決心
陽翔は何度も足を止めては迷っていた。
――本当に行くべきだろうか。
あの場所に。
あの、不思議な喫茶店に。
胸の奥で引き寄せられるような感覚に抗えず、気づけばあの路地へと入っていた。
そこにあるはずのない建物が、やはりあった。
――《境界喫茶カクリヨ》
「……やっぱり、あるんだ」
小さく呟き、扉を押す。
カラン……。
鈴の音が迎えてくれる。
変わらぬ温かなランプの光とコーヒーの香り。
「いらっしゃいませ。…また来てもらえて嬉しいです」
カウンターに立つ雅臣が、静かに微笑んだ。
「お帰りなさい」
窓際の席で本を閉じた翠が、ほんのわずかに口元を緩める。
(お帰り……)
その一言が、不思議なほど胸に沁みて、陽翔は思わず笑ってしまった。
カウンターに腰を下ろすと、雅臣が手際よくコーヒーを淹れてくれた。
湯気の向こうで、彼は静かに問いかける。
「アルバイト…してくれる気になりましたか?」
陽翔は両手でカップを抱きしめ、真剣な声を出した。
「えっと、そうじゃなくて!…俺の……この力のことで相談が。やっぱり人間相手じゃ何も感じなくて。怪異だけに反応するみたいなんです。……でも一人じゃこの力をどうすればいいのか分からなくて」
翠は腕を組み、しばし瞑目してから言った。
「制御方法があるのかは、すぐには分からないでしょう。ただ……あなたが関わることで救えるものは、確かにあると思います」
「それに――この《境界喫茶カクリヨ》は、現実と隠世の境目にあって、普通の人には見えないのです」
「怪異に関わった者や悩まされている者にだけ姿を現し、問題が解決すると、ここでの出来事は忘れてしまう。まるで夢でも見ていたかのように記憶が曖昧になり、店には辿り着けなくなる」
「え…でも俺は辿り着けましたよ?」
翠は薄っすらと笑み
「だからあなたは特別なのです。その能力があるから辿り着ける。逆に言うと、その能力があるから問題が解決したという扱いにならないということです」
雅臣が穏やかに微笑む。
「それなら、やっぱりここで学んでみるのが一番ですよ」
陽翔が目を瞬かせると、雅臣は軽く肩をすくめた。
「人手が増えると助かりますし、私達だけでは解決できないようなことも、君の能力があればきっとなんとかなると思うんです。それにここの制服、きっと似合いますよ」
高校ではクラスに上手く馴染めず、居場所がないように感じていた自分にも、居場所ができるのかもしれない。
まだまだ二人については謎だらけだけど、きっと悪い人ではないはずだ。
この人達となら、この厄介な能力もなんとかなるかもしれない。
陽翔は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……はい。俺、ここで働かせてください!」
こうして高坂陽翔の新たな日常は、《境界喫茶カクリヨ》と共に始まったのだった。