第45話 西野家の日常
(簡易人物メモ)
西野裕太: 南紀ウメスタSC所属MF
西野裕介: 西野裕太の弟
大橋大地: 南紀ウメスタSCキャプテン
小久保亮二: 南紀ウメスタSC所属FW
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2019年7月。梅の収穫時期がピークを迎える中、株式会社西野農園はその同業者以上の繁忙期を迎えていた。
「坊ちゃん、おはようございます!」
「坊ちゃん! 早いですね!」
西野裕太が、朝食を取り終えて外に顔を出すと、西野農園の従業員として働く、南紀ウメスタSCのチームメイト達、大橋と小久保が大きな声で挨拶する。二人とも抱えていた完熟梅の詰まった箱をどんとその場に置いた。
「や、やめてください、その坊ちゃんっていうの…!」
「なーんでよ。社長の息子なんだから、坊ちゃんだろ、ねえ小久保さん」
「そうそう、坊ちゃんなんてこのシチュエーション以外で使うことないよ。あと夏目漱石くらい」
「ぼ、坊ちゃん…」
二人の後ろで弟の裕介がその呼び方を耳にして、笑いを堪えるようにサッカーボールを両手で抱えた。
「いや、裕介くんも坊ちゃんだよ」
「あれ、僕も坊ちゃん!?」
「社長の息子なわけだから、どっちも坊ちゃんだね」
坊ちゃん!と大橋と小久保が次々と転がっているサッカーボールを使ってシュートを打ち込み、木国JSCの正守護神を務める裕介がそれをばしばしと弾いていく。
「裕介、試合もうすぐだっけ」
「うん、そう! 大橋さんと小久保さんが練習付き合ってくれてるー!」
いつの間にやら、なかなか豪華な練習環境が用意されていた。
裕介は木国JSCのU10カテゴリチームのレギュラーを任されている。裕太も子供の頃は木国JSCでサッカーしていたことがあるが、スタメンは取れなかったことを考えれば間違いなく将来有望だ。
それに確か下村監督の息子である健人くんも、真田家末っ子の翔太くんもレギュラーだと聞いている。彼らが上級生になれば、結構大会でも上を目指せるのではないだろうかなどと考えながら、裕太は作業着に身を通した。
「あれ、大橋さん。そういえばC級ライセンス取れたんですか?」
「おう、取れたよ」
「おめでとうございます!」
大橋は照れたように頭をかいた。
サッカー指導者のC級ライセンスは、日本サッカー協会によって実施されるサッカー指導者向けの資格試験のことを指し、指導者として基本的な知識や技術を身につけることが目的である。
このC級ライセンスを取得することで、クラブチームや学校のサッカー部などで指導を行えるようになり、指導者としての第一歩を踏み出すことができるのだ。
ちなみにC級の上にはB級、A級、S級(現在のPro)と上のカテゴリが存在しており、J1チームの監督を務めるにはS級ライセンスが必要となる。
「これでシモさんとスクールできるってこと?」
「あ、そうなんですけど、まだスクールの方はシモさんが構想を練っていて、全然進んでないんですよ。今スポットで働いているスクールとも色々話してるみたいですけど」
「でも本格的になるなら会社がバックアップしてくれるんじゃないかな。食品販売とかホテルよりも全然サッカーに近いビジネスだし」
「そこのOKがまだ出てないってことらしいですよ。細矢さんけっこう厳しいから」
ビジネスのアイデアを持っていって知見のある人間からダメ出しやアドバイスをもらう、いわゆる壁打ちというやつを繰り返しているのだとか。
梅の収穫がひと段落した3人は、作業着に着替えてそれぞれの持ち場へついた。大量に作られた梅干しを並べて、ひたすら金箔を乗せていく。西野黒船食品の看板商品である「黒梅袖」の製造現場である。
黒糖に漬けた金箔入りの梅干しである「黒梅袖」はウォンキットホテル白浜とECの二箇所で販売しているが、売上は好調であった。ウォンキットホテルでは部屋に置くお茶請けとして使われるようになったことで、定期的に大量の注文が入るようになり、事業は軌道に乗った。ECにおいてもwetube動画での宣伝をこまめに行なっていることで、それなりに捌けるようになってきたのである。
手作業で金箔を乗せるのがオペレーションの中ではかなりの負担であるが、どんどん売れていく数字を眺めていると、やる気も湧いてくるというものである。
「もうすぐリーグ戦だなぁ」
マスク越しのくぐもった声で大橋がつぶやいた。
「そうですね」
「真田の怪我はどうだったんだ?」
「あ、捻挫で済んだのは良かったですけど、軽くはないらしくて」
「そっかー…でも骨折とか大事に至らなくてよかったな」
「トロングジムのトレーナーの方が結構サポートしてくれてるみたいで、早く治るといいです」
先日の黒船カップ決勝戦。試合終盤で相手のタックルによって負傷した真田は、そのままロッカールームに引き上げ、応急処置の後、病院で検査を受けた。
右足首の前距腓靭帯損傷。全治2ヶ月との診断結果が下され、8月から再開される和歌山県2部リーグの第3節、それから9月に行われる第4節も欠場が濃厚である。
リーグ戦が本格化する10月以降には復帰できる点が幸いだが、それまでの2試合はエース抜きでの戦いを強いられることとなる。
「真田のポジションには坊ちゃんが入るのか?」
「まだシモさんも決めかねてる感じみたいですよ」
小久保の質問に大橋が答えた。
真田がチームを離脱して以降、練習試合を2回ほど行っているが、フォーメーションは流動的だった。
ひとつは真田の抜けたところに西野が入る今までの形だが、もうひとつは小久保を1トップ気味にして、西野は最近定着してきた右のウィングバックにそのまま置くというパターンもあった。
「三瀬くんはそっちの方がやりやすいって言ってましたね」
「いや、あいつの場合その方がゴールに近いところでプレーできるからって理由だけだろ」
「あはは、確かにそうですね」
小久保1トップの形の場合、その後ろの2シャドーに三瀬が配置されるので、とにかく点を取って目立ちたい男からすれば、そちらがお好みなのだろう。仮に倒されてもファールが取れるなら直接FKが狙えるというおまけ付きのポジションである。
「でもあんまり今のメンバーでシステムがどうとか話しても意味ないかもな。これからもどんどん新しい選手は入ってくるだろうし」
「えっ、そうなんですか?」
「そりゃあそうだろ。黒船カップでは1部のチームぶっ倒したけどさ、正直ほとんど差はなかったじゃん」
大橋の言葉に裕太が頷く。初戦も準決勝も決勝も、すべて1点差ゲーム。勝てたことは自信にはなったが、決勝を含めどの試合もどちらが勝ってもおかしくない内容だったと思う。
「今年昇格して来年になったら、そいつらとリーグ戦やるんだぜ。今のチームで来年全勝できるかって言ったら…うーん、できるかもしれないけどさ。今回みたいに怪我人だって出てくるかもしれないし、選手の補強は必要だよ」
「おお、キャプテンらしいコメント」
「C級ライセンス持ちですから」
小久保の世辞に気を良くした大橋を尻目に、裕太はその事実を無言で受け止めていた。
裕太個人として黒船カップで一番印象に残っているのは初戦の真田にアシストしたあのプレイだ。
ゴールを決めて真田が自分を抱えながらコーナーフラッグまで走った、ああいう瞬間をまた味わいたい。そのためにはこれから始まるであろうポジション争いを制してピッチに立たなくてはならないのだ。チームで一番下手な自分は、人一倍努力しないといけない。
「西野、おまえ三瀬の受けてるフィジカルトレ、一緒にやってみたらどうだ?」
「え?」
「おまえスタミナあるけど、そんなにフィジカル強くないだろ。球際の強さとか手に入れたら、レベルアップするんじゃねーかな」
「うーん、確かに。何がいいんでしょうね…」
「あんまりチームの練習だと個人スキルの方にベクトルが向かないしなぁ。…まだ若いんだから、どんな選手にだってなれるよ。誰かに相談してみたらどうだ?」
「そうですね…」
「俺が相談に乗ってやろうか? このC級ライセンスコーチが」
「いや、もっと上のコーチの方が…」
「ちょっと小久保さん! そこは乗っかってくださいよ!」
南紀ウメスタSCに入って、裕太の日常は大きく変わった。もちろん高校を卒業して西野農園に就職したので新たな環境での生活が始まったわけだが、農家の高年齢化が進む中で、自分と歳の近い人達と一緒に働くことになるとは思っていなかった。
西野農園だけでなく、今こうして黒船食品の仕事も掛け持ちすることになり、父は今まで見たことのないくらい忙しそうにはしているけれど、それでも楽しそうに見えた。幸いなことに、今年は梅の収穫も想定以上に伸びており、銀行への返済も問題なさそうだ。
「まだ黒梅を売ってるところって、白浜のホテルだけなんだよな。これで他のホテルとか、それこそ道の駅とか土産物屋とかでも売るようになったら、どうなっちゃうんだ?」
「いま福島さんが外部の工場探してるみたいです。さすがにうちの敷地だと製造には限界があるので」
「すげえな。こうやって事業って大きくなっていくんだな。勉強になるわ」
仕事もサッカーも同じだ。結果がついてくれば組織は大きくなる。そういった意味では、新しい選手が入ってくることは歓迎しなければならないのだろう。
「選手増えても梅干し組のみんなで頑張ろうぜ」
「そうですね!」
「一番ヤバいのは俺だよ。年齢もきついし」
「30歳なんてまだまだですよ。シモさんなんて37っすよ。あ、小久保さんもライセンス取って一緒にスクールやりましょう!」
「…考えてみるよ」
リーグ戦再開まであと2週間。仕事とサッカーを両立させながら、選手たちは来季の昇格を目指して走り続ける。
つづく。




