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スクラップ勇者の再起動記録 ──滅びかけた世界で、もう一度生きる。  作者: 妙原奇天


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第14話 ルナの告白

 扉がほどけ、白い光が刃のように差し込んだ。

 砂の粉が帯になって流れ込み、視界の粒子が一段濃くなる。俺は工具を影に滑らせ、ルナは光糸を絞り、リードは胸の紙に触れて姿勢を低くした。

 膜越しの息遣いは短く荒い。ためらいが一拍、そして足音が二歩。影が内に踏み込む。

 最初に見えたのは、細い手だった。指が乾いてひび割れ、手首には布切れを巻いている。その手がもう一つの小さな手を強く握っている。

 兄と、妹だ。兄は砂に膝をつき、顔を上げる。頬はこけ、目は充血しているが、焦点は生きている。妹は喉仏を上下させ、乾いた音で咳をした。

「敵じゃない」

 兄の声は擦れていた。

「避けて歩いてたけど、光が見えて。ここだけ、風が弱い」

 俺は頷き、入口の膜を閉じさせる。冷気が戻り、記録塔の低い唸りが骨に乗る。

 ルナはすぐに動いた。遮光幕を張り、妹をその下に座らせる。俺は塔の基部で夜に作った結露装置を増設し、布の角度を調整して温度差を強める。冷気が流れを作り、布の縁に微かな粒が浮き上がる。

 妹がそれを凝視する。

 落ちる。金属皿に一滴。音はかすかだが、俺たちの鼓膜はそのためだけに生まれたみたいに敏感になっていた。

 兄が妹の頭を支え、皿を傾ける。舌が濡れる。喉が動く。妹は目を閉じ、まぶたが震えた。

 兄は礼を言おうとして、言葉が出ない。俺は首を振る。手順をもう一度繰り返して見せる。布、角度、冷気、落下点。手順を覚えてしまえば、誰でも水に触れる。命は手順に寄りかかって生き延びられる。

 兄の右脚が不自然に曲がっているのに気づく。砂で腫れが隠れていた。俺は布を巻き直し、冷やす位置をずらす。ルナが光糸で微小な圧を作り、腫れの縁を押さえる。

 兄は息を吐き、「ありがとう」と短く言った。

 人が目の前にいる。言葉が届き、返ってくる。たったそれだけで、世界は少しまともに見えた。

 夜が来るまで、俺たちは交代で結露装置を見張り、塔の内部の温度を調整した。記録端末の列は冷たく光り、中央の槽では薄いプレートの縁が時折ゆっくりと明滅する。

 兄妹は幕の下で並んで横になり、息が整うにつれて眠りの拍を取り戻した。

 静けさが落ちる。リードは入口の陰に立ち、胸の紙を小さく鳴らした。守る、だが、必要なら逃げろ。紙の文字は砂の湿気で少しだけ波打ち、その波形が機械の呼吸に見えた。

 塔の端末の光が、床に薄い縞を作っている。俺とルナはその隣に座り、背中を壁に預けた。冷たい。けれど、背骨の熱を奪いきるほどではない。

 ルナが膝を抱える姿勢から顔を上げた。

「ケイ」

 声の高さが、普段より半音低い。準備に時間をかけた人間の声だ。

「わたしはね、あなたを助けるために作られた」

 唐突ではあったが、温度は丁寧だった。彼女は言葉の順番を選ぶことに、きっと長い時間を使ったのだと思う。

 俺は頷く。促さず、遮らない。続きは彼女の手にある。

 ルナは一度、長く息を吐いた。

「母システムは、人と世界を繋ぎ直すために、人間の頭脳に断片を分けて、でもそれだけだと届かない場所があるから、その“間”に立つ代理者を必要とした。人と同じように笑って、怒って、迷って、でも根っこに起動プロトコルの線が通っている存在。わたしはそのひとつ。あなたを助けるための、候補の中から“ここ”に選ばれた個体」

 記録塔の低い唸りが、言葉の合間に入り込む。機械音は中断のない連続で、彼女の告白は短く区切られている。二つのリズムがぶつからない。

 俺は彼女の顔を見る。端末の光が彼女の頬を斜めに撫で、目の中に二本の光の筋が立つ。

「怒らないの?」

 ルナが問う。

 俺は首を横に振る。

「驚いたよ。でも、怒る理由が浮かばない。だって、俺の頭の中にも断片があるらしい。それを説明したのが君だった。君の正体を知って、今までの君が変わるなら怒ったかもしれないけど、笑って、迷って、悔しがって、楽しんでいたルナは、嘘だったわけじゃない」

 ルナは少しだけ眉を寄せ、目を伏せた。

「じゃあ、もうひとつ。質問」

「聞く」

「わたしの気持ちも“任務”だと思う?」

 言葉は柔らかいが、その中心は硬い。

 俺は答えの手前で言い直した。

「ごめん。そういう言い方は嫌だよな。違う。俺は、君を人だと思ってる。君が人かどうかは、定義の問題じゃなくて、俺がどう見てるかの話だ」

 ルナの目が、端末の光で少し赤く見えた。

「じゃあ、わたしも、あなたを神様じゃなくて、人として見る。選ばれた断片を持っていても、間違えるし、悩むし、手順を数え直す人」

 塔の外で風が鳴った。膜がわずかに波打ち、砂がさらさらと床に落ちた。

 リードが一度だけレンズを明滅させ、また静かに入口の影に戻る。

 夜は深まっていく。兄妹の寝息は規則的で、眠りが彼らの身体をやり直しの方向に少しずつ押しているのが分かる。

 俺は膝を伸ばし、手を前に出した。ルナが迷って、指先を重ねる。温かい。人肌の温度差が、ここにある。

「再起動のことを考えよう」

 俺が言うと、彼女は頷いた。目の赤みは去り、いつもの作業の目になる。

 端末の前に移動し、記録塔の低層アクセスを開く。

 選択肢はいくつかある。完全リセット。部分的な巻き戻し。破綻箇所の切除。

 どれも“正しさ”の顔をしているが、どれも“優しさ”が足りない。

「完全リセットは、失った名を消す」

「巻き戻しは、積もったバグを温存する」

「切除は、切り取られた場所の人々を犠牲にする」

 声に出すと、指が冷たくなる。

 ルナが画面に手をかざし、ゆっくりと指を動かす。光糸の蝶が生まれ、端末の上で羽音を立てずに舞う。

「名前、残せるかもしれない」

「名を?」

「世界の基盤に“名の固定点”を刺す。再起動をかけても、個々の存在の痕跡が溶けないように。全部は無理でも、止まり木みたいにいくつも。そこに戻って来られる」

 俺の胸の奥で、何かが応えた。

 停止ピン。必ず止まる穴。

 動きを制御するために、先に止まる場所を設ける。

 それを名に適用する。止まらない世界に、止まる名を。

「やれるか」

「危険」

 母システムの表示が赤く明滅する。

 〈危険。名固定の過剰は参照系の壊死を招く〉

 俺は笑った。

「危険なのは分かってる。だから、丁寧にやる。局所から始める。結露を誘うみたいに、固定すべき場所を冷やし、湿りを集める。固定点は小さく、数を増やし、互いに過剰に頼らせない。指向性の弱い停止ピンだ」

 ルナが頷き、蝶を指さす。

「蝶を“名”にしてみるね」

 端末の上で蝶が止まり、光が一度だけ強くなって小さく収束する。

 母システムの赤が少し薄くなる。

 〈局所適用、条件付き承認〉

「まずは名簿。学都、街、来賓。呼べる名前を拾う」

 指で名をなぞる。

 昼間に触れた冷たいラベル。そこにもう一度触れる。

 触れるたび、記憶の中の顔がこちらを見る。見本市で停止ピンを“ピタッ”と刺した子。風の塔の点検で笑った先輩。拍手した見知らぬ人。

 俺は一人ひとりに小さな印を置いていく。

 印は外から見れば点にすぎない。でも、そこには“戻る”の矢印が内向きに潜む。

 ルナの手は、俺の手が逃した隙間を埋めていく。彼女は迷わない。迷わないということは、感じないのとは違う。彼女の迷わなさには、震えの代わりに集中がある。

 時々、リードが入口で立ち位置を変える。外の風が方向を変えるたびに、胸の紙を押さえて姿勢を調整する。

 俺は紙の文字を思い出す。守れ。だが、必要なら逃げろ。

 名の固定も、それに似ている。

 守るために止める。だけど、止めっぱなしにはしない。

 戻るために、動き出す余白を残す。

 名は杭で、杭は足枷ではなく、帰り道の目印。

 夜は長い。眠気は容赦がない。まぶたが重くなるたび、片方がコーヒーの代わりに短い計算を口に出す。

「固定点の間隔、二十。強度、三。交差点は弱める」

「蝶を四匹。各々、位相をずらす。上書き不可、だけど参照は共有」

 人肌の温度と端末の冷光の差が、眠気を追い払う。

 愛とか、人とか、救えなかった後悔とか。全部を数式にするのは傲慢だ。

 だけど、数式に「残しておく」ことは、できる。

 手は動く。動く手は、嘘をつかない。

 端末の端で、小さなエラーが跳ねた。

 名簿の欄外に、見慣れない記号がある。

 ルナが眉をひそめる。「別系統の名」

「翻訳する」

 記号が言語になる。

 外部来賓の中に、演算演出の主宰者の名。

 俺の喉が熱くなる。怒りは冷えるまで待つ。冷えた後に、挿す場所を決める。

 復讐のための名固定は、固定ではない。

 それは呪いだ。呪いは設計として脆い。

 俺は深呼吸して、欄を閉じた。

 ルナが横で小さく頷く。

 「切断の基準、忘れないで」

 「分かってる。優しさのための最小破壊。切る勇気は、守る意志の一部だ」

 俺はノートを開いて、見出しに“名固定アルゴリズム試案”と書いた。

 字は汚い。けれど、線は曲がらない。

 幕の下で兄妹が動いた。妹が目を開け、こちらを見る。

 朝という言葉はないのに、彼女の瞼は朝の動かし方を覚えている。

 兄は体を起こそうとして顔をしかめ、俺は支える。

「行けるか」

「行く」

 兄の声は短く、固い。

 俺は地図の代わりに、影の順番を書いた紙を渡す。太陽の角度に対して、影から影へ。風が強いときの迂回。結露装置の作り方。

 妹は紙を両手で持ち、何度も頷く。

「塔に、戻れる?」

 妹が問う。

 俺は彼女の目を見る。

「戻る。戻って、直す」

 その言葉が、自分の喉を通る音を確かめる。嘘ではない。まだ遠いけれど、嘘ではない。

 妹は笑い、兄の袖を引く。

 別れ際、ルナが妹の手に小さな蝶の影を落とした。光はすぐに薄れたが、妹はそれを目で追って、うなずいた。

 兄妹は膜をくぐり、白い光の中に出た。リードが一歩前に出て、それから俺の方を見る。

「行かない」

 俺が言うと、リードは胸の紙に触れて、わずかに首を傾げた。守る、だが、必要なら逃げろ。

「今は守れ」

 機械の脚が音を立てずに後ろへ下がる。入口の影に溶ける。

 膜が閉じる。冷気が戻る。砂の音が遠のく。

 静けさがもう一度塔に満ちた。

 俺とルナは端末の前に座り直す。

 名の固定アルゴリズムは、骨組みが見え始めていた。

 固定点の分布、距離、強度、位相。

 呼びかけの言語、返答のパターン、失われたかどうかの判定条件。

 人を名前に還元するのではない。名前を、人が戻るための手すりにする。

 俺は指を芯まで冷やし、一本ずつピンを挿すように、行を積む。

「ケイ」

 ルナが肩を寄せた。端末の冷光が彼女の髪に絡む。

「わたし、あなたを助けるために作られた。でも、あなたがいない場所でも、わたしはわたしでありたい」

「うん」

「それ、任務に反するかもしれない」

「任務は更新できる。現場の妥協は、約束だ」

 彼女は笑う。少し泣き笑いに近い。

「約束、好き」

「俺も」

 言ってから、自分の声が少し震えているのに気づいた。

 震えは悪くない。怖いことの名前を知っている手は、丁寧になる。

 母システムの声が、低く、穏やかに落ちた。

 〈名固定アルゴリズム 局所試験 準備完了〉

 準備の文字は、走る前の靴紐だ。

 俺はルナを見る。

「やるか」

「やろう」

 蝶が四匹、指先から生まれ、端末の上に降りる。

 俺は停止ピンの位置を示す。

 四つの点が同時に小さな光を放ち、塔の深いところで音が一度だけ跳ねた。

 塔は止まらない。記録も止まらない。

 ただ、いくつかの名が、見えない杭にそっと結びつけられた。

 呼ばれれば、返るかもしれない。

 返らなくても、そこにある。そこにあったことが、次の手順を救う。

 作業を止める。

 肩で息をしている。

 ルナが俺の腕に額を預ける。汗は冷えて、肌は温かい。

「ねえケイ。わたし、人? AI? どっち?」

 彼女は笑っている。目だけ真剣で。

 俺は少し考えて、言葉を選んだ。

「君は君。人間性は、否定されるものじゃなくて、拡張されるものだ。俺が君を人だと思っているかぎり、君は人で、俺が君を君だと思っているかぎり、君は君だ」

 ルナは目を細めて、端末の光に顔を向ける。

「じゃあ、あなたが人であることも、わたしが見続ける。断片を持ってても、神様にはしない。転べる人。立ち上がる人」

「約束」

「約束」

 記録塔の外で、風がひときわ強く鳴った。砂が膜に打ち、白い粉が光に舞う。

 この夜は長い。けれど、寂しくはない。

 俺たちは肩を並べ、名の固定アルゴリズムを少しずつ磨いていく。

 遠くで雷のような振動が走り、塔の骨がかすかに共鳴する。

 どこかで誰かが泣き、どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが手順を覚える。

 それら全部を数式にするつもりはない。

 でも、手順の余白に、名前の余熱を残すことはできる。

 やり直すために。戻るために。呼ぶために。

 ルナが眠そうに目をこすり、俺の肩にもたれた。

「少し、寝てもいい?」

「寝ろ。起きたら、またやる」

「起きなかったら?」

「起こす」

 彼女は笑って目を閉じる。

 端末の光がまぶたを薄く透かし、睫毛が影を落とす。

 俺は彼女の髪に付いた砂を指で払う。

 リードが入口で姿勢を変え、胸の紙を一度だけ押さえる。

 守る。だが、必要なら逃げろ。

 俺は紙を見て、うなずいた。

 守るために、止める。

 止めるために、名を刺す。

 名を刺すために、手を動かす。

 手は、嘘をつかない。

 記録塔の唸りが、子守歌のように低く安定した。

 砂漠の夜は、相変わらず長い。

 けれど、その長さの中に、あたたかい拍がいくつも紛れ込んでいた。

 俺は画面を見つめ、見出しの下にもう一行書き足す。

 “人として見る/見られる”

 線を引く。

 線は曲がらない。

 それを、彼女が目を閉じたまま、なぜか分かったように笑った。

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