第39話 承継の形
(簡易人物メモ)
細矢悠(13): 黒船TA 代表
森田梢(6): 黒船TA 社員
糸瀬貴矢(13): 黒船SC 代表
小山修造(2): ホテル海楽荘 会長
小山修治(2): ホテル海楽荘 社長
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黒船グループの本社ビル3階の雑に貼り付けられた「PJ Seesaw」の紙を森田梢がゆっくりと剥がした。
PJ Seesawは今日を持って終わりを迎える。海楽荘のDD、経営陣のヒアリングに加えて、宿泊客のアンケート調査、タイの投資家ウォンキットグループとの面談。全ての材料が揃い、細矢が最終的な判断を下したのだ。
「細矢さん、これでよかったんでしょうか」
森田が淡々と資料の整理を続けている細矢に声をかけた。細矢は手を止めずに答えた。
「やるべきはやっただろ。結論に自信はあるよ、俺は。最初に思っていた形とは違うけどね」
森田はその言葉を聞いて、半ば自分に言い聞かせるように何度か頷いた。最初目指していたゴールと異なる方向になることはこの世界では珍しくない。
「後は糸瀬さんに任せよう」
今頃ちょうど話をしているはずだと、細矢は窓から外を眺めた。
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小山修造は海開き前の白良浜を臨むベンチに腰掛けていた。
白砂に囲まれた海は40年前から何ひとつ変わっていない。変わったのは周りだ。時代も変わり、街も変わり、人も変わった。自分はどうだろう。変わったのか、変わっていないのか。どちらが正しいのかはわからなかった。
隣に男が腰掛けた。約束の時間になったことに気がついた。
「…売ることにしました」
修造はそう答えた。糸瀬は「そうですか」と短く返した。
「私は死ぬまでこの海を眺めて過ごすんだと思っていましたが、そううまくはいかんものですな…」
「この海を眺めて過ごしますよ。息子さんが引き継ぐんでしょう」
ウォンキットグループ傘下のホテルになっても、代表は小山修治氏が続投することは決まっていた。父親として息子のホテルを訪れることはなんの不思議もないと、糸瀬は言いたかったのだろう。
「ウォンキットの話はどうでしたか?」
「ええ、正直よかったです。ちゃんとした人達でしたね」
「…息子はこのホテルで育ち、方向は違えど真剣にホテルの未来を考えていました。そんなおかしな人達でないことは、初めから分かっていたんです」
ウォンキットグループは海楽荘に寄り添った提案をしてくれていた。従業員は全員でないにしろ、基本的には継続雇用。既存の宿泊需要に応えるために、一定の安価な部屋は残しながらも、インバウンドに対応すべく語学に長けた人材の確保とラグジュアリールームの新設が彼らの戦略であった。
今まで積み重ねてきた海楽荘の歴史を承継しながら、自分たちのカラーと融合させる、非常に現実的なプランであると黒船側は判断していた。
「どうして売ることに決めたんですか?」
「…この前、細矢さんに言われた通り従業員の子達を集めて、話を聞いたんですよ。お客様がうちのホテルを選んでくれる理由をね」
「どうでした?」
修造は拳を握りしめた。
「…それが、みんな知らなかったんですよ。そんなこと聞いてもいなかった…。うちはお客様と向き合ったホテル運営ができていなかった」
数字に追われ、日々の業務を繰り返すうちに基本的なことを疎かにしていたことを、修造は痛感した。それはひとえに、経営…つまり自分のせいであった。
「息子はその基本的なことをしっかり調べて、その上で結論を出したことに気がつきました。…そして、ホテルを任せることにしました。駄目な親を見習わずに育ってくれたことには、感謝したいです」
会社がウォンキットグループのものになったとしても、息子が社長として舵を切ってくれるなら、きっとこのホテルはこれから良くなっていく。修造が株式の売却を決断した理由だった。
「後悔はありますか?」
「…後悔だらけですよ。しかし70にもなってそんなことに気がついたとして、何も取り戻すことはできません」
「…あきらめるんですか?」
修造は初めて隣に座る糸瀬の方を向いた。
「もう一度イチから、今度はお客さんと向き合いながら、最高のホテルを作る気概はありませんか?」
「…な、何を仰ってるんですか?」
糸瀬は一枚の紙を修造に渡した。
「これは…?」
「うちの社員が海楽荘に宿泊したお客様からお聞きしたホテルの感想をまとめたものです。新しく入った子なんですが、ばか正直に泊まり込みで全員に聞いて、300件のアンケートになってます」
「おお……」
修造は両手でその紙を手にして、老眼を酷使しながらそこに書かれていた字に目を凝らした。
「修治さんの言う通り、立地が良い、値段が安いというコメントは確かにあります。しかし、一番目を引くのは…ーーー従業員の方々の接客姿勢ですよ」
受付の方が毎回自分たちの名前を覚えてくれている。
スタッフが子供といつも遊んでくれる。だから子供が行きたがる。
夜中に子供が熱を出した時、スタッフの方が何人も来て看病や救急車の手配をしてくれた。
「………」
修造は目頭を押さえた。
自分たちのやってきたことを認めてくれている人のことを、何ら気付かぬまま仕事に明け暮れていた。
「会長の言ってた通りでした。ホテルに泊まって笑顔で帰ってくれたお客様が、また笑いたくてこのホテルを訪れていたんです」
このホテルの特徴は従業員の質と接客サービス。
その目に見えない、評価されにくい強みが、老朽化していく設備や新しい競合ホテルとの争いにより下落していくホテルの収益を、ギリギリのところで踏みとどまらせていたというのが、アンケートをまとめた森田の結論であった。
「繰り返しますが、もう一度ホテルやる気はありますか? 我々はお手伝いしますよ」
「…ーーーいえ、海楽荘を息子に任せるのは、もう決めたことですから…」
「そうじゃありません。本当にイチからやる気がありますかと、聞いてるんです」
糸瀬がもう一枚、修造に紙を渡した。
「これは…?」
「出資契約書です。新しい会社の」
「新しい会社?」
修造は乱暴に目を擦って涙を拭くと、改めてその紙に目を落とした。
「うちの保有している土地でホテルやってみませんか?」
数時間前。
報告をすべて聞いた糸瀬が細矢に提案した。
「やるか、うちで」
「え、なにを?」
「だからホテルだよ」
細矢は目を見開いた。
「黒船サッカーパークで?」
「そう。目の前にこんな良いリソースが落ちてる。森田さんの取ってきたアンケートが正しいなら、この接客レベルで、設備を全部新しくして始めれば、勝てるんじゃないか?」
糸瀬の言葉に細矢は視線を上に向かつつ、同意した。
「確かに。どっちにしても、サッカーパークに宿泊施設は設置する計画でしたし。イチから人集めるより、まとめて移してきた方が効率的ですよね」
「それに、この形まで持っていって紀南信金の理事長に報告すれば、融資取れるぞ」
このまま結果を報告したら、結果外資にホテルを買収されましたという結論のみが残り、黒船が本件に関与した意味は何もないということになってしまう。けれど違う形でホテル海楽荘を存続させれば、話はまったく違ったものになるだろう。
「賛成です。やりましょう。森田さんも喜ぶんじゃないかな。彼女はなんとかホテルを再生させようと思ってこの資料、作ったはずなんで」
「よし。矢原呼んできてくれ。やるなら矢原が全部仕切ることになるから、ほっしーは引き継ぎ。俺は、会長を説得してくる」
糸瀬は数時間前のやりとりを思い返しながら立ち上がると、修造の両肩に手を乗せた。
「修造さん。あなたが今回の株式売却で得た資金、そのまま新しい会社の設立資金に回して頂ければ、それと同額以上はうちが出します。…新しくできるホテルの名前は海楽荘にしましょう。海楽荘はここで終わるわけではなく、新しく生まれ変わるのです」
「そ、そんなご提案……本当によろしいのですか」
「海は見れなくなるかもしれないですよ。のんびり余生を過ごすことはできないかも。それに自分達以外の、外部の株主の下になることは変わりません。ウォンキットが黒船に変わるだけです。つまり、あなたが全てを決められる会社にはなりませんよ」
「そんなこと…!」
修造は立ち上がって、しっかりと地に足をつけた。
「お客様が待っているんです。1日でも早く、新しい海楽荘をお見せしなければ死んでも死にきれない」
「わかりました。会長、忙しくなりますよ。場所は木国です。今度は和歌山を代表するこの白良浜の助けは借りられません。それでもお客様に笑って頂けるホテルを作れますか?」
「それは…全員で考えます。海がなくても、お客様を満足させられるホテルの形を」
「その気持ち、忘れないでくださいね。会長は従業員の方をまとめてください。こちらは今回の会社設立とホテル建設の準備を始めます」
修造の目は決意に溢れていた。もう一度、今度こそ和歌山で最高のホテルを目指す。先代からホテルを引き継いだときに誓った言葉が頭の中を駆け巡った。
その後、ウォンキットグループの従業員継続雇用という点のみが変更され、株式売却は円滑に進んだ。息子である修治氏も黒船の逆提案には賛同してくれた。それでもやはり親子はここで袂を分つつもりらしい。
「親父に客を取られないよう気をつけないといけないですね」
「ホテルができたら修治さんご招待しますよ」
「うちのホテルのリブランド終わったタイミングで皆様もご招待します。…糸瀬さん。あなた達が来てくれてよかった。黒船の皆さんもビジネス大変だとか。何か手伝えることがあったら何でもおっしゃってください。恩はしっかり返さないとね」
まだ先の話となるが、2020年、和歌山にふたつのホテルが新たに誕生する。
ひとつは白浜を代表するラグジュアリーホテルの一角に名を連ねることとなるウォンキットホテル白良浜。
もうひとつは、温かい接客が特徴の新生、ホテル海楽荘。PJ Seesawは矢原をプロジェクトリーダーとして、継続する形となったのである。
つづく。




