影
ここ最近、どうもおかしい。
高校2年生の高坂 陽翔は薄暗い自室で、深く息を吐いた。
机に広げたノートの端で、黒いものが揺れている。
それはただの影ではなかった。
見てはいけないものだと頭では分かっている。
けれど目を逸らせば逸らすほど、視界の隅から忍び寄ってくる。
「……またかよ」
影は形を変え、床を這い、壁に伸び、やがて人の腕のように蠢いた。
その瞬間――陽翔の頭に、不意に光景が流れ込む。
――冷たいコンクリートの匂い。
――暗い夜道、押し殺した嗚咽。
――“置いていかないで”と泣く子供の声。
「っ……!」
頭を抱えてうずくまる。
影を見ると、意味も分からない断片的な記憶や感情が押し寄せてくる。
それが誰のものかも分からない。
気付けば涙が頬を伝う。
ただ、強烈な“寂しさ”が自分の胸に焼きつく。
最初は幻覚だと思った。だが違う。
影が近づけば近づくほど、その感情は鮮烈になる。
――見てはいけない。
――聞いてはいけない。
そう思えば思うほど、陽翔の心は影に飲み込まれていった。
「俺……どうなってんだよ……」
幼い頃から少し不思議な気配を感じる事はあったが、気のせいだと思ってやり過ごしてきた。
ここまではっきりとした“怪異”と呼ばれるような現象に悩まされるようになったのはつい最近だ。
誰にも言えない。言ったところで信じてもらえるはずもない。
孤独と恐怖に縛られながら、今夜も布団に潜り込んだ。
目を閉じた瞬間、壁から剥がれるように影が広がり、部屋を覆い尽くしていく。
背筋を氷で撫でられるような寒気。
耳元で確かに響いた、泣き声のような声。
「……やめろ……来るなっ……!」
声を振り絞るも、影は容赦なく迫る。
額からは汗が流れ心臓は今にも破裂しそうだ。
――震えながら息を殺し、張りつめた状態のままどのくらい経ったのだろうか。
いつの間にか影の気配は消えたようだった。
安堵からか急激な眠気に引きずり込まれ泥のように眠りに落ちた。