第1章 時の歪みと宿命
朝の鐘が響く中、エリアナ・ヴァレリア王女は執務室の窓から城下町を見下ろしていた。いつもの風景のはずなのに、今朝は何かが違っていた。
市場の時計塔が示す時刻と、城の大時計が示す時刻が、明らかに異なっている。それも数分程度の誤差ではない。一時間以上もずれていた。
「お嬢様、お顔色が優れませんが」
執事のセバスチャンが、いつものように静かに声をかけた。彼は幼い頃からエリアナに仕えており、彼女の表情の変化を見逃すことはない。
「セバスチャン、城下の時計塔を見てちょうだい。何か気づくことはない?」
「時計塔でございますか……ああ」
セバスチャンの眉がわずかに寄った。彼もまた、異常に気づいたのだろう。
「調べさせましょうか?」
「お願いします。ただ、これで三件目よ」
エリアナは深いため息をついた。一週間前から、王国内で時間に関する奇妙な報告が相次いでいた。ある村では日の出が三時間遅れ、別の町では逆に夜明けが早すぎた。時計職人ギルドからも、精密に調整したはずの時計が勝手に狂ってしまうという報告が届いている。
「父上はまだお休みでしょうか?」
「はい。国王陛下は昨夜遅くまで閣僚会議を……」
「分かっているわ。でも、これ以上放置するわけにはいかない」
エリアナは振り返ると、執務机の上に広げられた報告書を見つめた。王国各地から届いた、時間異常に関する報告書の山だった。一つ一つは小さな異常でも、全体を見ると明らかに何らかのパターンがある。
彼女は十八歳になったばかりだが、すでに政務の一部を担当していた。特に民政については、国王である父親よりも詳しいと自負している。だからこそ、この異常事態を見過ごすことはできなかった。
「お嬢様」
セバスチャンが、いつもより緊張した声で呼びかけた。
「何かしら?」
「謁見の間に、客人がお見えになっています。至急お会いしたいとのことで」
「この時間に?朝の政務が始まる前だというのに」
エリアナは眉をひそめた。通常の外交ルートを通さない来訪者など、ろくなことがない。
「どちらの国の方?」
「それが……」セバスチャンは言葉を濁した。「どちらの国とも名乗られません。ただ、『時に関する重要な話がある』と」
エリアナの背筋に冷たいものが走った。偶然にしては出来すぎている。
「分かったわ。すぐに参ります」
彼女は急いで身支度を整えると、謁見の間へと向かった。廊下を歩きながら、胸の奥で不安が膨らんでいく。これまでの異常と、この突然の来訪者。何かが大きく動き始めている予感がしてならなかった。
謁見の間の重い扉が開かれると、エリアナは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、これまで見たことのない風貌の人物だった。年齢は三十代に見えるが、どこか年齢を超越したような雰囲気を纏っている。深い青の髪は腰まで届き、瞳は時の流れを映すかのように神秘的な色をしていた。
そして何より、彼の周囲の空気が微妙に歪んでいる。まるで時間の流れそのものが、彼の存在によって影響を受けているかのように。
「ヴァレリア王国第一王女、エリアナ・ヴァレリア殿下にお目にかかれて光栄です」
男性は深々と頭を下げた。その所作は完璧だったが、どこか人間のものとは異なる印象を与えた。
「私はクロノス。時の世界より参った使者です」
「時の世界?」
エリアナは困惑した。そんな国は地図にも歴史書にもない。
「はい。人間界とは別の次元に存在する世界です。時間の流れを司り、管理する一族が住まう場所」
クロノスの説明に、エリアナは眉をひそめた。おとぎ話のような内容だったが、彼の纏う異質な雰囲気と、ここ数日の異常を考えると、単なる戯言として片付けることはできなかった。
「それで、その時の世界の使者である貴方が、何の用で我が国に?」
「率直に申し上げます。今、両世界は未曾有の危機に瀕しています」
クロノスの表情が厳しくなった。
「殿下もお気づきでしょうが、この数日、時間に関する異常が多発しています。これは単なる自然現象ではありません」
「では何なの?」
「古代に結ばれた、人間界と時の世界を隔てる封印に綻びが生じているのです。このまま放置すれば、両世界の時間軸が混乱し、最悪の場合、両方の世界が崩壊する可能性があります」
エリアナは言葉を失った。世界の崩壊など、あまりにも大きすぎる話だった。
「しかし、解決策がないわけではありません」
クロノスは一歩前に出た。
「両世界の調和を取り戻すには、人間界と時の世界の絆を深める必要があります。具体的には……王族同士の結婚による、血と魂の契約です」
「結婚?」
エリアナの声が上ずった。
「はい。人間界の王女と、時の世界の王子の結婚により、両世界を繋ぐ強固な絆を築く。これこそが、危機を乗り越える唯一の方法なのです」
「そんな……突然そんなことを言われても」
「殿下のお気持ちは理解できます。しかし、時間は限られています」
クロノスは手を差し出し、空中に光る文字を浮かび上がらせた。それは見たことのない文字だったが、なぜかエリアナには意味が理解できた。
『封印の綻び、拡大中。残り時間、約三ヶ月』
「三ヶ月後には、封印が完全に崩壊します。その前に契約結婚を成立させなければ、両世界に未来はありません」
エリアナは椅子にもたれかかった。あまりにも重大で、あまりにも突然の話だった。
「私に選択の余地はないということですか?」
「申し訳ございません。しかし、これは殿下お一人の問題ではありません。人間界すべての命運がかかっているのです」
クロノスの言葉に偽りはないように思えた。それに、ここ数日の異常を説明できる他の理由を、エリアナは思いつかなかった。
「結婚相手となる、時の世界の王子とは?」
「ルカス・クロニクル。時の番人一族の第一王子です。二十四歳……いえ、人間でいうところの二十四歳に相当します」
「相当する?」
「時の世界の住人は、人間とは異なる時間軸で生きています。ルカス王子の実年齢は約三百歳ですが、外見や精神年齢は人間の二十代前半といったところでしょう」
三百歳。エリアナは目を丸くした。
「王子の人となりについては、後日詳しくご説明いたします。ただ、お一つだけ申し上げておきたいことが」
「何ですか?」
「これは純粋に政略結婚です。愛情や個人的な感情は、二の次とお考えください」
その言葉に、エリアナの胸に小さな痛みが走った。王女として、いつかは政略結婚をすることは覚悟していた。しかし、異世界の王子との結婚など、想像もしていなかった。
「少しお時間をいただけませんか?父上にも相談したいし、この話があまりにも突然で」
「承知いたしました。しかし、一週間以内にはお答えをいただかなければなりません。準備にも時間が必要ですので」
「分かりました」
クロノスは再び深く頭を下げると、身を翻した。
「では、失礼いたします。一週間後、お答えをお聞かせください」
彼が去ると、謁見の間には静寂が戻った。しかし、エリアナの心は嵐のように混乱していた。
世界の危機。異世界との結婚。政略結婚。
どれも重すぎる現実だった。
彼女は窓の外を見た。城下町では、人々がいつものように暮らしている。彼らは、自分たちの世界が危機に瀕していることなど知らない。
その平和な日常を守るために、自分の人生を犠牲にする。王女としては当然の選択かもしれない。しかし、一人の女性として考えれば、あまりにも重い十字架だった。
「お嬢様」
セバスチャンが戻ってきた。
「城下の異常について調べさせましたが、やはり説明のつかない現象のようです。時計職人たちも首をかしげるばかりで」
「そう……」
エリアナは振り返った。
「セバスチャン、父上はもうお起きでしょうか?」
「はい。朝食の支度ができております」
「すぐに緊急の家族会議を開いてもらえる?とても重要な話があるの」
「承知いたしました」
セバスチャンが去ると、エリアナは再び窓の外を見つめた。
今日という日が、自分の人生の大きな転換点になることを、彼女は予感していた。そして、その予感は間違いなく的中するだろう。
遠く、城下町の時計塔が、また違う時刻を刻み始めていた。
---
国王アルフレッド三世は、朝食のナイフを途中で止めた。
「時の世界?」
エリアナが説明したクロノスの話を、彼は信じられない様子で聞いていた。
「はい、父上。最初は私も信じられませんでしたが、ここ数日の異常を考えると……」
「確かに、報告は聞いている。しかし、異世界などという話は」
隣に座る王妃マリアンヌが口を開いた。
「でも、他に説明がつくでしょうか?時計が勝手に狂ったり、日の出の時間が変わったり。これまでそんなことはなかったのに」
「それは……」
国王も言葉に詰まった。実際、宮廷魔法師たちも首をかしげるばかりで、明確な原因は分からずじまいだった。
「エリアナ」
国王は娘を見つめた。
「お前はどう思う?その話を信じるか?」
「分からないわ、父上。でも、何もしないで世界が崩壊するリスクを負うよりは……」
エリアナは言葉を選んだ。
「王女として、国民を守る責任があります。たとえそれが自分の幸せを犠牲にすることになっても」
王妃の目に涙が浮かんだ。
「エリアナ……」
「母上、お気持ちは分かります。でも、これは私の運命なのかもしれません」
国王は長い間沈黙していた。やがて、重い口を開いた。
「宮廷魔法師を呼べ。その使者の言葉に嘘偽りがないか、魔法で調べさせる」
「父上?」
「娘の人生を左右する話だ。慎重になりすぎるということはない」
一時間後、宮廷魔法師の老人が謁見の間にやってきた。彼は先ほどクロノスが立っていた場所を詳しく調べ、残留魔力を分析した。
「陛下」
魔法師は深刻な表情で振り返った。
「この場所には、これまで感じたことのない魔力の痕跡が残っています。それも、人間のものではありません」
「人間のものではない?」
「はい。時間そのものを操る力……そんなものを持つ存在など、伝説の中でしか聞いたことがありません」
国王と王妃は顔を見合わせた。
「つまり、その使者の話は本当だということか?」
「少なくとも、彼が人間ならざる存在であることは間違いありません。そして、時間を操る力を持っていることも」
魔法師は続けた。
「実を申しますと、ここ数日の時間異常について、我々魔法師の間でも議論が交わされておりました。あまりにも不可解で、自然現象では説明がつかないからです」
「それで?」
「もし、時の世界なるものが実在し、そことの関係に問題が生じているとすれば……すべての異常に説明がつきます」
静寂が流れた。やがて、国王がゆっくりと口を開いた。
「エリアナ、お前の決断は?」
エリアナは立ち上がった。王女としての威厳を込めて、父を見つめ返した。
「お受けいたします。ヴァレリア王国の王女として、そして一人の人間として、この世界を守りたいのです」
王妃が静かに涙を流した。しかし、それは悲しみだけの涙ではなかった。娘の勇気と決断に対する、誇らしさの涙でもあった。
「分かった」
国王は立ち上がった。
「では、その使者に伝えよう。ヴァレリア王国第一王女エリアナ・ヴァレリアは、時の世界の王子との政略結婚を受諾すると」
エリアナは深く息を吸った。これで、自分の運命が決まった。どんな結果が待っているにせよ、後悔はしない。
この決断が、自分の人生をどう変えるのか。そして、時の世界とはどのような場所なのか。結婚相手となる王子は、どのような人物なのか。
すべては未知数だった。しかし、エリアナの心には、不思議な安堵感もあった。
自分の人生に、ついに大きな意味が与えられたのだから。
---
一週間が過ぎるのは、あっという間だった。
その間にも、王国内の時間異常は悪化の一途を辿った。ある村では一日が三十時間になり、別の町では逆に十八時間しかない日が続いた。人々の間に不安が広がり、商売や農業にも深刻な影響が出始めていた。
約束の日、クロノスは再び謁見の間に現れた。今度は一人ではなく、数名の付き人を伴っていた。彼らもまた、人間とは異なる雰囲気を纏っている。
「殿下のお答えをお聞かせください」
「お受けいたします」
エリアナの答えに、クロノスは安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます。では、すぐに準備を始めさせていただきます」
「準備とは?」
「まず、殿下には時の世界の言語と文化を学んでいただく必要があります。また、契約結婚の儀式についても理解していただかなければ」
クロノスは付き人の一人を手招きした。それは美しい女性で、エリアナと同年代に見えた。
「こちらはセレーネ。殿下の教育係を務めさせていただきます」
セレーネは優雅に頭を下げた。
「エリアナ殿下、お会いできて光栄です。微力ながら、お力添えさせていただきます」
「よろしくお願いします」
エリアナも丁寧に応えた。
「準備期間はどの程度?」
「二ヶ月ほどを予定しております。その間に、必要最低限の知識を身につけていただき、結婚式の段取りも整えます」
「分かりました。それで、お相手の王子様は……」
「ルカス王子は、現在重要な任務に就いておられます。時間異常の拡大を少しでも食い止めるため、各地で対処に当たっておられるのです」
クロノスの説明に、エリアナは少し安心した。自分の結婚相手が、責任感のある人物だということが分かったからだ。
「結婚式は時の世界で行われるのですか?」
「はい。契約の効力を最大限に発揮するためには、時の世界の聖地で儀式を行う必要があります」
「つまり、私はこの世界を離れるということですね」
「結婚後は、基本的に時の世界でお過ごしいただくことになります。ただし、定期的に人間界を訪れることは可能です」
エリアナは複雑な気持ちになった。故郷を離れ、異世界で暮らす。それがどれほど大変なことか、想像もつかなかった。
「では、今日から準備を始めさせていただきます」
セレーネが前に出た。
「まずは、時の世界の基本的な知識から学んでいただきましょう」
こうして、エリアナの新しい人生が始まった。
毎日、朝から夕方まで、セレーネから時の世界について学んだ。時の一族の歴史、文化、言語、そして何より重要な、時間を操る力についての基礎知識。
時の世界では、すべての住人が程度の差こそあれ、時間に関する能力を持っている。時を早めたり、遅くしたり、場合によっては短時間停止させることも可能だという。
ただし、その力には大きな代償が伴う。時間を操れば操るほど、使用者の寿命が削られていく。特に強力な能力を使えば、一度に数年、場合によっては数十年の寿命を失うこともある。
「ルカス王子は、その中でも特に強力な能力をお持ちです」
セレーネがある日、そう教えてくれた。
「どの程度強力なのですか?」
「時を完全に停止させることができます。それも、広範囲にわたって。ただし……」
セレーネの表情が曇った。
「その代償も、また大きなものです」
エリアナは胸に不安を覚えた。自分の結婚相手が、危険な力を持っているということなのだろうか。
「大丈夫です」
セレーネは微笑んだ。
「王子は、その力をとても慎重に使われています。無闇に寿命を削るようなことはなさいません」
それでも、エリアナの不安は完全には拭えなかった。
二ヶ月の準備期間は、あっという間に過ぎていった。エリアナは時の世界の言語をマスターし、文化についても基本的な理解を得た。結婚式の手順も頭に入れ、いよいよ出発の日を迎えた。
人間界での最後の夜、エリアナは城の屋上に立っていた。故郷の景色を目に焼き付けようと思ったのだ。
「お嬢様」
セバスチャンが階段を上がってきた。
「明日からは、もうお会いできないかもしれませんね」
「そんなことはないわ、セバスチャン。必ず戻ってくる」
「気をつけてくださいませ。時の世界がどのような場所か分かりませんが、どうぞお体を大切に」
「ありがとう。セバスチャンにも、いろいろお世話になったわね」
エリアナは振り返った。
「この国のことを、よろしくお願いします」
「はい。お嬢様がお戻りになるその日まで、しっかりとお守りいたします」
翌朝、時の世界への出発の時がきた。
城の中庭に、見たことのない魔法陣が描かれている。クロノスとセレーネ、そして数名の付き人が待っていた。
国王と王妃も見送りに来ていた。王妃は涙を堪えるのに必死で、国王も表情を硬くしている。
「エリアナ」
国王が娘に歩み寄った。
「お前のことを誇りに思う。立派な王女になった」
「父上……」
「必ず幸せになれ。それが父としての唯一の願いだ」
王妃も娘を抱きしめた。
「体だけは気をつけて。そして、時々は手紙でも」
「ええ、母上。必ず」
エリアナは魔法陣の中央に立った。クロノスとセレーネがその両脇に位置する。
「では、参りましょう」
クロノスが呪文を唱え始めた。魔法陣が光り、エリアナの体が浮き上がるような感覚に包まれた。
最後に見た故郷の景色は、城の中庭で手を振る両親の姿だった。
光に包まれて意識が遠のく中、エリアナは自分の新しい人生について考えていた。
これから何が待っているのか。結婚相手のルカス王子はどのような人なのか。時の世界はどのような場所なのか。
すべては未知数だった。しかし、後悔はなかった。
自分の人生を懸けて、両世界を救う。それは王女としての使命であり、一人の人間としての選択でもあった。
光の中で、エリアナは新しい運命への扉を開いたのだった。