能力
影が消え、店内に静寂が戻った。
「……本当に、消えたんだな……」
掠れた声が震えた。
「ええ」
雅臣が柔らかく答える。
「君が受け止めてくれたからです」
彼は温かいコーヒーをもう一度淹れてくれた。
「――どうぞ。落ち着きますよ」
陽翔はやっぱり砂糖とミルクをたっぷり入れ、両手でカップを抱きしめ、一口啜る。
カフェオレの甘みが舌に広がり、冷えきった体にじんわりと染み込んでいく。
「あぁ……美味しい……」
思わず零れた言葉に、雅臣が小さく笑った。
奥の席で、翠も静かに紅茶を飲んでいた。
あそこが指定席なのだろう。
「……あなたに、お願いしたいことがあります」
陽翔は姿勢を正した。
翠の視線は真っ直ぐで、逃げ場を与えない。
「おそらく、あなたは“怪異を生む原因となった記憶や感情”を、無意識に読み取っているのでしょう」
翠の声は冷静で、しかし確信めいていた。
「怪異は、満たされない思いを抱え、形を変えて現れる存在です。
先程の子供は“母親に置いていかれた”という感情に縛られていた。
あなたがそれを感じ取ったからこそ、私たちは解決の糸口を掴めたのです」
「……俺が……」
陽翔は呆然と呟いた。
「そう。あなたがいなければ、あの子は永遠に泣き続けていたでしょう」
翠は淡々と告げる。
「だからこそ――あなたの力が必要なのです」
陽翔はカップを見下ろした。
「……必要だって言われても…俺は何をすればいいんですか?」
雅臣が穏やかに口を挟む。
「うちの喫茶店でアルバイトをしてみるのはどうでしょうか」
「それはいい考えです。あ、履歴書は特に必要ないですよ。ぜひ明日から来てください」
翠に畳みかけられるように詰められる。
(よく知らない店で急に働くって…だいたいこの二人はいったい何者なんだ…?)
「すみません…!お誘いは嬉しいんですけど、一旦考えさせてください!」
そう言って俺は、足早にこの不思議な喫茶店をあとにした。
その日の夜。
布団に潜り込んだ陽翔は、目を閉じてもなかなか眠れなかった。
――怪異の原因となった感情を読み取る力。
あの少女、翠はそう言った。
(本当に……俺なんかにそんな力が?)
夢だったんじゃないかと疑いたくなる。
けれど胸の奥に残る“寂しさ”の余韻はあまりに生々しかった。
翌朝。
リビングでは母親が朝食を並べていた。
「おはよう、陽翔。今日は早いのね」
「……うん」
陽翔は母親の背中をじっと見つめた。
(――なにか感じられないか?)
……静かだ。
母親が鼻歌を口ずさんでいるのが聞こえるだけで、胸には何も届かない。
「……やっぱり、何もないか」
小さく呟いた声は、食器の音にかき消された。
昼休み。
教室の隅、窓際の席で弁当を開く。
隣ではクラスメイトが楽しそうに友達と話している。
じっと集中してみるが、聞こえてくるのは代り映えしない会話だけ。
胸に流れ込んでくるものは何もない。
(……全然、駄目だな)
陽翔は苦笑しながら箸を置いた。
放課後の帰り道、夕暮れに染まる川沿いを歩きながらつぶやいた。
「やっぱり……怪異にしか反応しないんだな…」
昨夜の子供の声。
胸に流れ込んできた寂しさ。
あれは、怪異だからこそ感じ取れたもの。
そう結論づけたとき、胸の中の霧が少し晴れた気がした。
けれど同時に、重たい不安が残る。
(こんな力……俺はどうしたらいいんだ?)
あの喫茶店もなんだったのだろう。
あんな路地は今まで見たことがなかった。
翠と名乗ったあの少女。
見た目は年下の少女なのに、話した感じは大人の女性を思わせる。
それにマスターの雅臣にも不思議な力があるようだった。
昨日は自分のことで精一杯で、あまり深く考えていなかったが、よくよく考えてみるとおかしなことばかりだ。
その問いの答えを探すように、陽翔の足はまた、あの路地を目指していた。