救い
「先程の影のことですが――」
『おいていかないで――』
翠が話し出すと同時に、頭の奥でまたあの声が聞こえた。
陽翔は思わず身を縮める。
「うっ……またあの声だ……!」
言葉が続かない。喉が塞がれたように重く、頭の奥ではあの声がまだ響いていた。
「……聞こえるのですか」
翠の声は淡々としていた。
「外から追ってきた“影”の声が」
陽翔ははっと目を見開く。
「っ……やっぱり、聞こえて……いるんですか!?」
「いいえ。私には“気配”しか届いていません」
翠は長い睫毛を伏せ、指先で本の背表紙をなぞった。
「ですが、あなたはもっと深いものを受け取っているようですね」
「深い……もの……?」
陽翔の胸に、再びあの映像がよぎる。
伸ばした小さな手。遠ざかる背中。泣き声。
そして――孤独。
「……っ」
陽翔はカップを強く握りしめる。
「いったいこれはなんなんだ…!」
翠の瞳が一瞬和らぐ。
「それを知るために、ここへ導かれたのでしょう」
雅臣が静かに続ける。
「君を縛っているものを、まずは確かめなければいけません」
そう言って指で印を結ぶような動作をした瞬間、入口の扉から再び影の気配が忍び寄ってくる。
泣き声が重なり、空気が冷え込む。
「えっ…入れないんじゃなかったんですか!?」
陽翔の顔は恐怖で引きつっている。
――翠がはっきりと言った。
「逃げても意味はないわ。あなたが受け取った“想い”こそ、この現象を解く鍵になる」
その声は冷たくも、確かな力を宿していた。
影が店内の床を這い、椅子の脚にまとわりつく。
ひんやりとした冷気が広がり、陽翔の背筋をぞくりと震わせた。
『おいていかないで――』
『ひとりにしないで――』
泣き声は、子供のもの。
その必死な声は、人の心を締めつけるほどの重さを帯びていた。
「……もう、嫌だ……」
陽翔は耳を塞いだ。だが――胸の奥に流れ込む映像は止まらない。
小さな手。
届かない声。
暗闇の中で一人泣き続ける少年の姿。
「この記憶はいったいなんだ!…あの子は誰なんだ!」
「……君には見えるんですね」
雅臣の低い声が背後から響く。
「その子が抱えているものが」
「俺……なんで……」
陽翔の声は震える。
「知らないはずなのに……気持ちが、流れ込んで……」
翠が歩み寄り、静かに告げる。
「それが、あなたの力。――逃げないで。受け止めてあげて」
陽翔は唇を噛みしめ、影の記憶に集中する。
泣き叫びながら無理やり連れていかれる女の背中。
必死に走って伸ばされる小さな手。
そして――急ブレーキの音と何かがぶつかる鈍い音。
「今、何が見えていますか?」
翠に問われ、見えたもの、聞こえた声をありのまま伝えた。
「そうですか…多分その子は…なんらかの事情で母親から引き離され、追いかけている途中――交通事故で亡くなったのでしょう」
陽翔の視界が自然と溢れた涙でぼやける。
「……置いていかれて、怖かったんだよな」
「……一人で寂しくて、助けて欲しかったんだよな」
ぽつぽつと語る陽翔の囁きに、子供の泣き声が一瞬止まる。
影の揺らぎが、まるで耳を傾けるように静まった。
「雅臣…この子を導いてあげて」
「――わかりました」
雅臣は静かに人形の紙を取り出す。
「君はもう一人じゃない。ちゃんと……大切に思っている人が、迎えに来ているよ」
そう影に向って語りかけた雅臣は、何か低く呟き、指先で紙を弾いた。
淡い光が広がり、一つの人影が浮かび上がる。
優しい笑みを浮かべる母親の姿。
『……っお母さん!』
子供の声が震える。
雅臣はそっと言葉を添える。
「もう迷わなくていい。帰りなさい。君の望んだ場所へ」
影の中から小さな少年が浮かび上がる。
涙を拭い、笑みを浮かべ、母親のもとへ駆け寄る。
『ありがとう…』
その声を最後に、影は光に溶けて消えていった。
冷たさも重苦しさも消え、店内にはただ静かな温もりだけが残った。
陽翔は全身から力が抜け、膝をついて深く息を吐いた。
「……終わった……のか」
「ええ。よく頑張りました」
雅臣が手を差し出す。
翠は本を抱きかかえ、凛とした声で言った。
「あなたが受け止めたからこそ、彼は救われたのです」
陽翔はただ頷き、雅臣の手を借りて、カウンターの椅子に腰を下ろした。