第11話 転送事故
朝の塔は、いつもより少しだけざわついていた。
空は曇り、風は湿っている。光のラインが塔の外壁を伝い、脈動の周期がどこか不安定だった。
俺は計測値を見て眉を寄せた。数値上の誤差は微小だが、呼吸のようなリズムがずれている。ほんのわずかに。
同期ズレ、だ。
講義開始前、俺は報告書をまとめて講師の端末に転送した。
「微細な同期ずれが拡大しています。早期の点検を推奨」
講師は目を通し、軽くため息をつく。
「君の観察力は信頼している。だが今日は式典だ。上層部が来賓を呼んでいる。今、止めるのは難しい」
つまり、俺の報告は“聞いた”だけで終わる。
分かっていた。それでも言わずにはいられなかった。
廊下に戻ると、ルナが壁にもたれて待っていた。
「また何か、見えたんでしょ」
俺は頷く。「ほんのわずかだ。でも、嫌な感じがする」
ルナは笑って、指先に光の蝶を浮かせた。
「じゃあ、私が見張っておく。あなたは講堂で座ってて」
「……お前はどうして、そんなに楽観的なんだ」
「楽観じゃないよ。私たち、できることは全部やってる。だから今は“信じる時間”」
俺は黙り、ポケットの中で〈停止ピン〉を握りしめた。
止めるための道具。だが、世界全体を止められるわけじゃない。
正午。塔の講堂は、光で満ちていた。
来賓、講師、学生、市民。百を超える視線が上層を仰ぎ見る。
天井に、七つの転送リングが重なり、薄い青の光を放っている。これが学都の象徴――大規模転送式のデモ。
「今日、この学都は新しい時代に入る!」
講師の声に、歓声が重なる。
俺の喉は渇いていた。手の中のピンが汗で滑りそうになる。
ルナは隣で目を閉じ、小さく呟いた。「綺麗……」
そう言った次の瞬間、音が消えた。
ほんの一拍。
鐘も、人の声も、足音も。
空気が、凍ったように静まった。
そして――轟音。
耳を裂くような破砕音が、世界を押し潰す。
上層のリングが歪み、火花が吹き出し、天井の構造材が悲鳴を上げる。
塔の中心が白く光り、その光が裂けて闇が覗く。
誰かが叫んだ。誰の声かも分からない。
「同期破綻だ!」
その言葉が合図だったように、光の輪は崩れ落ち、講堂の床を突き抜けて下層へと突き刺さる。
逃げ惑う人の波。俺は走った。
〈停止ピン〉を抜く。
緊急回路に挿し込もうとしたが、スケールが違う。
小さなピンでは、塔の制御に届かない。
指先が震える。ピンが滑り、床に転がる。
光が閃き、足元が軋む。
「ケイ!」
ルナが俺の腕を掴み、引き倒す。直後、頭上を巨大な梁が落ち、床を粉砕した。
熱と光の雨。塔が悲鳴を上げる。
「下層の子どもたち!」
ルナの叫びで我に返る。
避難矢印が乱れている。指示が反転し、人の流れが衝突していた。
俺は端末を起動し、上書きコードを打つ。
“北→南 通路優先”“東→閉鎖”
矢印が正しい方向へ切り替わり、混乱の中に一筋の道が生まれる。
ルナは光糸を展開し、上から落ちてくる破片を弾く。
その姿は、まるで炎の中で踊る蝶のようだった。
「母システム、応答を!」
通信に返ってきたのは、冷たい機械の声だった。
〈同期破綻。転送先、未定〉
「未定? どういう意味だ」
〈塔の座標、崩壊。転送プロセス、暴走中〉
「止めろ!」
〈停止権限、喪失〉
床がうねるように揺れた。
光が走り、空気が吸い込まれる。
人々の悲鳴が遠ざかり、空が反転する。
俺はルナの手を掴んだ。
「離すな!」
「怖がっていいよ。でも手は離さないで」
ルナの声が、風の中に溶けていく。
視界が白に染まり、耳鳴りが鼓動を飲み込み、身体が宙に放り出された。
――落ちる。
風が痛い。
時間の感覚が削ぎ落とされ、ただ圧だけが残る。
ルナの手が、俺の手を強く握っていた。
その温度が、世界の唯一の証拠だった。
俺は、どこかで笑った気がする。
これが終わりなら、せめて手だけは離さない。
白光が砕け、暗転した。
*
目を開けた。
空が白い。
いや、空なのか分からない。太陽はない。けれど光はある。
熱い。乾いている。風が砂を巻き上げ、皮膚を刺す。
喉が焼ける。
俺は上体を起こし、咳をした。
砂の味が口に広がる。
「……ルナ」
声を出すと、近くで動く気配がした。
ルナが仰向けに寝転がっていて、砂まみれの髪が光を反射していた。
彼女は目を開け、ゆっくり息を吸う。
「生きてる。たぶん、ね」
「ここは……」
見渡す限り、砂。波打つ砂丘。遠くに黒い骨のような構造物。
塔は、どこにもない。
学都も、街の光も、鐘の音も。
俺たちは、別の場所に落ちた。
立ち上がろうとした瞬間、足がもつれた。
視界がぐらつく。頭が痛い。
転送の副作用か。空気が薄い。
ルナが俺の腕を取って支える。
「無理しない。呼吸、合わせて」
彼女の声が近い。砂の匂いと、彼女の体温が混ざる。
しばらくして、ようやく立てた。
「どこかに日陰を探そう。昼が続いてるみたいだ」
ルナが指さしたのは、遠くの黒い構造物――骨のような枯れた塔。
「行けるか」
「行くしかない」
足元を確かめながら歩く。砂は柔らかく、足を取る。
水筒も食糧もない。端末はノイズを吐いている。
通信なし。位置情報なし。
唯一動くのは、俺のポケットの中の〈停止ピン〉だった。
小さな金属の棒。俺はそれを取り出し、眺める。
止めるための道具。
だが今、止まるべき“システム”そのものが消えている。
笑うしかなかった。
ルナが首を傾げる。「どうしたの?」
「いや。止める相手がいないのに、ピンだけ残った」
「いいじゃない。いつかまた、何かを止める時が来るよ」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
黒い構造物に近づくにつれ、形が見えてきた。
塔の残骸だ。だが金属ではなく、石と骨が混ざったような素材。
古代の遺跡か、それとも――ここも塔の一部なのか。
風が鳴り、どこかで機械の軋みのような音がする。
生きている、と思った。
ルナが壁に触れ、光糸を展開した。
「構造データを読めるかも……でも形式が違う。信号が跳ね返る」
「俺の端末でも同じだ。通信プロトコルが一致しない」
「じゃあ、ここは“別の塔”なんだね」
彼女の声が乾いた空に溶ける。
俺たちは見知らぬ世界に立っている。
塔は崩れ、街は失われ、帰る手段もない。
それでも、風は吹いていた。
砂の流れが塔の影を削り、遠くの地平をぼかしていく。
ルナが目を細めた。
「この世界、息をしてる」
「……ああ」
「なら、私たちも息をしていられる」
彼女の言葉が、風の音に混じって消える。
俺は工具袋を肩に掛け、残骸の中を見渡した。
梁の隙間に影があり、風を避けられる。
「ここを拠点にしよう。当面の避難場所だ」
ルナは頷き、布切れを敷く。
俺はその上に座り、息を整えた。
遠くで雷のような音がした。いや、違う。地鳴りだ。
この世界も安定していない。
転送の衝撃が地層にまで及んだのかもしれない。
夕方。
空の色は変わらないが、温度が下がり始めた。
風が弱まり、砂丘の向こうに赤い光が滲む。
ルナが手のひらに小さな蝶を灯す。
光は砂に反射し、淡い金の粒を散らす。
「ねえ、ケイ」
「なんだ」
「私たち、生き残った理由、あると思う?」
「……分からない」
「でも、きっと何かを“直すため”なんだよね」
ルナの声は穏やかで、どこか寂しげだった。
俺は答えられなかった。
直すために生き残った――そう言われると、胸が締めつけられる。
塔を、街を、みんなを救えなかった自分が、生きている理由を。
探さなければならない。
俺は膝の上のピンを見つめ、握りしめた。
止まるべきものを、止めるために。
そして、動くべきものを、もう一度動かすために。
風が吹く。
砂が舞う。
世界が、息を吹き返すような音を立てた。
俺は目を閉じ、耳を澄ませる。
遠くで、微かに何かの歌のようなものが聞こえた。
ルナが顔を上げ、「聞こえる?」と囁く。
「……ああ」
「塔の残響か、それとも……」
答えは風の中にあった。
俺は立ち上がり、視線を遠くへ向けた。
白い空の向こう、黒い塔の群れが揺れている。
その中心に、光が瞬いた気がした。
生き延びた意味は、きっとあの向こうにある。
俺は工具袋を締め、足を踏み出す。
ルナが後ろから笑う。
「ねえケイ、怖い?」
「怖いよ」
「じゃあ、大丈夫」
「どうして」
「怖がってる間は、止まらないから」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
俺は振り返らずに言った。
「行こう。壊れたものを、直しに」
砂漠の風が二人の足跡をすぐに消していく。
けれど、歩みの先には、確かに新しい世界があった。




