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第3章 異世界の住人


 翌日の夕食の時間が近づくにつれ、エリアナの胸は高鳴っていた。


 セレーネに手伝ってもらい、時の世界の正装に身を包んだ。深い青色のドレスは、まるで夜空を思わせる美しいもので、袖には時の流れを表現した銀色の刺繍が施されている。


「殿下、とてもお美しいです」


 セレーネが微笑んだ。


「王子もきっと、お見直しになるでしょう」


「見直すだなんて……友人として理解し合えればそれで十分よ」


 とは言いながらも、エリアナは鏡の前で何度も身だしなみを確認していた。


「では、お時間ですので、お食事処にご案内いたします」


 宮殿の東棟にある小さな食堂は、プライベートな食事のための場所だった。大きな窓からは庭園が見渡せ、落ち着いた雰囲気の部屋だった。


 エリアナが到着すると、ルカスはすでに席についていた。彼もまた正装しており、深い紺色の衣装が彼の整った顔立ちを一層引き立てている。


「お待たせいたしました」


 エリアナは優雅にお辞儀をした。


「いえ、私も今来たところです」


 ルカスは立ち上がり、彼女の椅子を引いてくれた。その紳士的な振る舞いに、エリアナは少し驚いた。


「ありがとうございます」


 二人が向かい合って座ると、使用人たちが次々と料理を運んできた。時の世界の料理は、見た目も美しく、まるで芸術作品のようだった。


「これは何という料理ですか?」


 エリアナは、光る液体が入った小さなカップを指した。


「時の雫と呼ばれるスープです。時間の精製されたエッセンスが含まれており、飲むと若干寿命が延びると言われています」


「寿命が延びる?」


「微々たるものですが。一杯飲んでも、せいぜい数時間程度です」


 ルカスの説明を聞きながら、エリアナはそのスープを口にした。不思議な味がした。甘いような、しょっぱいような、どこか懐かしいような。


「どのような味がしますか?」


「懐かしい味……子供の頃、母上が作ってくれたスープの味に似ています」


「時の雫は、飲む人の記憶に呼応します。その人にとって最も幸せだった食事の味を再現するのです」


「なんて素敵な魔法……」


 エリアナは感嘆した。


「この世界には、まだまだ私の知らないことがたくさんありそうですね」


「そうですね。では、お互いのことを知るという約束でしたが、まず私から話しましょうか」


 ルカスはワインのグラスを手に取った。


「何か聞きたいことがあれば、何でも」


「では……王子の一日は、どのようなものなのですか?」


「朝は日の出と共に起床し、時間の管理について報告を受けます。午前中は各地の時間異常への対処、午後は政務、夜は時の研究に時間を充てています」


「時の研究?」


「時間をより効率的に、そして安全に操る方法を研究しています。能力の代償を最小限に抑える方法も含めて」


 ルカスの表情が少し暗くなった。


「寿命を削る能力だからこそ、慎重に扱わなければならないのです」


「大変なお仕事ですね」


「生まれながらの宿命ですから。私が王子として生まれた以上、この責任から逃れることはできません」


 エリアナは複雑な気持ちになった。ルカスもまた、自分と同じように、個人的な幸せよりも責任を優先して生きているのだ。


「王子には、趣味のようなものはありますか?」


「趣味……」


 ルカスは少し考えた。


「強いて言えば、古い書物を読むことでしょうか。特に、人間界の歴史書や文学作品」


「人間界の本を?」


「時の世界にも図書館がありますが、人間界から持ち込まれた書物も多数収蔵されています。異なる世界の文化や考え方を知ることは、とても興味深いのです」


 エリアナの顔に笑顔が浮かんだ。


「私も本を読むのが好きです。特に詩集や小説を」


「詩集ですか。どのような詩人がお好きですか?」


「ヴァレンシア・ローズという詩人の作品が好きです。恋愛詩が中心ですが、とても美しい言葉で愛を表現するの」


 ルカスの手が一瞬止まった。


「恋愛詩……ですか」


「ええ。『愛する人の瞳に映る自分こそが、本当の自分』という詩があって、とても印象に残っているんです」


 その瞬間、ルカスの表情が複雑になった。何か思い出すことがあるのだろうか。


「王子?何かお気に障ることを申しましたか?」


「いえ、そんなことは……ただ、その詩人の名前に聞き覚えがあったもので」


 ルカスは話題を変えようとするように、別の料理に手を伸ばした。


「エリアナ殿下の人間界での生活についても聞かせてください」


「私の生活は、それほど面白いものではありません。朝は政務の勉強、午後は領民との謁見、夜は家族との時間」


「家族との時間」


 ルカスがその言葉を繰り返した。


「父上や母上と、どのようなことをなさるのですか?」


「特別なことではありません。一緒に食事をしたり、散歩をしたり。時々、父上は政治の話をしてくださいますし、母上は女性としての心得を教えてくれます」


 エリアナの声が少し寂しげになった。


「今はもう、そんな時間を過ごすことはできませんが」


「家族を恋しく思いますか?」


「とても。でも、それ以上に心配です。私がいなくなって、両親は大丈夫だろうかと」


 ルカスは静かにワインを飲んだ。


「愛する人を失う痛みは、何にも代えがたいものです」


 その言葉には、明らかに個人的な経験が込められていた。


「王子も、大切な人を失ったご経験が?」


「……はい」


 ルカスは躊躇してから答えた。


「両親を、まだ幼い頃に亡くしました。時間異常の調査中に事故に遭い、二人とも命を落としました」


「そんな……申し訳ございません、辛いことを思い出させてしまって」


「構いません。もう昔のことですから」


 しかし、ルカスの表情は決して平静ではなかった。


「それ以来、私は人を深く愛することの危険性を理解しています。愛する人を失う痛みは、時には理性を狂わせます」


「だから、距離を置くのですね」


「そうです。愛情は、時の番人にとって最大の敵なのです」


 二人の間に、重い沈黙が流れた。


 やがて、エリアナが口を開いた。


「でも、愛情がなければ、人生に意味はないのではないでしょうか?」


「意味……ですか」


「私たちは確かに責任や義務を背負っています。でも、それだけで人生が終わってしまうのは、あまりにも寂しすぎます」


 エリアナは真剣な眼差しでルカスを見た。


「愛情でなくても、友情でも、信頼でも。人と人とのつながりがあるからこそ、辛い現実も乗り越えられるのだと思います」


 ルカスは長い間、エリアナを見つめていた。


「あなたは……強い人ですね」


「強いだなんて。私はただ、希望を捨てたくないだけです」


「希望」


「ええ。この政略結婚も、世界を救うという大きな希望があるからこそ受け入れることができました。そして今は、王子と理解し合えるかもしれないという、小さな希望を抱いています」


 ルカスの瞳に、何か複雑な感情が浮かんだ。


「理解し合う……か」


「無理強いはいたしません。でも、これから一緒に暮らすのですから、少しずつでも」


 その時、食堂の窓の外で、時の都の夜が始まろうとしていた。建物から放たれる光が、まるで星のように瞬いている。


「美しい景色ですね」


 エリアナは窓の外を見た。


「この世界に来てから、毎日新しい発見があります」


「そうですか」


 ルカスも窓の外を見た。


「私にとっては見慣れた風景ですが、あなたの視点で見ると、確かに美しいかもしれません」


「王子の好きな場所はありますか?この都の中で」


「……先日の泉は、特別な場所です。あとは、宮殿の最上階にある天文台」


「天文台?」


「時の世界の空は、人間界とは違います。星の動きが時間の流れを表現しており、とても興味深いのです」


 ルカスの声に、わずかだが熱がこもった。


「今度、お見せしましょうか?結婚式の後でよろしければ」


「ぜひ!ありがとうございます」


 エリアナの嬉しそうな表情を見て、ルカスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。


 食事が終わる頃、二人の間の空気は、最初よりもずっと和らいでいた。


「今日は、貴重なお時間をありがとうございました」


 エリアナは立ち上がった。


「私も、有意義な時間でした」


 ルカスも立ち上がり、再び彼女の椅子を引いてくれた。


「エリアナ殿下」


「はい?」


「明日は結婚式の最終準備があります。おそらく、お忙しい一日になるでしょう」


「承知しております」


「その……」


 ルカスは少し躊躇した。


「何かご不安なことがあれば、セレーネにお伝えください。できる限りのことはいたします」


「ありがとうございます。王子のお心遣い、とても嬉しいです」


 エリアナは深くお辞儀をして、食堂を後にした。


 部屋に戻る途中、彼女の胸は温かな気持ちで満たされていた。


 まだ小さな一歩だったが、確実にルカスとの距離は縮まっている。彼の複雑な過去や、時の番人としての重責も理解できた。


 そして何より、彼が決して冷たいだけの人ではないことが分かった。


 愛のない結婚生活も、お互いを理解し合えれば、きっと意味のあるものになる。


 その確信を胸に、エリアナは明日の結婚式に向けて、心の準備を整えていった。


---


 結婚式の前日。


 エリアナは、セレーネと共に最後の準備を進めていた。時の世界の結婚衣装は、人間界のものとは大きく異なっていた。


 純白のドレスではなく、深い青と銀を基調とした、まるで夜空のような美しい衣装だった。生地には無数の小さな宝石が縫い込まれており、光の角度によって星座のような模様を描く。


「時の世界では、結婚は『永遠の契約』を意味します」


 セレーネが説明しながら、エリアナの髪に特殊な飾りを着けていく。


「この衣装に込められた星座は、二人の魂が永遠に結ばれることを象徴しているのです」


「永遠の契約……」


 エリアナは鏡に映る自分を見つめた。美しい衣装に身を包んだ自分は、まるで別人のようだった。


「殿下、何かご心配なことでも?」


「いえ、ただ……明日から私の人生が完全に変わってしまうのだと思うと、少し不安になって」


「大丈夫です。王子はきっと、殿下を大切にしてくださいます」


 セレーネは優しく微笑んだ。


「昨夜の食事会の後、王子のご様子が少し変わられたようでした」


「変わった?」


「はい。以前よりも、穏やかな表情をされることが増えました」


 その言葉に、エリアナの胸に小さな希望が灯った。


「それに」


 セレーネは声を潜めた。


「王子が天文台の掃除を命じられました。誰かをお案内するご予定があるのかもしれません」


 エリアナは頬を赤らめた。昨夜、ルカスが天文台を見せてくれると言っていたことを思い出したのだ。


「きっと、殿下と王子は良いご夫婦になられます」


「そうだといいのですが……」


 その夜、エリアナは眠れずにいた。


 明日の結婚式のことを考えると、緊張で胸がいっぱいになった。これまでの人生で最も重要な一日になるのは間違いない。


 窓の外では、時の都の夜景が美しく輝いている。明日からは、この景色を毎日見ることになるのだ。


 故郷への想いと、新しい人生への期待。そして、ルカスへの複雑な気持ち。


 様々な感情が入り混じる中、エリアナはゆっくりと眠りについた。


 翌朝、彼女は新しい人生の始まりを迎えることになる。


 時の世界の花嫁として。


 そして、ルカス・クロニクルの妻として。


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