第10章 迫りくる終焉
平穏な日々は、予想もしない形で突然終わりを告げた。
その前兆は、一週間前から始まっていた。時の世界各地で、小さな時間異常が散発的に発生していたのだ。
「今朝の報告では、東の森で時間の逆流現象が観測されました」
政務の時間に、クロノスが深刻な表情で報告した。
「昨日は南の湖で時間の停滞、一昨日は西の山で時間の加速。異常が頻発しています」
ルカスの眉がひそめられた。
「規模は?」
「幸い、まだ局所的です。しかし、発生頻度が日に日に増加しています」
「原因の特定は?」
「調査中ですが……」
クロノスは言いにくそうに続けた。
「古代の封印に、何らかの異常が起きている可能性があります」
エリアナの顔が青ざめた。封印の異常といえば、結婚前に起こった大きな危機を思い出す。
「でも、私たちの契約結婚で安定したのではありませんか?」
「はい。しかし、封印そのものが永遠に持つわけではありません」
クロノスの説明に、ルカスは立ち上がった。
「すぐに封印の状態を直接確認する必要があります」
「ルカス、私も一緒に行きます」
エリアナも立ち上がったが、ルカスは首を振った。
「危険すぎます。封印の調査は、熟練した時の番人でなければ」
「でも……」
「今回は私一人で行きます」
ルカスの口調は有無を言わさぬものだった。
「あなたには、宮殿で待っていてもらいます」
エリアナは不満だったが、ルカスの決意が固いことを理解した。
「分かりました。でも、必ず連絡を取り合ってください」
「約束します」
ルカスは彼女の額にキスをして、急いで支度に向かった。
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ルカスが出発してから三日が経った。
連絡は毎日来ていたが、内容は決して楽観的ではなかった。封印の状態は予想以上に深刻で、調査には時間がかかっているとのことだった。
「殿下、お食事をお取りください」
セレーネが心配そうに声をかけた。
エリアナは食欲がなく、ほとんど何も食べていなかった。
「ありがとう。でも、あまり食べる気が……」
「王子のことが心配なのは分かりますが、殿下が倒れては元も子もありません」
セレーネは優しく諭した。
「王子もお心配されるでしょう」
エリアナは渋々ながら、少しだけ食事を取った。しかし、心の奥では不安が募るばかりだった。
その夜、エリアナは眠れずに書斎で本を読んでいた。集中できずに、同じページを何度も読み返していた。
午前二時頃、突然宮殿が大きく揺れた。
「何?」
エリアナは慌てて窓の外を見た。時の都の空に、不吉な光が走っているのが見えた。
「殿下!」
セレーネが部屋に駆け込んできた。
「大変です!封印に重大な異常が発生しています!」
「ルカス様は?」
「連絡が取れません。現地は時空の嵐に包まれていて」
エリアナの血の気が引いた。ルカスに何かあったのではないか。
「私、現地に向かいます」
「殿下、危険です!」
セレーネが慌てて止めた。
「時空の嵐の中では、王子でさえ苦戦されているのです」
「だからこそ、助けに行かなければ」
エリアナは決意を固めた。
「私も時間操作ができます。きっと役に立てるはずです」
「しかし……」
「セレーネ、お願いします」
エリアナは真剣な眼差しを向けた。
「夫が危険にさらされているのに、何もしないでいることはできません」
セレーネは迷ったが、エリアナの決意の固さを見て頷いた。
「分かりました。でも、十分注意してください」
「ありがとう」
エリアナは急いで外出の準備を整えた。
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聖なる山への道のりは、想像以上に過酷だった。
時空の嵐の影響で、景色が絶えず変化している。道が突然消えたり、崖が出現したり、重力の方向が変わったりした。
馬車はすぐに使えなくなり、エリアナは徒歩で山を登ることになった。同行した護衛騎士たちも、異常な現象に戸惑っていた。
「王妃様、これ以上は危険です」
護衛隊長が進言した。
「時空の歪みが激しすぎます」
「でも、ルカス様が……」
エリアナが答えかけた時、前方から巨大な爆発音が聞こえてきた。
「あの音は……」
山頂の方向に、強烈な青い光が立ち上っているのが見えた。
「ルカス様の能力です」
エリアナは確信した。
「大規模な時間操作を行っているのです」
彼女は走り出した。護衛たちが慌てて後を追う。
山道を登るにつれ、時空の歪みはさらに激しくなった。しかし、エリアナは必死に進み続けた。愛する夫を救いたい一心で。
やがて、山頂近くの広場に到着した時、エリアナは息を呑んだ。
そこには想像を絶する光景が広がっていた。
空には巨大な亀裂が無数に走り、そこから虚無の闇が噴き出している。地面は時間の歪みによって波打ち、古代の封印装置は半ば崩壊していた。
そして、その中央で、ルカスが一人で戦っていた。
彼の周囲には青い光のオーラが激しく渦巻き、全身全霊で封印の修復に取り組んでいる。しかし、その代償は明らかに深刻だった。
ルカスの顔は青白く、体は疲労で大きく震えている。額からは大量の汗が流れ、呼吸も荒くなっていた。
「ルカス!」
エリアナが叫ぶと、ルカスは振り返った。
「エリアナ?なぜここに?」
彼の声は疲労で掠れていた。
「危険です。すぐに避難を」
「そんなことできません」
エリアナは彼の元に駆け寄った。
「一人で抱え込んではだめです。約束したじゃありませんか」
「しかし、これは……」
ルカスが言いかけた時、封印装置に新たな亀裂が走った。
「もう時間がありません」
クロノスが現れた。彼もまた、長時間の作業で疲労困憊していた。
「封印の崩壊が臨界点に達しています」
「あとどのくらい?」
「一時間……いえ、もっと短いかもしれません」
クロノスの報告に、エリアナの血の気が引いた。
「完全に崩壊すると?」
「両世界の時間軸が混乱し、最悪の場合、すべてが無に帰します」
エリアナは愕然とした。世界の存亡がかかっているのだ。
「修復に必要な力の量は?」
ルカスがクロノスに尋ねた。
「現在の状態から完全修復するには……」
クロノスは言いにくそうに答えた。
「王子の残り寿命のほぼ全てに相当する力が必要です」
エリアナの心臓が止まりそうになった。
「それでは、ルカスが……」
「私の命と引き換えに、世界を救うことができます」
ルカスは静かに言った。
「それは……それは王としての責務です」
「だめです!」
エリアナが彼にしがみついた。
「そんな方法は認められません」
「エリアナ、分かってください」
ルカスは彼女を優しく見つめた。
「これは必要な犠牲なのです」
「必要だなんて……」
エリアナの涙が止まらなかった。
「あなたなしでは、世界が救われても意味がありません」
「そんなことはありません」
ルカスは彼女の頬を拭った。
「あなたには未来があります。私なしでも、きっと幸せになれます」
「なれません」
エリアナは首を振った。
「ルカスなしでは、私は生きていけません」
ルカスの瞳に涙が浮かんだ。
「愛しています、エリアナ」
「私も愛しています」
エリアナは彼の手を握りしめた。
「だからこそ、一人で死なせるわけにはいきません」
「エリアナ……」
「他に方法があるはずです。二人で力を合わせれば」
エリアナは必死に代案を考えた。
「契約結婚の力を使えば」
「無理です」
クロノスが首を振った。
「必要な力の量が大きすぎます。お二人の現在の力では」
その時、エリアナの頭に一つの考えが浮かんだ。
「私の時間操作能力を最大限に引き出したら?」
「危険すぎます」
ルカスが慌てて制止した。
「あなたの体では耐えられません」
「でも、やってみなければ分かりません」
エリアナは決意を込めて言った。
「私だって、この世界を救いたいのです」
「エリアナ、お願いです」
ルカスが必死に訴えた。
「私一人の犠牲で済むなら、それが最善の選択です」
「最善だなんて!」
エリアナは怒りを込めて叫んだ。
「夫が死んで、妻が一人残されることが最善ですか?」
ルカスは言葉を失った。確かに、エリアナの言う通りだった。
「私はあなたと一緒にいたいのです」
エリアナは涙を流しながら続けた。
「一緒に生きて、一緒に年を取って、一緒に幸せになりたいのです」
「私もです」
ルカスの声も震えていた。
「でも、それは……」
その時、封印装置から再び激しい光が放射された。崩壊の進行が加速している。
「もう時間がありません」
クロノスが焦りを込めて言った。
「すぐに決断を」
ルカスは封印装置に向き直った。覚悟を決めた表情だった。
「すみません、エリアナ。さようなら」
「待って!」
エリアナが叫んだ瞬間、奇跡が起こった。
彼女の体から強烈な光が放射され、その光がルカスを包み込んだ。同時に、二人の結婚指輪が激しく輝き始めた。
「これは……」
クロノスが驚愕の表情を見せた。
「契約結婚の真の力が発動しています」
「真の力?」
エリアナは自分の体の変化に戸惑った。内側から溢れるような力を感じる。
「夫婦の絆が極限まで高まった時、二人の力は融合し、単体では不可能な奇跡を起こすことができるのです」
クロノスは興奮して続けた。
「これは古代の文献にのみ記されている、伝説の力です」
ルカスも自分の体の変化を感じていた。エリアナとの繋がりが、これまでにないほど強くなっている。
「今なら……」
エリアナはルカスの手を握った。その瞬間、二人の力が完全に融合した。
「今なら、二人で封印を修復できます」
クロノスが確信を込めて言った。
「ただし、代償は二人で分け合うことになります」
「分け合うなら、一人が死ぬことはありませんね?」
エリアナが確認すると、クロノスは頷いた。
「はい。それぞれ数十年の寿命を失いますが、二人とも生き残ることができるでしょう」
ルカスとエリアナは顔を見合わせた。
「一緒にやりましょう」
エリアナが微笑んだ。
「夫婦なのですから」
「分かりました」
ルカスも微笑み返した。
「一緒に、世界を救いましょう」
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封印の修復作業は、想像を絶する困難を伴った。
二人は手を繋いだまま、崩壊寸前の封印装置に向かった。融合した力を制御するだけでも、並大抵のことではなかった。
「集中してください」
ルカスが指導した。
「私たちの力を一つにして、封印の核心部分に注ぎ込むのです」
「分かりました」
エリアナも必死に集中した。
二人の力が融合して生まれた光は、純粋な青と白の混じった美しいものだった。それは愛によって生まれた力の象徴でもあった。
しかし、封印の損傷は予想以上に深刻だった。亀裂の一つを修復するだけでも、膨大な力を必要とした。
「うまくいきません」
一時間後、エリアナが疲労で膝をついた。
「力が足りないのでしょうか」
「いえ、方法が間違っているのかもしれません」
ルカスも汗を拭いながら考えた。
「封印全体を一度に修復しようとするから、力が分散してしまうのです」
「では、どうすれば?」
「一つずつ、順番に修復していきましょう」
ルカスは封印装置を詳しく観察した。
「最も重要な部分から始めて、徐々に全体を安定させるのです」
作戦を変更して、二人は再び作業に取り掛かった。
今度は成功した。小さな亀裂の一つが、美しい光に包まれて修復されていく。
「できました!」
エリアナが嬉しそうに叫んだ。
「この調子で続けましょう」
しかし、作業が進むにつれ、二人の体力は急激に消耗していった。融合した力を使うことの代償は、予想以上に大きかった。
「ルカス、大丈夫ですか?」
エリアナが心配そうに声をかけた。ルカスの顔は青白く、立っているのがやっとの状態だった。
「大丈夫です」
ルカスは強がったが、明らかに限界に近づいていた。
「でも、無理をしてはいけません」
「あなたこそ」
ルカスはエリアナを見た。彼女もまた、疲労で震えている。
「少し休憩しませんか?」
「でも、時間が……」
その時、クロノスが駆け寄ってきた。
「お二人とも、素晴らしい成果です」
彼の表情は希望に満ちていた。
「既に封印の七割が修復されています」
「七割も?」
エリアナは驚いた。
「もうそんなに進んでいるのですか?」
「はい。この調子なら、あと二時間ほどで完全修復できるでしょう」
クロノスの報告に、二人は安堵した。
「それなら、短い休憩を取りましょう」
ルカスが提案した。
「体力を回復してから、最後の仕上げに臨みましょう」
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三十分ほど休憩した後、二人は最後の作業に取り掛かった。
残りの亀裂は最も大きく、修復も困難だった。しかし、これまでの経験で、二人の連携は完璧になっていた。
「息を合わせて」
ルカスが言った。
「せーの」
二人の力が再び融合し、巨大な光の柱となって封印の中心部に注がれた。
亀裂がゆっくりと閉じていく。しかし、最後の瞬間、予想外のことが起こった。
封印の奥から、巨大な闇の力が噴き出してきたのだ。
「これは……」
クロノスが愕然とした。
「封印に閉じ込められていた古代の邪悪な力です」
闇の力は二人を飲み込もうとした。しかし、その時、二人の愛の力が最大限に発揮された。
「エリアナ!」
「ルカス!」
二人は互いの名前を叫びながら、さらに強く手を握り合った。
その瞬間、光の力が闇を完全に圧倒した。邪悪な力は浄化され、封印は完全に修復された。
同時に、二人はその場に倒れ込んだ。代償は確かに大きかった。
「エリアナ、大丈夫ですか?」
ルカスが心配そうに声をかけた。
「はい……何とか」
エリアナは微弱な声で答えた。
「ルカスは?」
「生きています」
ルカスも苦笑した。
「二人とも、よく頑張りました」
クロノスが駆け寄ってきた。
「封印は完全に修復されました。もう危険はありません」
二人は安堵で涙を流した。世界を救うことができたのだ。
「私たち、やりましたね」
エリアナが微笑んだ。
「はい。一緒に成し遂げることができました」
ルカスも微笑み返した。
夕日が聖なる山を照らし、二人の顔を優しく包んでいた。危機は去り、世界は再び平和を取り戻した。
そして、二人の愛はより強固なものとなった。命を賭けて共に戦ったことで、もはや何も二人を引き離すことはできないだろう。
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宮殿に戻る途中、二人は馬車の中で静かに寄り添っていた。
「疲れましたね」
エリアナがルカスの肩に頭を預けながら言った。
「でも、充実感もあります」
「私も同じです」
ルカスが彼女の髪を撫でた。
「あなたと一緒だったからこそ、成し遂げることができました」
「私一人では絶対に無理でした」
エリアナは心から感謝していた。
「ルカスがいてくれたから、最後まで頑張れました」
二人は手を繋いでいた。結婚指輪の光は、以前よりもずっと強くなっている。
「指輪の光が……」
「私たちの絆が、さらに深まった証拠ですね」
ルカスも自分の指輪を見つめた。
「今回のことで、私たちは本当の意味でパートナーになれました」
「そうですね」
エリアナは満足そうに微笑んだ。
「もう何があっても、一緒に乗り越えていけそうです」
馬車は美しい夕焼けの中を進んでいく。二人の前には、愛に満ちた未来が待っていた。
宮殿に到着すると、セレーネをはじめとする使用人たちが温かく迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
セレーネが涙を浮かべて言った。
「ご無事で何よりです」
「ただいま」
エリアナも涙ぐんだ。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
「いえいえ。王子と王妃のおかげで、世界が救われたのです」
セレーネは深く頭を下げた。
「私たちの方こそ、感謝しなければなりません」
その夜、二人は久しぶりに静かな夜を過ごした。
「今日のことを振り返ると、まるで夢のようです」
エリアナがベッドの上で言った。
「世界を救うなんて、本当にできるとは思いませんでした」
「私も同じです」
ルカスが彼女を抱きしめた。
「でも、あなたがいてくれたからこそ、可能になったのです」
「私たちの愛の力ですね」
エリアナは幸せそうに微笑んだ。
「これからも、この愛を大切にしていきましょう」
「もちろんです」
ルカスは彼女の額にキスをした。
「永遠に、あなたを愛し続けます」
危機を乗り越えたことで、二人の関係は新たな段階に入った。もう互いを疑ったり、一人で背負い込んだりすることはない。
真のパートナーとして、これからの人生を共に歩んでいく。
それが、今回の試練から得た最も貴重な宝物だった。
窓の外では、時の都の夜景が美しく輝いている。封印が修復されたことで、時間の流れも完全に安定していた。
二人の愛が世界を救い、そして自分たちの絆をより深めた。
これ以上の幸せはないと思えるほど、二人は満たされていた。
そして、この強固な絆こそが、これから始まる新しい人生の礎となるのだった。