第15話 世界が壊れる音
砂漠の朝は、静かに始まった。
記録塔の中は、夜の作業の熱がまだ残っている。端末列の冷光は薄く、中央槽のプレートの縁がときどき脈打つ。俺は仮眠から起き上がり、端末に触れる。名の固定アルゴリズムの局所試験は、夜明け前の四時に四つ成功、二つ保留。ルナは端末に頬を寄せるように眠っていて、リードは入口の陰で胸の紙を押さえたまま立っていた。
水を一口。喉が生き返る。
気配の微妙な変化に気づく。塔の唸りが、いつもより浅い。耳ではなく、骨で感じる低い音が、わずかに軽い。
母システムが、端末の隅で短く点滅した。
〈注意〉
文言は一拍置いてから続く。
〈局地的再起動 兆候検知〉
嫌な汗が出る。
俺はルナの肩にそっと触れた。「起きて」
彼女はすぐに目を開ける。眠気は深かったはずなのに、声が届く前から起きていたみたいに。
「来る?」
「分からない。確認する」
塔の外に出る準備をしながら、内部モニタの簡易地形図を開く。砂の下を通る配管系の一部に赤い脈が走っている。記録塔の基礎から北東へ、細い線が複数束になって伸び、途中で太くなっている。
母システムが文言を打ち込む。
〈局地的再起動。範囲外。同期対象外。注意〉
範囲外。塔の制御から外れた領域で、誰かが、何かが、再起動をかけている。
俺は携行核のステータスを確認し、名簿の差分バックアップを走らせた。リードに向かって短く命令する。
「避難誘導を優先。侵入者、迷子、要保護対象を影に集めろ。だが、必要なら逃げろ」
リードのレンズが一瞬だけ点滅し、胸の紙を押さえる。
〈任務更新〉
紙の文字は波打っているのに、命令はまっすぐ通る。
扉の膜をほどき、砂の光に目を細める。風は弱い。砂丘の肩がゆっくりと形を変え、遠い地平の線が揺れている。砂嵐ではない。
その揺れは、地面の下から来ていた。
最初は鼓膜を触らないほど微かな低音。
次に胸骨が共鳴するほどの重さ。
やがて、足裏を押し上げる粘り。
砂の平面に黒い帯が走り、長い蛇のように地平を割って進む。帯は配管の走向に沿っていて、表面の砂をわずかに跳ね上げ、帯の後ろに色の違う筋を残していく。
帯が、塔を一本、飲み込んだ。
音は最初、なかった。
塔は静かに傾き、骨組みが歪み、柱が曲がり、中腹が折れ、砂に沈む。
遅れて、押し寄せるような音圧。
胸が内側から叩かれ、肺の奥の空気が逆流する。世界が一度だけ息を止め、そして咳き込んだみたいな、荒い音。
「ケイ」
ルナの声が半歩高い。
「入る。搬出」
俺は頷き、装備を掴む。携行核、工具、名の差分。
塔の中は、すでに軋み始めていた。金属ではない骨の材が、乾いた悲鳴を上げ、床に伸びる縞の影が細く震えている。
母システムがまた表示する。
〈局地的再起動 連鎖。同期破綻 回避不能〉
回避不能。だから、今は減災だ。
止めるべきを、止められるところから止める。
端末群の前に立ち、優先順位を一気に並べ替える。
名簿、ログ、基礎アルゴリズム、名固定の雛形。
映像記録や実験の詳細は後回し。戻れるなら拾い直せるが、名は二度と拾えない。
ルナは光糸を高速で束ね、天井の亀裂の下に糸の膜を張る。落ちてくる破片をわずかに逸らすだけの角度。受け止めない。受け止めれば、糸が切れる。
リードは入口の陰から出て、塔の外に向けて短く警告音を鳴らし、迷いながら近づいてくる影を手招きするみたいに誘導する。
俺はコピーを走らせ、差し込みピンを三つ挿す。塔内の警告ループが過熱して通信帯域を食う前に、出力を強制的に絞る。
赤い点滅が一つ減り、別の点滅が大きくなる。
切った。切った音だ。
切る勇気。
夜にノートに書いた言葉が、骨の内側で少しだけ重さを増す。
梁が折れた。
鉄でないはずなのに、鉄の雨が降るような音がした。
影が滑り落ち、砂粒より重いものが空気を割り、俺の肩に鈍い衝撃が走る。
視界が白く弾け、呼吸が途切れ、膝が床に当たる。
ルナの声が近い。
「ケイ、起きて。起きて」
頬に手が触れる。温度。
「だめ。まだ、だめ」
俺は目をこじ開け、指で床の縁を掴んで身体を起こす。
痛みはある。けれど、手の動きを邪魔しきれない痛みだ。
工具。核。名のテーブル。
どれもまだここにある。
俺は立つ。立って、次を掴む。
崩落の波は一回では終わらなかった。
塔の側壁に走る亀裂が増え、天井の斜面が緩み、中腹がきしみ、床が軽く浮いて、すぐに戻る。その繰り返し。
俺は最後のコピーを走らせ、最終書き込みを待たずに中断した。完全性より可搬性。ここで死ねば、完璧なデータは砂の中に溶ける。
ルナが糸の束をひとつ切り替え、落下の角度をずらす。息が浅い。速度が限界に近いときの息の仕方だ。
「外へ」
俺が言い、彼女が頷く。
携行核を抱え、端末群から離れる。リードが入口で身を開き、盾になる。
最後の瞬間、塔の中央がひしゃげる音がした。
背中が風で押され、俺たちは外に飛び出した。
砂が目に入り、喉に粉が刺さり、地面が急に固くなる。転がる。
振り返ると、記録塔は中腹から折れ、骨を砂へ沈めていくところだった。
音はまた遅れて来た。
遠雷のような振動が、砂丘の肩から肩へ跳び、俺の胸の中で反響する。
世界が、咳き込む。
ルナがうずくまっていた。腹を押さえ、唇を噛む。
指の隙間から赤が滲む。
血だ。
赤は砂の上で薄く広がり、風に乗って形を変える。
俺は膝から砂に滑り込み、彼女の手をどけようとする。
「触らないで。痛い。でも、我慢できる」
声が震え、強がりの芯に本物の痛みがある。
俺は頷き、布を取り出し、圧迫の位置を探る。押さえれば息ができない。押さえなければ出る。
間を選ぶ。
圧を少しだけずらし、糸で仮固定。
リードが影を作るように身体を開き、砂の弾を受ける。金属の表面で粉が散り、小さな音を立てて消える。
母システムの声が遠い。
塔が折れたせいで、塔内の中継がいくつも沈んだのだろう。端末の携行核の表示は弱々しく点滅する。
〈通信低下〉
〈範囲外再起動 連鎖〉
〈名固定 局所 維持〉
最後の一行だけが、かろうじて読み取れる強さで光った。
名はまだ、抜け落ちていない。
それだけで、立つ理由が増える。
日が傾き、風が少し弱くなった。
俺はルナを抱え、最寄りの地下避難壕に向かう。砂丘の肩と肩の間を抜け、影の深さを見ながら足を運ぶ。リードが先に立ち、周囲の動きを警戒する。
避難壕の扉は砂に半分飲まれ、取っ手は錆びていた。
俺は潤滑油を差し、テコでこじる。金属ではないが、動きは金属のそれで、抵抗が抜ける瞬間に重さが一気に移る。
扉が息を吐くように開いた。
冷たい空気が顔を撫で、階段へと流れ落ちる。
ルナの呼吸が少し楽になる。
俺は彼女の肩を支え、段差を一つずつ降りる。
リードは入口に立ち、胸の紙を押さえ、視線を外へ向けたまま、半分だけこちらに身体を向ける。
「守れ」
俺が言うと、機械の脚が静かに頷いたように見えた。
避難壕は広くはないが、空気は冷えていて、壁は乾いている。古い備蓄箱がいくつか積み上げられ、ランプの残り火がかすかに光る。
扉を閉める。膜が重なり、外の音が遮られる。
世界の咳き込みが遠くなり、自分の鼓動だけが耳の奥に残る。
俺は床に座り込み、背を壁につけ、ルナの手を握った。
彼女は目を開け、弱く笑う。
「生きてる」
「生きてる」
短い言葉が壕の中で跳ね返り、すぐに落ち着く。
応急手当を続ける。
圧迫の位置を微調整し、布を清潔な部分に替え、熱源を遠くに置いて、身体を冷やしすぎないように距離を取る。
水は結露で少しずつ増える。器の縁に一滴、二滴。待つ時間が長いほど、落ちる音が大きく聞こえる。
携行核を点検し、名のテーブルの整合性を確認する。いくつかの参照が欠けている。塔が折れた瞬間に切れたリンクだ。
保全中のデータと名の固定の印を照合し、片方だけ残っているものには仮の杭を打つ。戻るための目印。
ログの点滅が弱く、目が痛くなる。
俺は目を閉じ、耳で確認する。機械のうなり、遠い砂の音、ルナの呼吸、自分の鼓動。
どれも途切れていない。
それだけで、次の手順が書ける。
暗闇で、俺はひとり静かに泣いた。
声は出ない。
涙は熱い。
頬を伝って顎で冷え、布に吸われる。
泣いているのに、手は止まらない。
明日の手順を考える。
応急手当。食料。水。通信。名のバックアップ。リードの点検。入口の補強。
足りない部品の代替案。
名の固定の次の試験箇所。
泣きながら、手を動かす準備をする。
線を引く。
線は震えない。
震えるべきは、胸の奥の方だけでいい。
手は、正しい順番で動く。
ルナが手を握り返した。
弱いけれど、意図があった。
目を開けると、彼女はうすく笑っていた。
「わたし、あなたを助けるために作られた。でも今は、あなたがわたしを助けてる」
「交互でいい。順番は変えられる」
「次の順番、あなたの方」
冗談を言う余裕が、少し戻っていた。
俺はうなずき、涙を袖で拭く。
「すぐ戻る。薬を探す」
「行かないで」
小さな声。
「戻るから」
彼女は目を閉じ、短く頷いた。
指先の熱が、まだ生きている。
その温度を手のひらで覚え直す。
扉の向こうで、世界がもう一度咳き込む。
記録塔の呼吸は消え、砂漠の夜は深い。
母システムの声は遠いが、消えてはいない。
〈名固定 局所 維持〉
薄い光が一点だけ、壕の壁を照らす。
そこを見て、俺は小さく息を吐く。
ここで死ねない。
ここで止まれない。
止まり木は、名に刺した。
帰り道は、まだ遠い。
でも、道はある。
俺は携行核を抱き、目を閉じる。
眠りが来る前に、明日の目次を頭の中で並べ直す。
一、ルナの手当の続き。
二、結露装置の増設。
三、入口の補強。
四、通信の再試験。
五、名の照合と杭の点検。
六、リードの命令の更新。
七、泣く時間を五分。
八、手を動かす時間を、それ以外全部。
世界が壊れる音は、思っていたより静かだった。
静寂の方が大きいからだ。
扉が閉まったあとの静寂は、音の形をくっきり浮かび上がらせる。
涙の落ちる音、布が擦れる音、携行核の点滅の微かなクリック。
それらを拾い上げる余裕がまだある。
なら、俺は大丈夫だ。
俺は小さくうなずき、目を閉じた。
暗闇の中に、名の杭の位置を思い描く。
一本ずつ、点をなぞる。
指は震えない。
震えるべきときに震え、止めるべきときに止め、動くべきときに動く。
そういう手を、俺は、持っている。




