第73話 大阪遠征の夜
(簡易人物メモ)
糸瀬貴矢: 黒船サッカークラブ 代表
福森正一: Inoxus 代表取締役
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南紀ウメスタSCが大阪遠征にてプレシーズンマッチ2連敗を喫している中、クラブの代表を務める糸瀬は、JR大阪駅直結のグラン大阪ノースタワー19階を訪れていた。
同オフィス19階にテナントとして入っている株式会社Inoxusは、2010年創業のIT企業である。
元々はウェブサービスの提供を生業としていたが、自社で構築した中古車の買取販売サービスが大当たりし、自動車セクターに特化することで事業を軌道に乗せることに成功した。
現在は主力の自動車関連サービスの他、小規模のITスタートアップの買収を積極的に行っており、次なる飯の種を探している最中というところか。
そして、少々毛色の違った取り組みとして、サッカークラブを保有していたりもする。本日南紀ウメスタの対戦相手であった難波CityFCの親会社が、このInoxusなのである。
ガラス張りのミーティングルームに案内された糸瀬は、入室と同時に四方のガラスが曇り、外から中が見えないように切り替わったことに驚いた。その様子を見て、糸瀬の向かいに座る男、Inoxus代表の福森正一が笑みを浮かべる。
「糸瀬さん、わざわざ大阪までお越しくださり、ありがとうございます」
「あ、いえいえ…。こちらこそ、この度は練習試合をご快諾頂き、ありがとうございました」
先程GMの濱崎から、今日の練習試合において、南紀ウメスタは0-2で難波Cityに敗れたとの報告は受けていた。
目の前に座る福森が、対戦相手である難波CityFCの実質オーナーに当たる人物であり、おそらく今日の試合結果についても把握していることだろう。
「いや、ぜひ前からお話ししたいと思っていまして。ほら、ビジネス界隈の方でサッカーの話できる機会なんてなかなかないじゃないですか」
「そうですね、私はほとんど初めてです」
「いえ、私も同じようなものですよ」
誠実さと野心を併せ持つ感じが、いかにも現代のCEOっぽい雰囲気を醸し出している。どちらかといえばトロングジムを率いる柳井のようなガツガツしている方が商談はしやすいのだが。
福森の言う通り、サッカークラブをほぼ新規で創設し、毎年昇格を繰り返して1部まで上がってきた点において、両者の共通点は多い。
「社長はなぜ大阪でサッカークラブを作ったのですか?」
糸瀬はとりあえず思いついた疑問を口にしてみた。
大阪は神奈川、静岡、東京などと並んでサッカー激戦区のひとつだ。J1に2チーム、J3に1チーム、合計3つのプロクラブが存在している。都市部であるためそれだけサッカー人口が多いことは選手獲得の面でメリットはあるが、やはり競争環境の激しさから、糸瀬だったら大阪は避ける。
「生まれとは関係ないんですが、私は怪我でサッカー選手としての夢をあきらめていたもので。それで経営者としてサッカークラブを作ろうと思ったきっかけとなった、海外のとある街に大阪が似ていたからですかね…」
いわゆる原体験というやつである。昨今のスタートアップに資金を入れるベンチャーキャピタリストをはじめとする投資家が重要視している要素だ。社会課題を解決するという企業の存在意義を語る上で、その企業のトップが如何に自分事としてその課題に向き合っているかを測るものらしい。
例えば獣医を目指している大学生が2人に志望理由を聞いた時、自分の家の隣にあった大学でたまたま獣医学部が有名だったんですと答えるAくんと、物心ついたときから一緒に暮らしていた犬のポチが病気で早くこの世を去ってしまい、少しでも長く多くの人がペットとの時間を過ごしてもらうために獣医を目指しましたと答えるBくん、どちらを応援したくなるかという話である。
「糸瀬さんはなぜサッカークラブを?」
「ああ…えーと、買った土地にたまたま新しいサッカースタジアムがあったから…ですかね」
「…え、どういうことですか?」
あまり南紀ウメスタSC創設の経緯を外部に向けて話したことはなかったかもしれないと糸瀬は思い返し、事の経緯を大変ざっくりとかいつまんで福森に説明した。そこには原体験の「げ」の字もなかった。
「じゃあ、糸瀬さんはサッカー全然好きじゃないんですか?」
「んー…社長は盆栽好きですか?」
「ぼ、盆栽? …いえ、ちょっと詳しくはないです。好きな方はすごいお金かけて趣味にされてますよね」
「それと、同じですね」
糸瀬にとってサッカーとは好きとか嫌いとかそういうカテゴリにあるものではないという回答に、福森はぽかんとした表情を浮かべた後、大いに声を上げて笑った。
「いやあ、おもしろい! 糸瀬さん、本出しましょうよ、盆栽サッカーってタイトルで。絶対売れますよ」
「定年した時のお小遣い候補として考えておきます」
「でも本当におもしろいですよ。サッカー好きじゃないのにサッカービジネスやってる人って、もしかしたら糸瀬さん以外日本にいないんじゃないですか」
「そうかもしれませんね」
世の中のビジネスが始まる理由は大きく3つある。好きだから、儲かるから、誰かから必要とされているから。そのどれにも当てはまらない糸瀬の例は大変レアだろう。
「考え方としては大学の研究に近いかもしれないですね。プロサッカーはビジネスモデルとして成立し得るのかどうか。あ、サッカー自体の興味はなくても、このビジネス自体は好きでやってるんでしょう?」
「好きでやってますね、もちろん」
「へえ…。ちょっと折角の機会ですから、お互い経営者同士、なにか一緒に仕事してみたいですね。盆栽サッカーの1ページに私も名前乗りたいし」
福森が前のめりになったところで糸瀬は切り出した。今日の面談は決して練習試合を組んでくれた御礼を含めた表敬訪問ではないのだ。
「御社ってITの会社いっぱい買ってるじゃないですか」
「ええ、投資ですね。アイデアやノウハウは持ってるけどそれをスケールする資金や企業と
してのガバナンスを持っていない会社を、私たちがサポートしています」
「どれも成功している会社さんばかりなんですか?」
「まさか」
あくまでもやっていることは投資。Inoxusとのシナジーを活用して事業を軌道に乗せることができる企業もあれば、そうではない会社もある。
福森は立ち上がって会議室の棚に置いてある会社案内資料を手に取ると、末尾に掲載しているグループ企業の一覧のページを開いて糸瀬に見せた。
「グループ会社は全部で10社ありますが、収益の出ている会社は3社ーーー残りは赤字です。将来性のある投資先もありますが、ここと、これと、これの3社はなかなか厳しいですね」
「赤字垂れ流している状態で大丈夫なんですか?」
「金がかかる追加投資はやらせていないのでランニングコストは大した金額じゃないんですよ。それに、無理やりやめさせるのもねえ…」
Inoxusは主力の自動車関連サービスに限って言えば全国規模でテレビCMを打つ規模の会社であり、企業のイメージ、レピュテーションリスクを無視できない。投資したはいいが思っていたものと違うから潰します、というのはさすがに通らないと思っているのだろう。
糸瀬は福森の指定した赤字3社の事業概要に目を通すと、ある一社を指差した。
「社長、この会社ですが、うちに売ってくれませんか?」
「え、『カプルム』ですか? い、糸瀬さん、この会社ご存知なんですか。自分で言うのもなんだけど、カプルムなら他の2社の方がマシですよ」
福森が本心からそう言っていることは伝わってきた。悪いことは言わないからやめた方がいい。お決まりのフレーズである。
「ここは買収した会社のさらに子会社としてM&Aの時にくっついてきただけで、うちとしても別に欲しかったわけじゃないんです。カプルムが何やってるか知ってますか? カレンダーですよ、カレンダーアプリ。もう市場はカレンダーツリーに独占されていて、言ってみれば淘汰される存在なんですよ」
カプルムは、カップルや夫婦、家族など複数の近しい人同士でスケジュールをシェアできるアプリである。カレンダーアプリ戦国時代の中で生まれたものであるが、すでに市場は、福森の言うカレンダーツリーやGoogolカレンダーなどで寡占状態であり、後発勢の入り込む余地などあるようには思えなかった。
「今カプルムはどうなってるんですか?」
「社長とエンジニアが2人いるだけの空箱みたいなものです。一応アプリ経由で広告収入はありますけど、そもそもユーザーが少ないですから、月次50万円も売上ないですよ」
「買います」
内情を聞いた上で即答した糸瀬に福森は驚いた。
「本気ですか?」
「もちろんです。1円でいいですか?」
福森はどうぞどうぞと言わんばかりに両手を広げた。
「なんだか申し訳ないですね…。コストだけ引き取ってもらうみたいになってしまって。ちなみにカプルムで何をされるおつもりですか?」
「うちってITシステム部門みたいなものがないので、IT詳しい人欲しかったんですよ。ただ採用するのもなかなか大変なので、箱ごと頂けるなら助かるなと」
糸瀬の回答に納得したように福森は頷いた。
「なるほど、人の採用という観点では確かに収益を生んでるかどうかは関係ないですもんね。じゃあ早速進めましょうか。小渕というのが社長なので、彼の連絡先教えますね」
「ありがとうございます。連絡してみます」
実にさりげなく黒船に新たなグループ会社が誕生することとなったが、このカプルムが社名を変えて飛躍を遂げることになるのはもう少し先のお話。
つづく。




