空白のページを一枚開いた。

 今日の出来事を写し取る。

 ポンプの唸り。半拍のズレ。停止ピンの挿入。少年の手の硬さ。妹の琥珀色。

 北の塔。司祭。再起動。

 ページの隅に、小さく「北」と書く。

 字は曲がらない。

 線は、一度だけ震えて、それでもまっすぐに伸びた。


 灯りを落とし、工具箱の蓋に手を置く。

 十年分の傷が、手の平の線にうまく収まる。

 扉の外で、風が柵を鳴らした。

 十年分、別の顔をした世界が、明日の段取りを促す。

 旅支度は明日からでもいい。

 だが、心はもう、歩き始めている。

 止まり木は、村中に刺してきた。

 戻るための道は、名の杭で点々と続いている。

 俺は目を閉じ、薄く笑った。

 先生、と呼ばれる声が耳に残る。

 渡した手順が、明日もこの村で動く音がする。

 その音の確かさが、背中を押す。

 積んだ年数は嘘をつかない。

 なら、積んだ分だけ、遠くへ行ける。

 俺は工具の重みを確かめ、眠りに落ちた。

 目覚めの村は、もう、俺の出発点の顔をしていた。

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