第86話 黒船の休日(20/6月)
(簡易人物メモ)
糸瀬貴矢: 黒船サッカークラブ 代表
矢原智一: 黒船サッカーパーク 代表
細矢悠: 黒船ターンアラウンド 代表
田辺和善: 田辺組 専務取締役
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冷房の利いたひんやりとした空間に帯の解ける音が静かに響く。天然素材で作られた藤タイルの感触を踏み締めるだけで温泉の雰囲気が感じられた。
浴衣が取り払われ、白い素肌が露わになると、手にした白い手拭いを片手に静かに脱衣所から浴場へと続く扉を開けた瞬間。
温かな空気が全身を包むとともに、足元に広がった石畳の両脇に木々が囲うようにして立っていた。
浴場に続く短いアプローチではあるが、おそらく世界遺産・熊野古道をイメージしているのだろうと、全裸の細矢悠は立ち止まってその景観を目で楽しみ、手で触って、本物の葉であることを確認する。
浴場に出ると、そこは非常に独特な空間が広がっていた。まず目に入るのは、石畳に地雷で穴を開けたみたいに、小さな湯船が6つ。
「つぼ湯をイメージしてるんですよ」
「つぼ湯?」
後ろから声をかけられると、この温泉の建設を手掛けた田辺組の専務取締役である田辺和善が、腰にタオルを巻いて笑顔を向けていた。
つぼ湯とは、世界最古の湯と言われている熊野古道の中にある温泉のことである。それ自体は本当に小さな穴みたいな簡素なつくりだが、その気候やタイミングの違いによって、なんと湯の色が七色に変わることで知られている。
「さすがに色は変えられませんでしたが、大浴場の中でもちょっとしたプライベート空間があるのはいいかなと思っています」
「確かに落ち着きそうですね…」
つぼ湯エリアの先には岩に囲まれた大浴場が広がっているが、さらにその先に洞窟のような細道が目についた。
「あの先は何ですか?」
「家族用の湯船です」
「家族風呂?」
「あ、いえ、子供と一緒に入れる浴場ですね。逆にこの湯船は大人向け。入る人の属性に合わせて湯船を分けるっていう作り方をしているんです」
温泉、いやホテル全体を通じて、シニアとジュニアが同じように楽しめるというのがこの「ホテル山楽荘」のコンセプトだという。
「お風呂は静かに入りなさいとか言いますけど、子供にそれは無理じゃないですか。危ないのでもちろん騒いでくださいと宣言するつもりはまったくありませんが、常識の範囲内で楽しく入れる空間を別に作りたかったんです」
「分かります。俺も子供の頃は怒られながら泳いでましたよ」
改めて大人用の浴場に進むと、先客として糸瀬貴矢と矢原智一が湯に浸かっていた。
「田辺さん! 改めて、ホテル竣工ありがとうございます!」
糸瀬と矢原が揃って立ち上がり頭を下げる。田辺は役員が二人揃ってフルチンで頭を下げられたのは初めてだと爆笑しながら湯に入った。
今日は昨年から建設していた黒船グループの運営するホテル「ホテル山楽荘」のプレオープン日である。
プレオープンとは、本格的なオープンを前に、ホテルのオペレーションのチェックやスタッフの最終訓練などを実際の客に泊まってもらって行うテスト運営期間のことである。この期間に宿泊する客はだいたい関係者やその家族が多い。
今日はその初日であり、当ホテルのオーナーに当たる糸瀬、矢原、細矢の3人が招待されていた。田辺はガイド役である。
3人は全力で宿泊体験を確認するために今日明日の予定は全てキャンセルしており、黒船グループ発足以来、実質的には初めての休日なのだ。
「野趣溢れる感じですねえ」
「はは、そうなんです。白浜町は全力で海のイメージなんですけど、木国という町はどちらかといえば山じゃないですか。だからこの際、世界遺産の威光を全借りして。山のイメージに振り切ることにしたんです」
ホテルの名称も元々は建て替え前の「ホテル海楽荘」で名前でオープンする予定であったが、ホテルのコンセプトが明確になるにつれて、名称を「山楽荘」で始めることが自然な流れになっていたと言う。
全85室。部屋は2タイプ用意されており、内デラックスルームについては全て客室に露天風呂をつけた仕様となっていた。
「部屋の風呂はけっこうクリーンなイメージで、かっちり檜風呂にしたので、大浴場は自然あふれる感じで思いきりました」
「いや、すごくいいと思います。こうして空見上げてても、ちょっと別空間って感じしますもん」
「意外と外の音聞こえないでしょ?」
大浴場は空間全てを露天風呂にする大胆なデザインに踏み切っていた。冬は寒いじゃないかという意見はあったが、「震えながら洗ってこそ、後の湯船が楽しみになるんじゃ!!」という、会長小山修造の一言で決まったと言う。
「ははは、まだまだ会長はお元気そうですね」
「でもこれだと湯船を分けても隣の子供の声は聞こえちゃいませんか?」
「細矢さん、子供の遊んでる声を嫌がるお年寄りなんていませんよ。それが昔からの日本の町の姿じゃないですか」
ーーー子供とは希望であり未来だ。地元に何十年も腰を据えて街を見てきた人間が、子供の姿を見て喜ばないわけがない。
糸瀬は田辺組の社長である田辺善次と交わした会話を思い出していた(第25話参照)。
「お父さんも来てくれますかね」
田辺は、水音を立てながら手を上げた。
「絶対来ると思います。ああ見えて意外と狭いところとか好きなんで、つぼ湯気に入るかもしれませんよ」
あの風貌でちょこんとつぼ湯にひとり入っている姿を想像して、皆で笑い合った。
三人が和歌山の地に移住して、もう1年半が経とうとしていた。考えてみれば、初めて空港に降りた時、迎えに来てくれたのが目の前の田辺であった。
「田辺さん、どうですかね。街はあの頃と比べて変わっていますかね」
糸瀬の質問に、田辺はおでこに手拭いを乗せたまま視線を空に移した。
「どうでしょうね…。でもヤマト製鉄が倒産して失うはずだった街の活気が、たとえ一部だったとしても失わずに済んだことは間違いないですよ」
精一杯前向きに話してくれた田辺に感謝しつつ、言い方を変えれば未だ黒船の存在はプラスの影響を与えるには至っていないということを改めて認識した。
「でも、これからですよね。このホテルが来月オープンしたら、黒船サッカーパークに人が集まるようになります。そうすれば、きっと認知度は格段に上がるはずです。いよいよ、糸瀬さんが以前仰っていたボールパーク構想の第一歩ですよね」
「まずはどうやってこの僻地に人を集めるかですよね。…多分最初はみんな来てくれるんですよ。そこから先続くかどうかだと思っています」
もちろんリピーター実績のある元ホテル海楽荘のスタッフ達が運営するわけなので、その安心感はあるものの、やるからには一大ムーブメントというところまで持っていきたい。
「中身に自信があるならあとは宣伝じゃないですか?」
細矢の一言に田辺が冗談混じりに口を開いた。
「糸瀬さんならテレビ局買収するくらいのことはやっちゃいそうですね」
「…おお」
「なるほど」
田辺の言葉に細矢が声を上げる。矢原もぽんと手を叩いた。
「…え? あ、本気ですか!?」
「和歌山のローカル局…えーと、紀伊テレですよね」
「いや、ガチで結構買えちゃいそうだよな」
全員が全裸のため、その場で紀伊テレビの情報を得る手段はなかったが、ネットメディアや動画配信サービスの台頭により、テレビ局全体が苦境に立たされているのは誰もが知っている潮流である。その中でローカルのテレビ局となれば、かなり苦しい状況なのではないか。
「再生家の出番ってことですか?」
「や、実際その道もあるんじゃないですか、糸瀬さん」
「…田辺さん、紀伊テレビと接点ありますか?」
糸瀬の質問に田辺は頷いた。
「もちろんありますよ。うちCM流したりしてたこともあるので。宣伝効果というより、どちらかといえば紀伊テレビとの付き合いみたいところが大きいですが…」
「やってみるか」
おそらく完全な100%買収は無理だろうというのが糸瀬の読みだ。テレビ業界は既得権益が多分にありそうなので、キー局や公共性のある金融機関、和歌山県自体などが資本を入れている可能性が高い。株式を地味に買い上げていって外部の大株主になるくらいがせいぜいではないか。
「もし紀伊テレビがうちに対して良い印象を持ってなかったら、誰か付き合いのある企業見つけて株譲ってもらうのはありですよね」
「あまりやりたくはないな。株を持つなら、紀伊テレビからお願いされて持ちたい感じがする。まずはスポンサーあたりから入っておくのが無難」
細矢と矢原が頷いた。
「ホテルのCMやりますか」
「やるなら早い方がいいですよ。プレオープン中に撮影しないと、お客さん入ってからじゃ撮るタイミングなくないですか?」
「あ、あの子に出てもらうのはどうですか? アンバサダーの」
「話題にはなるかもしれないけど、お客さんのターゲットはファミリーなんだよなぁ。プレイパーク作ったから、できれば小さい子供」
マーケティング関連の畑にまったく手を出してこなかったであろう三人のおじさんたちが、ホテルのCMについてあーだこーだ話し合っているのを見て、田辺は笑ってしまった。
その議論の方向性が正しいかどうかはもちろん土建屋の自分にもわかるはずはないが、少なくとも、この人たちは楽しく仕事をやっているんだなということだけは伝わってきた。
結局この三人が集まっての久しぶりの休息で盛り上がるのは仕事の話であって、こうして黒船経営陣の短い休日は終わりを告げたのである。
つづく。




