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第4章 形ばかりの夫婦


 結婚式の朝は、時の世界では珍しく、穏やかな光で始まった。


 エリアナは早朝に目を覚まし、窓の外を見つめていた。空の色は普段より明るく、まるで世界全体が祝福してくれているかのようだった。


「殿下、お目覚めですか?」


 セレーネが部屋に入ってきた。彼女もまた、式典用の美しい衣装に身を包んでいる。


「はい。よく眠れました」


 実際には、緊張で何度も目が覚めたのだが、エリアナはそれを隠した。


「それでは、お支度を始めましょう。今日は特別な一日ですから」


 支度には数時間を要した。髪を複雑に結い上げ、特殊な化粧を施し、あの美しい結婚衣装に身を包む。鏡に映る自分は、まるで時の女神のような神々しさを放っていた。


「完璧です」


 セレーネが感嘆の声を上げた。


「王子も、きっとお見とれになるでしょう」


「そんな……私たちは政略結婚ですから」


 とは言いながらも、エリアナの胸は高鳴っていた。ルカスが自分をどう見るのか、気になってしまう自分がいた。


「お時間です。お迎えが参りました」


 部屋の扉が開かれ、クロノスが現れた。彼もまた、式典用の格式高い衣装を纏っている。


「エリアナ殿下、お美しい」


「ありがとうございます」


「では、聖堂へお向かいください。王子がお待ちです」


 宮殿の最奥にある聖堂は、時の世界でもっとも神聖な場所だった。円形の建物の中央には、時の源泉と呼ばれる光る泉があり、その周りを螺旋状の階段が取り囲んでいる。


 エリアナが聖堂に足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。


 そこには、純白の式典用衣装に身を包んだルカスが立っていた。普段の冷たい印象とは違い、神々しいまでの美しさを放っている。


 彼もまた、エリアナの姿を見て、一瞬動きを止めた。その瞳に浮かんだのは、驚きと、そして何か別の感情だった。


「美しい……」


 ルカスが小さくつぶやいた声が、静寂の聖堂に響いた。


 エリアナは頬を赤らめながら、ゆっくりとルカスの元へ歩いていく。一歩ごとに、自分の人生が変わっていくのを感じた。


 祭壇の前で、二人は向かい合って立った。


「それでは、時の契約結婚の儀式を始めます」


 時の世界の大神官が、厳かな声で宣言した。


「まず、両者の魂を時の源泉に捧げます」


 ルカスとエリアナは、同時に手を差し出した。大神官が特殊な短剣で、二人の手のひらに浅い傷をつける。


 血が一滴ずつ、時の源泉に落ちた。


 瞬間、泉の光が激しく輝き、聖堂全体が幻想的な光に包まれた。


「時の契約、成立」


 大神官が宣言すると、二人の手のひらの傷は瞬時に治癒した。同時に、左手の薬指に、光る指輪が現れた。


「この指輪は、二人の魂が永遠に結ばれた証です」


 エリアナは自分の指輪を見つめた。美しく輝く青い石が、まるで生きているかのように光っている。


「ルカス・クロニクル、あなたはエリアナ・ヴァレリアを妻として迎え、生涯を共にすることを誓いますか?」


「誓います」


 ルカスの声は、迷いがなかった。


「エリアナ・ヴァレリア、あなたはルカス・クロニクルを夫として迎え、生涯を共にすることを誓いますか?」


「誓います」


 エリアナも、はっきりと答えた。


「では、時の祝福を」


 大神官が両手を掲げると、聖堂の天井から無数の光の粒子が舞い落ちてきた。それは美しく、神秘的で、まるで時間そのものが二人を祝福しているかのようだった。


「契約、完了」


 儀式が終わると、参列者たちから祝福の拍手が起こった。時の世界の王族や貴族たちが、二人の結婚を祝っている。


 ルカスがエリアナに向き直った。


「これで、あなたは私の妻です」


「はい。よろしくお願いします……夫君様」


 その言葉を口にした瞬間、エリアナの胸に不思議な感覚が走った。これまでとは違う、特別な関係になったのだという実感が湧いてきたのだ。


 祝宴は夜遅くまで続いた。時の世界の貴族たちが次々と祝辞を述べ、エリアナは一人一人に丁寧に応えた。


 ルカスは終始エリアナの隣にいて、時折彼女を気遣う言葉をかけてくれた。政略結婚とはいえ、夫としての役割はきちんと果たそうとしているのが分かった。


「お疲れ様でした」


 祝宴が終わり、二人きりになった時、ルカスがそう声をかけた。


「長い一日でしたね」


「はい。でも、美しい式典でした」


 エリアナは正直な感想を述べた。


「時の世界の結婚式は、とても神秘的で素晴らしいものですね」


「そう言っていただけて、嬉しいです」


 ルカスの表情が、わずかに和らいだ。


「それでは、あなたの新しい部屋にご案内します」


「新しい部屋?」


「夫婦の部屋です。これまでの客室ではなく、王妃の居住区画をお使いいただきます」


 ルカスは廊下を歩きながら説明した。


「ただし、私の部屋とは別です。プライベートは尊重いたします」


 エリアナは少し複雑な気持ちになった。夫婦なのに別室というのは、やはり愛のない結婚の現実を物語っている。


 王妃の居住区画は、これまでの部屋よりもさらに豪華だった。寝室、書斎、応接室、さらには専用の庭園まで付いている。


「素晴らしいお部屋ですね」


「気に入っていただけましたか?」


「はい。ありがとうございます」


「それでは、私はこれで失礼します」


 ルカスは扉に向かった。


「あの……」


 エリアナが思わず声をかけた。


「何でしょうか?」


「その……今夜は、夫婦として……」


 エリアナの頬が赤らんだ。結婚初夜のことを尋ねるのは恥ずかしかったが、気になってしまったのだ。


「ああ、そのことですか」


 ルカスの表情が少し硬くなった。


「政略結婚ですから、そのような義務は必要ありません。あなたのペースで、ゆっくり慣れていただければ」


「分かりました」


 エリアナは安堵と同時に、わずかな寂しさも感じた。


「おやすみなさい、エリアナ」


「おやすみなさい……ルカス様」


 ルカスが去った後、エリアナは一人で広い部屋に立っていた。


 結婚式は終わった。これで自分は、正式にルカスの妻になったのだ。


 しかし、夫婦としての実感はまだ湧かなかった。まるで演技をしているような、不思議な感覚だった。


 エリアナは窓辺に立ち、夜の庭園を見つめた。美しい花々が月光に照らされて、幻想的な雰囲気を醸し出している。


 この新しい生活に、少しずつ慣れていかなければならない。


 愛のない結婚生活を、どうすれば意味のあるものにできるのか。


 エリアナは長い時間、そのことを考え続けていた。


---


 結婚から一週間が経った。


 エリアナは、王妃としての新しい生活に適応しようと努力していた。朝は政務の報告を受け、午後は時の世界の文化について学び、夕方は貴族たちとの社交に時間を費やす。


 充実した毎日だったが、どこか物足りなさを感じていた。


 ルカスとの関係が、結婚前とほとんど変わらなかったからだ。


 朝の挨拶と夕食時の会話以外は、ほとんど顔を合わせることがない。夫婦というより、同じ屋根の下に住む他人のような関係だった。


「殿下、何かお悩みでも?」


 ある日の午後、セレーネがそう尋ねた。


「いえ、特に何も……」


「王子のことでしょうか?」


 セレーネの鋭い洞察に、エリアナは驚いた。


「私には関係ないことですが」


「そんなことはありません。殿下は王子の妻でいらっしゃいます」


「でも、政略結婚ですから」


「政略結婚だからこそ、お二人の関係は重要なのです」


 セレーネは窓の外を見た。


「契約結婚の真の効力は、夫婦の絆の深さに比例します。表面的な関係では、世界を救う力は発揮されません」


「絆の深さ?」


「はい。お互いを信頼し、理解し合い、支え合う関係になればなるほど、契約の力は強くなるのです」


 エリアナは胸の奥で何かが動くのを感じた。


「つまり、私たちがもっと親密な関係になる必要があるということですか?」


「親密というか……真の夫婦になる必要があります」


「真の夫婦……」


 エリアナは考え込んだ。確かに、今の関係では夫婦と呼ぶにはあまりにも距離がありすぎる。


「でも、王子は距離を置きたがっています。どうすれば……」


「殿下から歩み寄ってみてはいかがでしょうか?」


 セレーネが微笑んだ。


「王子は、拒絶されることを恐れているのかもしれません」


 その夜の夕食時、エリアナは勇気を出してルカスに話しかけた。


「ルカス様、お疲れ様でした」


「お疲れ様でした。今日の政務はいかがでしたか?」


「おかげさまで、順調に進んでいます。時の世界の貴族の方々も、とても親切にしてくださって」


 いつものような当たり障りのない会話が続く。


 エリアナは意を決した。


「あの、ルカス様。以前おっしゃっていた天文台を、お見せいただけませんか?」


 ルカスの手が一瞬止まった。


「天文台……ですか」


「はい。もしお時間があるときに」


「……分かりました。食事の後にでも」


 エリアナの顔に笑顔が浮かんだ。


「ありがとうございます」


 食事を終えると、ルカスはエリアナを宮殿の最上階に案内した。螺旋階段を上がっていくと、円形の部屋に到着した。


 天井は全面がガラス張りになっており、時の世界の夜空が一望できる。


「美しい……」


 エリアナは感嘆の声を上げた。


 空には無数の星が輝いているが、それらは人間界の星とは明らかに違っていた。星々が線で結ばれており、複雑な模様を描いている。そして、その模様がゆっくりと変化しているのだ。


「これは……」


「時の星座です」


 ルカスが説明した。


「時間の流れが視覚化されたものです。あの星座の動きを見ることで、時間の状態を把握することができます」


「どういう意味ですか?」


「例えば、あそこの渦巻きのような星座。あれは時間の滞留を表しています。どこかで時が止まっているか、大きく遅れている場所があるということです」


 ルカスは別の星座を指した。


「あちらの稲妻のような模様は、時間の加速を表しています」


「時間の異常が、こうして星座に現れるのですね」


「はい。時の番人は、この星座を読むことで、どこで何が起こっているかを把握し、対処するのです」


 エリアナは夜空を見上げた。美しいだけでなく、とても実用的でもある。


「ルカス様は、毎晩ここで星座を見ているのですか?」


「ええ。職務の一環でもありますが……」


 ルカスは少し躊躇した。


「個人的にも、好きな場所なのです」


「どうして?」


「静かで、落ち着くからです。それに……」


 ルカスは星空を見上げた。


「星座を見ていると、自分の悩みが小さなものに思えてきます」


 エリアナは彼の横顔を見た。いつもの冷たい表情とは違い、どこか寂しげで、そして美しかった。


「ルカス様も、悩みをお持ちなのですね」


「誰にでもあるものです」


「私に話してくださいませんか?」


 ルカスは振り返った。


「なぜ?」


「私たちは夫婦です。お互いの悩みを分かち合うことで、もっと良い関係になれるかもしれません」


 ルカスは長い間沈黙していた。


「……あなたは、なぜそんなに前向きなのですか?」


「前向き?」


「政略結婚を受け入れ、異世界での生活に適応し、愛のない夫との関係を築こうとする。普通の人なら、もっと絶望するはずです」


 エリアナは少し考えてから答えた。


「絶望しても、何も変わらないからです。それなら、今ある状況の中で、できる限り幸せを見つけたほうがいいと思うのです」


「幸せ……ですか」


「小さな幸せでも構いません。美しい星空を見ることや、美味しい食事を取ることや、信頼できる人と話すこと。そういう積み重ねが、人生を豊かにするのだと思います」


 ルカスは再び星空を見上げた。


「私には、そういう発想がありませんでした」


「どういう意味ですか?」


「私にとって人生は、義務と責任の連続でしかありませんでした。幸せを求めることなど、考えたこともなかった」


 エリアナの胸が痛んだ。


「それは寂しすぎます」


「でも、それが現実です。時の番人として生まれた以上、個人的な幸せを追求することは許されないのです」


「誰がそんなことを決めたのですか?」


 エリアナの声に、わずかな怒りが込められた。


「ルカス様は確かに時の番人ですが、それ以前に一人の人間です。幸せを求める権利があるはずです」


「エリアナ……」


「私は、ルカス様に幸せになってほしいのです」


 その言葉に、ルカスの瞳が揺れた。


「なぜ……なぜそこまで?」


「夫だからです」


 エリアナは真っ直ぐにルカスを見つめた。


「愛情はなくても、夫婦として、お互いの幸せを願うのは当然のことだと思います」


 ルカスは言葉を失った。


 長い沈黙の後、彼は小さくつぶやいた。


「あなたは……不思議な人です」


「不思議?」


「私のような男と結婚させられたのに、恨むどころか、私の幸せまで願ってくれる」


 ルカスは振り返った。


「ありがとう、エリアナ。あなたのような妻を持てて……光栄です」


 エリアナの胸が温かくなった。これまでで一番、夫婦らしい会話ができたような気がした。


「私こそ、ルカス様のような立派な方と結婚できて幸せです」


 二人は並んで星空を見上げた。


 まだ愛情とは呼べないかもしれない。しかし、確実に何かが変わり始めている。


 お互いを理解し、尊重し合う関係。それが、真の夫婦への第一歩なのかもしれない。


 星座がゆっくりと移動する中、二人の心の距離も、少しずつ近づいていった。


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