想い
陽翔は女性の顔をまともに見られず、手の中でトレイをぎゅっと握った。
「……あの、ごめんなさい!今の、訳わかんないですよね……?」
「いいえ……」
女性は小さく首を振った。
その瞳には少しの安堵が混ざっている。
「“見守ってる”……って。そう言われると、不思議と嫌じゃない気がして……」
俺が感じたあの感覚――「心配」「置いていけない」という想い。
あれは確かに、どこか温かく、怨念のような冷たさではなかった。
どうすれば良いのか分からず、助けを求めて翠を見る。
仕方ないと言いたげな表情で、ゆっくりと立ち上がり、翠は女性の向かいに腰を下ろした。
「一つ伺います。……ここ数年で、親しい方を亡くされた経験はありませんか?」
「……!」
女性は驚き、そして俯いた。
「……はい。幼馴染が……事故で」
カップを握る指がかすかに震える。
翠は静かに頷いた。
「なるほど。おそらく、その方の想いが“怪異”となり、あなたのそばにいるのでしょう」
「そ、そんな……」
女性の声が揺れる。
「じゃあ、ずっと私のことを……?」
「……そんな……。でも……」
にわかには信じがたいといった表情だ。
その時、俺の胸にふっとあの感覚が流れ込んできた。
――夕暮れの校舎裏。
体育祭の帰り道、ペットボトルのスポーツドリンクを差し出す少年の姿。
『甘いの嫌いだろ?交換しよう。俺が代わりに飲んでやるよ』
笑いながら、残りを一口で飲み干す彼の声。
俺は思わず口を開いていた。
「“甘いの嫌いだろ?俺が代わりに飲んでやる”」
女性の瞳が大きく見開かれる。
「彼がいつも――」
声が震え、両手で口元を押さえる。
さらに別の断片が重なった。
――試験勉強の夜、机に並んだノート。
落書きのように描かれた彼の字。
『一緒の大学に行こうな!』
照れくさそうな笑み。
「……“一緒の大学に行こう”ってノートにメモが……」
陽翔の呟きを聞いた女性は、もう涙を隠せなかった。
翠はそっと頷き、静かに告げる。
「もう、疑う必要はないでしょう。――彼は、今もあなたの傍で“見守っている”のです」
女性は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
その姿に、俺の胸の奥でまた光が揺らいだ。
流れ込んでくる感情を、勇気を振り絞って言葉に変えた。
「……彼は、“お前のことが心配だ”」
「“いつも笑っていてほしい”って」
胸に刺さるあの感情は、大切な人を想う優しさだった。
女性は涙を拭い、震える唇に笑みを浮かべた。
「やっぱり、彼だ……」
翠は彼女に語りかける。
「彼の想いが伝わったところで、そろそろ彼を自由にしてあげませんか?」
「そんなことが…できるんですか…!」
「――では、私がそのお手伝いをさせていただきます」
雅臣が低く呟きながら指を組み、静かに印を結ぶ。
淡い光が広がり、店内の空気が柔らかく震えた。
やがて、女性の背後に影が形を成す。
記憶の断片で見た、彼の面影を宿したその姿が、優しく微笑んでいた。
「……っ、やっぱり……!心配かけてごめんね…私もう大丈夫だよ…!」
「いつも見守ってくれてありがとう!」
女性の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
彼は彼女に向って笑顔で手を振り、やがて光の粒へと溶けていった。
その瞬間、店内を満たしていた何かがすっとほどけ、心地よい静寂が訪れた。
女性は涙を拭い、深く息を吐いた。
「……なんだか、不思議なくらい心が軽いです」
まだ戸惑いを残しながらも、その表情には確かに笑みが戻っていた。
翠がそっと寄り添いながら
「大切なのは“笑顔”で生きること。それが、彼の望んだことです」
女性は深々と頭を下げ、やがて喫茶店を後にした。
カラン――。
扉の鈴の音が遠ざかり、店内には静かな余韻が残った。
「……俺、少しは役に立てましたか?」
陽翔がおずおずと尋ねると、翠はふっと微笑む。
「ええ、とても」
雅臣も頷き、温かな声を添える。
「胸を張っていいですよ、陽翔君」
――こうして、境界喫茶カクリヨでの初めてのアルバイトは幕を閉じた。




