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第2章 契約という名の鎖


 意識が戻ったとき、エリアナは見たことのない空の下に立っていた。


 空の色が違う。人間界の青空とは異なり、薄い紫がかった青色をしている。そして雲の流れが、まるでスローモーションの映像を見ているように、ゆっくりと動いていた。


「お気づきになりましたか?」


 セレーネの声に、エリアナは我に返った。


「ここが……時の世界?」


「はい。時の都、クロノポリスです」


 エリアナは周囲を見回した。そこは確かに、人間界とは大きく異なる世界だった。


 建物の造りからして違う。石や木材で作られているのは人間界と同じだが、その形状が独特だった。まるで時計の歯車を思わせるような、円形や螺旋形の建造物が立ち並んでいる。


 そして、街を歩く人々の動きも不思議だった。ある人は普通の速度で歩いているのに、別の人はまるで早送りしているかのように素早く移動している。反対に、蝸牛のようにゆっくりと歩いている人もいた。


「なぜ、皆さんの動きがバラバラなのですか?」


「時の世界の住人は、それぞれが自分の時間軸で生きているからです」


 セレーネが説明した。


「急いでいる時は時間を早め、ゆっくりしたい時は時間を遅くする。それが、この世界では普通のことなのです」


「慣れるのに時間がかかりそうですね」


「大丈夫です。殿下にも、じきに感覚が身につくでしょう」


 一行は街の中央を抜けて、小高い丘の上にある宮殿に向かった。その宮殿もまた、人間界では見られない美しさを持っていた。


 水晶のような透明な石材で作られた建物は、太陽の光を受けて虹色に輝いている。そして建物全体が、まるで生きているかのように、ゆっくりと形を変え続けていた。


「時の王宮です」


 クロノスが振り返った。


「ルカス王子は、こちらでお待ちです」


 エリアナの胸が高鳴った。ついに、結婚相手となる王子と対面する時がきたのだ。


 宮殿の中に入ると、その美しさにエリアナは息を呑んだ。壁には時を表現した美しい絵画が飾られ、床には複雑な時計のような模様が描かれている。そして天井からは、小さな光の粒子が舞い落ちており、それが時の流れを表現しているのだと分かった。


「こちらです」


 セレーネに案内され、エリアナは玉座の間のような大きな部屋に入った。


 そこで、彼女は初めて、自分の運命の相手と出会った。


 玉座に座っていたのは、二十代前半に見える美しい男性だった。銀色の髪は肩まで届き、瞳は深い紺色をしている。顔立ちは整っているが、どこか冷たい印象を与えた。


 そして何より、彼の周囲の空気が明らかに違っていた。時間そのものが彼を中心に渦巻いているような、そんな錯覚を覚える。


「ルカス王子」


 クロノスが一歩前に出た。


「人間界よりエリアナ殿下をお連れいたしました」


 王子はゆっくりと立ち上がった。その動作の一つ一つが、まるで時間を意識して作られたかのように、完璧で美しかった。


「ヴァレリア王国第一王女、エリアナ・ヴァレリア殿下」


 ルカスの声は低く、どこか感情を感じさせなかった。


「時の世界にようこそ。私がルカス・クロニクル。今回の契約結婚における、あなたの相手です」


 エリアナは深くお辞儀をした。


「お初にお目にかかります、ルカス王子。この度は、世界を救うための重要な役割を共に担わせていただくことになり、光栄に思います」


「光栄……ですか」


 ルカスの口元に、わずかな皮肉が浮かんだ。


「では、単刀直入に申し上げましょう。これは政略結婚です。愛情も感情も、一切関係ありません。世界を救うためだけの、契約に過ぎません」


 その冷たい言葉に、エリアナの胸に痛みが走った。覚悟はしていたが、実際に面と向かって言われると、想像以上に辛かった。


「承知しております」


 それでも、エリアナは気丈に答えた。


「私も王女として、感情と義務は分けて考えております」


「それならば話は早い」


 ルカスは再び玉座に座った。


「結婚式は一週間後に行います。それまでの間、あなたには宮殿の一角に用意された部屋で過ごしていただきます」


「一週間後?そんなに早く?」


「時間がありません。封印の綻びは日に日に拡大しています。一日でも早く契約を成立させる必要があるのです」


 ルカスの表情は厳しかった。


「それまでの間、私たちが顔を合わせることはありません。必要最低限の接触で済ませましょう」


「でも、お互いのことを知る時間も必要では……」


「不要です」


 ルカスはきっぱりと言い切った。


「これは愛を育む結婚ではありません。互いの義務を果たすだけの、ビジネスパートナーシップです」


 エリアナは言葉を失った。確かに政略結婚だと理解していたが、ここまで冷たく割り切られるとは思っていなかった。


「分かりました」


 それでも、彼女は気品を失わずに答えた。


「王子のお考えに従います」


「賢明な判断です」


 ルカスは立ち上がると、エリアナに背を向けた。


「セレーネ、殿下を部屋にお連れしなさい。それと、必要なものがあれば何でも用意するように」


「承知いたしました」


 セレーネが頭を下げた。


「では、殿下。こちらへ」


 エリアナは最後にもう一度ルカスを見た。しかし、彼は振り返ることもなく、玉座の間を出て行ってしまった。


 セレーネに案内された部屋は、確かに美しく豪華だった。人間界の王宮と比べても遜色のない調度品が並び、窓からは時の都の美しい景色が一望できた。


 しかし、エリアナの心は重かった。


「セレーネ」


「はい、殿下」


「王子は、いつもあのように冷たい方なのですか?」


 セレーネの表情が曇った。


「王子は……複雑な事情をお抱えです」


「複雑な事情?」


「以前にも、このような契約結婚の話があったのです。しかし、その時は……」


 セレーネは言葉を濁した。


「その時は?」


「お相手の方が、結婚直前に逃亡されました。政略結婚に耐えられなかったのでしょう」


 エリアナは驚いた。


「そんなことが……」


「それ以来、王子は人を信用されなくなりました。特に、結婚に関しては」


 セレーネは窓の外を見た。


「でも、王子は決して悪い方ではありません。ただ、心に傷を負っておられるだけです」


「そうですか……」


 エリアナは複雑な気持ちになった。ルカスの冷たい態度にも、それなりの理由があったのだ。


「私は逃げませんよ」


 エリアナはセレーネを見つめた。


「世界を救うため、そして王女としての責務を果たすため。どんなに辛くても、最後まで責任を持ちます」


「殿下……」


 セレーネの目に涙が浮かんだ。


「きっと、王子にもお気持ちが伝わります」


「そうだといいのですが」


 その夜、エリアナは一人で夕食を取った。時の世界の料理は、見た目も味も人間界とは大きく異なっていたが、不味いわけではなかった。


 ただ、一人きりの食事は寂しかった。故郷では、両親や使用人たちと一緒に食事をしていたのに。


 食後、エリアナは窓辺に立った。時の都の夜景は美しく、建物から放たれる光が幻想的な雰囲気を作り出している。


 しかし、その美しさも、今の彼女の心には響かなかった。


 一週間後には結婚式。そして、愛のない結婚生活が始まる。


 エリアナは自分の選択を後悔しているわけではなかった。世界を救うという大義があり、王女としての責務もある。


 それでも、一人の女性として、少しは幸せな結婚を夢見ていた自分がいたことも事実だった。


「愛がなくても、尊敬し合える関係になれるかもしれない」


 エリアナは自分に言い聞かせた。


「まずは、お互いを理解することから始めましょう」


 その決意と共に、彼女は眠りについた。


---


 翌日から、エリアナは宮殿での生活を始めた。


 セレーネが付き人として世話をしてくれ、時の世界の文化や習慣について、さらに詳しく教えてくれた。


 時の世界には、人間界とは大きく異なる価値観があった。例えば、「時間を無駄にする」ことは最大の罪とされている。また、「効率」よりも「調和」が重視され、自分だけが時間を操って利益を得ることは、社会的に忌避されていた。


「王子は、この世界でもっとも尊敬されている方です」


 セレーネがある日、そう教えてくれた。


「時間を操る能力においても、人格においても、王子に勝る人はいません」


「でも、昨日お会いした時は、とても冷たい印象でしたが」


「それは……」


 セレーネは言葉を選んだ。


「王子は、人を愛することの危険性を、誰よりもよく知っておられるからです」


「危険性?」


「時の番人の能力は、感情によって大きく左右されます。愛する人を守ろうとする気持ちが強すぎると、ついつい大きな力を使ってしまい、寿命を削ってしまうのです」


 エリアナは息を呑んだ。


「以前の契約結婚の相手の方が逃亡された理由も、そこにあります」


「どういうことですか?」


「王子がその方を……愛してしまわれたのです。本来は政略結婚のはずだったのに」


 セレーネの声が悲しげになった。


「王子は、彼女を守るために何度も能力を使われました。結果として、本来千年はあったはずの寿命が、半分以下になってしまいました」


「そんな……」


「彼女はそのことを知って、罪悪感に耐えられなくなったのです。そして、結婚式の前日に姿を消しました」


 エリアナは胸が痛くなった。ルカスの冷たい態度の理由が、ようやく理解できた。


「王子は、それ以来、誰も愛さないと決めておられます。自分の寿命を削らないため、そして相手を傷つけないために」


「なんて辛い話……」


「ですから、殿下も無理に王子の心を開こうとはなさらないでください。今のままの関係が、王子にとっては一番楽なのです」


 その話を聞いて、エリアナの心は複雑になった。


 確かに、愛のない結婚は寂しいものだ。しかし、ルカスが愛を避ける理由を知ると、それを無理に求めることは残酷に思えた。


 それでも、この結婚生活をより良いものにする方法はないのだろうか。


 エリアナは考え続けた。


---


 結婚式の三日前、エリアナは宮殿の庭園を散歩していた。


 時の世界の植物も、人間界とは異なっていた。花は時間の経過と共に色を変え、葉は風もないのにゆっくりと揺れている。まるで時間そのものが、植物に命を与えているかのようだった。


 庭園の奥で、エリアナは美しい泉を見つけた。その水面には、時間の流れが視覚化されたような、美しい模様が浮かんでいる。


「美しいでしょう?」


 突然の声に、エリアナは振り返った。


 そこにいたのは、意外にもルカスだった。初対面の時とは違い、普段着のような服装をしている。


「王子……こんなところにいらしたのですね」


「この泉は、時の世界でもっとも古い場所の一つです。時間の源流とも呼ばれています」


 ルカスは泉のほとりに近づいた。


「よく、ここで考え事をするのです」


「何について考えるのですか?」


「時間というものの本質について。過去、現在、未来の関係について。そして……」


 ルカスは一瞬躊躇した。


「人生の意味について」


 エリアナは驚いた。初対面の時の冷たい印象とは違い、今のルカスからは深い思慮深さを感じる。


「王子は、哲学者でもいらっしゃるのですね」


「時を司る者は、必然的に哲学者になります。時間の流れを見続けていると、人間の……いえ、すべての生命の儚さを実感せざるを得ませんから」


 ルカスは水面を見つめた。


「エリアナ殿下、あなたは後悔していませんか?故郷を離れ、愛のない結婚をすることを」


 突然の質問に、エリアナは少し考えてから答えた。


「後悔はしていません。でも、寂しいとは思います」


「寂しい?」


「故郷を離れたことも、家族と離ればなれになったことも。そして……」


 エリアナは勇気を出して続けた。


「お互いを知ることもなく結婚することも」


 ルカスの表情がわずかに変わった。


「お互いを知る必要はないと、以前申し上げたはずですが」


「確かにそうおっしゃいました。でも、私は王子のことを知りたいのです」


「なぜですか?」


「これから人生を共にする相手だからです。愛がなくても、せめて理解し合える関係になれたらと思うのです」


 ルカスは長い間沈黙していた。泉の水音だけが、静寂を満たしていた。


「理解し合う、ですか」


 やがて、ルカスが口を開いた。


「それは危険なことかもしれません」


「危険?」


「理解は、愛情の第一歩です。そして、愛情は……私にとっては毒と同じです」


 ルカスは立ち上がった。


「申し訳ありません。やはり、私たちは必要最低限の関係に留めておくべきです」


「王子、お待ちください」


 エリアナも立ち上がった。


「私は逃げません。前の方のように、結婚から逃げ出したりはしません」


 ルカスの足が止まった。


「セレーネから聞きました。王子の過去について」


「余計なことを……」


「でも、だからこそ理解できました。王子が距離を置きたがる理由が」


 エリアナは一歩前に出た。


「私は王子に愛情を求めるつもりはありません。でも、せめて友人のような関係になれませんか?お互いを尊敬し、支え合える、そんな関係に」


 ルカスは振り返った。その瞳に、わずかな迷いが見えた。


「友人……ですか」


「はい。愛情ではなく、友情なら王子の負担にもならないでしょう?」


 ルカスは再び長い間考え込んだ。


「友情も、愛情に変わる可能性があります」


「その時は、その時で考えましょう。今は、まずお互いを知ることから始めませんか?」


 エリアナの真剣な眼差しに、ルカスは何かを感じ取ったのかもしれない。


「……分かりました」


 彼は小さくため息をついた。


「では、明日の夕食を一緒にしませんか?お互いのことを話す時間を作りましょう」


 エリアナの顔に笑顔が浮かんだ。


「ありがとうございます、王子」


「ただし」


 ルカスは厳しい表情になった。


「これ以上の関係を求めることは、お互いのためになりません。その点は理解してください」


「承知いたしました」


 エリアナは深くお辞儀をした。


「では、明日の夕食を楽しみにしております」


 ルカスが去った後、エリアナは泉のほとりに座り込んだ。


 小さな一歩だったが、確実な前進だった。ルカスとの間に、ほんの少しだけ距離を縮めることができた。


 愛のない結婚生活も、工夫次第では意味のあるものにできるかもしれない。そんな希望が、エリアナの胸に芽生えていた。


 泉の水面に映る自分の顔を見つめながら、エリアナは新しい決意を固めた。


 愛を求めるのではなく、理解を深める。そして、お互いにとって意味のある関係を築いていく。


 それが、この政略結婚を成功させる唯一の道なのかもしれない。


 空の色が夕暮れの紫に変わる中、エリアナは明日の夕食に向けて、心の準備を始めていた。


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