第92話 エースの惜別
(簡易人物メモ)
真田宏太: 南紀ウメスタSC所属FW
西野裕太: 同クラブ所属FW
三瀬学人: 同クラブ所属MF
ーーーーーーーーーー
2020年7月。タイ2部のリーグ戦を終え、見事に1部昇格を勝ち取り凱旋した南紀ウメスタSC所属の真田宏太は、黒船サッカーパークのクラブハウス前で、ラーチャブリーSCで同僚であった畑中哲也と別れた。これからチームに加入する選手と同時に姿を見せることに気まずさを感じたからであった。
南紀ウメスタとの選手契約は今月いっぱいで満了する。事前にGMの濱崎とは話し合いが終わっているが、真田は契約更新しないことを選択した。
来月からは、畑中が世話になっているというエージェントを通じて、タイ1部のラーチャブリーSCとの選手契約交渉に臨む予定であるが、すでにクラブとしては選手との条件合意は済ませているという認識であるため、交渉は半ば形式的なものになるだろう。
真田は正式にプロサッカー選手となる。サッカー後進国であるタイのトップリーグとはいえ、Jリーグのスカウトが何人も来ているような環境の中でサッカーをするのは、高校のインターハイ以来だ。
つまり去年、大阪文化大学のスカウト斉藤と話した、Jリーガーへの最短のレールに乗ることができているのだ(第55話参照)。
真田は自然とクラブハウス前に広がる練習場へ足を向けていた。まだ今日の練習開始時刻から随分と余裕のある時間帯ではあるが、すでにピッチ上でボールを蹴っている選手の姿があった。
ビブスをつけているが、おそらくユニフォームの背番号と合わせているのだろう、遠くからでも誰だかすぐに分かる。
背番号8と背番号11がボールを挟んで対峙している。11番が攻撃、8番が守備の1対1だ。
11番がボールを足で押さえつけると、左の足裏で右に転がして前傾姿勢を取る。8番はその動きに合わせて体重移動したその瞬間、11番が右足のかかとを使ってボールを逆方向に蹴り出すと、そのまま左から抜きに行った。
「おおー」
思わず真田も声を漏らす、綺麗なチョップドリブルであった。
それ自体は特別なテクニックでもなんでもないが、11番がそれをやったという意外性である。それは対峙していた8番も同様の反応であり、結果としてゴールを許す形となった。
「なんですか! そんなのもできるんじゃないですか!」
怒りながら笑う、そんな表現がしっくるくるような顔で、抜かれた三瀬学人が、西野裕太に対して声を上げた。
「う、うん。ドリブルは結構練習してるから…」
「なんで試合中にやらないんですか」
「試合になると、咄嗟に出てこないんだよね…」
ピッチの外から真田が拍手をすると、すぐに二人がオーディエンスの存在に気がついた。
「真田くん! 帰ってきてたの!?」
「ああ、さっき日本に着いたばかりだけど」
西野が真田の方に駆け寄ってくる。その後ろから、肩をすくめてゆったりとした歩調で西野に続く三瀬の仕草も相変わらずだ。
「約束守ってるみたいだな」
「あ、うん…今年はなんとか点取れてるよ」
「見てるよ」
真田が渡泰前に交わした西野とのやりとりを持ち出すと、西野はすぐに理解して頷いた(第55話参照)。
タイから日本の、しかも社会人サッカーチームの試合を見る手段などあるわけもないが、真田は濱崎から試合の映像は定期的に送ってもらっており、すべてフルタイムで見る時間はなかったが、だいたいのチーム事情はサッカーの内容は把握していた。
「なるほど、そういうことだったんですね」
二人のやりとりを聞いていた三瀬は、昨年の終わり頃から西野のプレイスタイルが劇的に変化した理由について、ようやく合点がいったようだ。
「それにしても振れ幅が大きすぎます。扱うこっちの身にもなってほしいものですね」
「はは…」
「それでも点取ってるんだ。チームには必要だろ」
「ええ、昨年の得点王がチームを出ていきましたからね」
三瀬の嫌味に真田は苦笑する。間に挟まれた西野はおろおろしつつも、話題を切り替えようと普段よりも声を張った。
「あ、昇格おめでとう! すごいね!」
「え? ああ、ありがとう」
「…おめでとうございます」
西野に続いて、三瀬は不貞腐れたように賛辞を送った。
自分のことを棚に置いた話にはなるが、県リーグのアマチュア選手ごときが、言語も文化もまったく異なるプロサッカーリーグで結果を残せるほど甘い世界ではないだろうと内心思っていたところ、きれいに見返された気分である。
「どうでしたか、タイのサッカーのレベルは?」
「うーん、そうだな…Jリーグでやったことないから、あんまりうまい言い方ができないけど、正直そこまでまるっきり勝手が違う感じじゃなかったよ。日本でやってきたサッカーの延長線上にある感じはした」
「やっぱりパスもらえなかったりするの?」
「いや、そういうこともなかったな…。畑中さんがいたし、外国人選手とは仲良かったからね」
「ーーー俺でもやれると思いますか?」
三瀬の質問には野心が垣間見えていた。真田のいなくなった南紀ウメスタにおいて、ゴールやアシストといった数字上は三瀬がチームでNo. 1である。将来のキャリアを考えた時、真田の後を追おうと考えることは不自然ではない。
「やれるんじゃないか? タイには三瀬みたいな選手は少ない。前線の選手はドリブラーが多いんだ。評価される可能性はあると思う」
「なるほど…参考になります」
「ただ、正直俺は運が良かっただけって気もする。偶然入ったチームには日本人選手がいて、監督からも評価されて、その年に1部に上がれるなんて。これで2部でくすぶるような感じになっていたら、日本でやってたほうが良かったと思うかもしれないな…」
もし三瀬が今のパフォーマンスを関西リーグでも継続できるなら、JFLのチームから声がかかってもおかしくない。そうすれば、Jリーグは目の前だ。
「今日から畑中さんがチームに入るはずだから、畑中さんに見てもらうといいよ。何年もJ1でプレーしてきた人だから、俺よりずっとちゃんと評価してくれると思う」
チームにどう伝わっているか分からないが、畑中が南紀ウメスタに加入することは大きな意味を持つと真田は考えていた。
これからチームがJリーグを目指すにあたって、Jリーグを肌で感じたことのある人間が内部にいない。GMの濱崎も海外畑であるし、監督の栗田も高校サッカーの出身だ。強いて言えば下村が元Jリーガーだが、J1でのプレイ経験はない。畑中の経験は現状のチームにとっては唯一無二なものだ。
そして畑中自身も、単純な選手としてだけでなく、引退後のキャリアも見据えて南紀ウメスタへの加入を決めた経緯もある(第67話参照)。おそらく選手の相談事には積極的に乗ってくれるはずだ。
「…真田くんは、これからどうするの?」
「そりゃ、タイの1部でサッカーやるに決まってるでしょう」
「どういう形でやるかってことか?」
西野が曖昧に頷いた。
「ウメスタとの契約は7月末までなんだ。もう濱崎さんとは話し合ったけど、7月で退団するよ」
「そっか、そうだよね…」
「?」
すでに半年以上同じチームでプレイしていない状況でなにを今更という表情の三瀬に対して、西野は、それでも真田が南紀ウメスタSCに所属している事実に意味を見出していた。
やはりどこか…というか、思いきり寂しい。自分と真田の接点はもうなくなってしまうということだ。
真田は小さく息をついてから西野に声をかけた。
「俺は来季にタイの1部で活躍して、そこで優勝を狙えるようなチームに移籍する。それでタイ1部で優勝して、その後Jリーガーになろうと思ってる」
それは予定と呼ぶにはあまりに不確実な話ではあったが、夢物語ではないと真田は信じていた。
その通りにキャリアを進められれば、23歳でJリーグ入り。ちょうど大卒一年目のJリーガーと同い年である。
「ウメスタもストレートで昇格していけば、多分その頃にはJFLじゃないか? 全然Jリーグから遠くないぜ」
「そっか…そういうことになるんだね」
西野の表情に徐々に明るさが戻ってくる。近い将来、たとえ同じチームでなかったとしても、同じピッチに立てる可能性は残されている。それは西野にとっては大袈裟に言えば希望だった。
「俺は俺で全力でやる。お前も三瀬からサッカー下手だなんて言われても気にすんな。逆に下手でどこまでいけるかやってみろよ。ーーーそれから、三瀬。お前は上手さだけでどこまでいけるかやってみろ」
「…わかった!」
「私が上手いだけだというのは心外ですね。これでも基礎トレーニングを欠かしたことはありません」
その意気だと真田は笑った。西野も笑うことができた。三瀬も心の中では笑っていることだろう。
2020年7月31日。
真田宏太、南紀ウメスタSCとの選手契約を満了。正式に退団。
つづく。




