第54話 プロからのオファー
(簡易人物メモ)
真田宏太: 南紀ウメスタSC 所属FW
真弓一平: 黒船サッカークラブ 管理部長
下村健志: 南紀ウメスタSC 選手兼監督
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ウォンキットグループとの面談は実にあっさりと終わった。
正確にはまだ糸瀬とウォンキットジャパンの責任者であるプラウィットが、通訳担当として同席させられているアディソンとともに引き続きmtgを行っているが、おそらくサッカーの話題ではないだろう。鉄の女の異名を持つスラトン女史は、会合の場には現れなかった。
プラウィットから一枚の紙を受け取った真弓は、翻訳ツールを使いながら、それがラーチャブリーSCから真田宏太への正式なオファーレターであることを認識した。
そして今、4-0で快勝した選手たちを労うのもそこそこに、当事者である真田と監督の下村を引き連れて、真弓はコンテナハウスに戻ってきていた。すでに糸瀬とプラウィットはその場にいなかった。
To 黒船サッカークラブ
移籍開始日: 2019年12月1日
移籍形態 : 期限付き移籍
買取OP : 無し
移籍金 : 0 THB
契約期間 : 2020年3月末日迄※
※南紀ウメスタSCとの間の2019年4月1日付選手契約書が更新された場合、更新後の契約期間の範囲内で、本契約の更新内容を協議する。
To 真田宏太
年俸上限 : 1,200,000 THB
渡航費負担: ラーチャブリーSC
住居費負担: ラーチャブリーSC
乗用車 : ラーチャブリーSCより貸与
急な話で悪いがと前置きをしつつ、下村が真田に事の経緯を説明し、真弓がオファーレターの内容を共有した。
「真田くん。あまりこういったことに慣れてないだろうから中身を補足するよ。…まず前提として君は南紀ウメスタSCとの契約が残っている状態だけど、ラーチャブリーのオファーは期限付き移籍だから問題ない」
本来は、ラーチャブリーSCに移籍するイコール南紀ウメスタSCとの契約を破棄して、新たにラーチャブリーSCと契約を結ぶという構図が通常の移籍である。ちなみに、既存の選手契約を破棄する場合に違約金が発生するケースもあり、この違約金のことを世の中では「移籍金」と呼んでいる。
ただし今回は期限付き移籍、いわゆるレンタル移籍であり、文字通り選手を一時的に借りる契約になることから、その場合、両者の契約は共存し得る。
「契約期間のお尻を来年の3月としているのは、うちと真田くんとの選手契約が3月末までだからだね。ただタイリーグのシーズンは5月まであって、シーズン途中の中途半端な時期に契約が終わる形になってしまうから、延長オプションがついてるんだと思う」
延長するかどうかは協議としているが、実質はラーチャブリーSC側がそれを望むかどうか次第ということになるだろう。
「次に年俸、給与だけど…1タイバーツは約3.5円だから、日本円にすると420万円くらいになるね。ちなみにタイの1部リーグに所属する日本人選手は1,000万円くらいもらっているらしいから、もちろんそこと比べれば低いけど、そんなに悪い金額でもないと思う」
その点に関しては真田も頷いた。少なくともいま自分が給与としてもらっている金額よりはずっと多い。それにおそらく高卒1年目のJリーガーがもらう給与より高いのではないか。
「ちなみにもうひとつ契約的なことを言うと、レンタル先はあくまで大元の選手契約に基づく給与を代わりに払うっていう形になるから、このレター上では、彼らは負担する金額の上限を提示してきているだけだね。だから、この金額を受け取るためには、うちと真田くんとの間で、逆にこの条件以上のプロ契約を巻く必要がある。今の契約に合わせたら給料ゼロになっちゃうから」
「え、それは…大丈夫なんですか?」
真田の質問に対して真弓は頷いた。
「糸瀬さんと話はついてるよ。バックデートで年俸420万円の新しい契約を巻こう。契約期間は今まで通り。これで平仄は合うよ」
もちろんその条件でラーチャブリーSCとの契約が切れれば、南紀ウメスタがその年俸を支払うことになるわけだが、糸瀬はそのリスクは取ると判断した。
真田に対してその年俸を提示するということは、それが外部から見た彼の正当な評価という整理になり、選手に市場価値をつけるという糸瀬のクラブ方針に合致しているからである。
「さて、一旦契約内容については以上だけど、質問とかある?」
「………」
真田は渡されたオファーレターの文字と睨めっこをしたまま、やがて顔を上げると。
「なんだか急な話で…現実感がないというか、そんな感じです」
真田の言葉に真弓は頷いた。それはそうだろう。特に怪我明けの真田は何か吹っ切れたように強烈なパフォーマンスを見せていただけに、戸惑うのも無理はなかった。
「我々もできる限りでタイリーグ、そしてラーチャブリーSCについて調べてみたから、聞いてくれる?」
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
「まずタイリーグについてだけどーーー」
タイリーグは1部から3部までの3リーグで構成されたタイ国内のプロリーグだ。そしてラーチャブリーSCの所属するタイリーグ2部、通称T2は、全18チームがシーズンを通してホーム&アウェイ形式で戦う大会形式である。
シーズンは秋春制を導入しており、オファーレター上の移籍開始日はちょうどシーズン前半を終えたウィンターブレイクからということになっている。環境に慣れる時間は確保されており、シーズン後半開始前のキャンプから練習参加となる段取りになるはずだ。
「まだリーグ戦の前半は終わってないけど、ラーチャブリーSCは現在5位。首位との勝ち点差は6で、上位3チームが1部に昇格できるレギュレーションになっているから、十分狙える位置にいると言っていいと思うよ」
気になるタイリーグ2部のレベル感であるが、ざっくりJFL相当と表現している人が多いように感じると、データ収集を担当した木田は曖昧に表現していた。
「次にラーチャブリーSCについてだけどーーー」
正式なチーム名称はラーチャブリー・ウォンキットSC。タイ財閥のウォンキットグループが保有しているクラブである。チームカラーはオレンジ。指揮するのはタイ女子サッカー界のレジェンドと言われる鉄の女スラトン。昨季チームが1部昇格できなかったことで今年から招聘されている。
「男子サッカーを率いるのは初めてらしいが、タイを初めてワールドカップ出場に導いた名将と言われている。現場では絶対的な権力を持ってると考えたほうがいいだろう。つまり」
彼女に認められるかどうかが全てであると、そういうことだと真田は認識した。
「所属選手に外国人は3人いる。フランス人DF、韓国人FW、日本人MFだな」
「え、日本人がいるんですか?」
「ああ、畑中哲也。浦和でのキャリアが長いが、タイに移籍する前は福岡にいた右のサイドアタッカーだな。年齢は33歳。ラーチャブリーには2年在籍している」
「日本人がいるのは真田くんにとってすごくプラスだと思う。選手としても大先輩だけど、サッカー以外のことも色々教えてもらえるだろうし」
真弓の言う通り先人がいるのは心強かった。先方が真田にオファーを出した理由は分からないが、きっと先輩が結果を出して、日本人の質がチームに認められたからに違いないと真田は解釈した。
「基本システムは4-4-2。スラトン監督の意向は分からないが、普通に考えれば、2トップの一角か、畑中のいる右サイドハーフ、どちらかで使われる可能性が高いと思う。とは言ってもチームでおまえは一番若いし、キャリア的にも一番下っ端。いきなりスタメン起用と言うよりはスーパーサブ的に途中から使われるイメージを持っておいたほうがいい」
「…わかりました」
真田はほとんど試合の途中から使われる経験がない。高校でも1年の時からスタメンであった。しかしここから先は常に下剋上の世界になる。少ないチャンスをモノにする勝負強さが求められるのは、ラーチャブリーSCに限らずどのチームに行ってもそうだろう。
「と、事前情報はこれくらいだ。…さて、どうする、真田。オファー受けるか?」
「………」
正直、即答しかねた。プロサッカー選手を目指していることも、海外移籍まで視野に入れて英語の習得に勤しんでいることも事実だが、いきなりこのタイミングで海外に出るということは想定していなかった。
しかも行き先は東南アジア。Jリーグで活躍してからヨーロッパに出るといった一般的なイメージとは大きく乖離したキャリアになる。
「…まぁ、悩むよな。しかもお前ひとりで決められる話でもない。家族とも相談したほうがいい」
家にいる弟、妹たちの顔を思い浮かべた。金銭的なことを考えればオファーを受けるのがプラスだが、やはり離れ離れになることの影響は小さくない。
「正直クラブ側でも意見は分かれている。単純に監督として言わせてもらえれば、残ってもらった方がもちろん助かる」
「ただ真田くん、これはチャンスでもあるよ。社会人サッカーチームのアマチュア選手がいきなりプロ選手になれるわけだから。今の契約内容からすれば、彼らのオファーは破格の条件だと思う」
下村、真弓双方の意見ともに真田は理解できた。結局は自分で決めるしかないということだ。
「…どれくらい待ってもらえますか?」
「1週間後にまた話そう。そこで答えを聞かせてほしい。もちろんその前のタイミングで誰に相談しても構わない。ただ選手やサポーターに言うのは待ってほしい。そのことは相談する相手にも念を押してくれ」
「来週はリーグ戦もないし、ゆっくり考える時間はあると思う。練習はできるだけ参加してもらいたいけど、最後は君に任せるよ」
真田は頷いた。
移籍の決断まであと1週間。
つづく。




