第3話 三本の矢
(簡易人物メモ)
糸瀬貴矢(2): 三矢HD 代表取締役
矢原智一(初): 三矢HD 取締役
細矢悠(初): 三矢HD 取締役
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東京都渋谷区の恵比寿駅西口に広がる飲屋街。その中にひっそりと佇む雑居ビルの3階が、2018年10月に設立した三矢ホールディングス株式会社(以下、三矢HD)のオフィスである。
三矢HDは、旧TAパートナーズの創業メンバーである、糸瀬貴矢、矢原智一、細矢悠の3人が、とりあえず何かあったときのために共同で作った空箱の会社だ。
実際の事業目的は特に決めておらず、しばらくは株式売却により得たお金で、贅沢を満喫してから次のビジネスを見つけるつもりで、設立以来何も手をつけていなかった。
カラスの声が閑散とした街に時折響き渡る中、糸瀬は共同創業者の二人を朝イチで呼び出していた。なお、先日のパインキャピタル松木とのやりとりは事前に電話で伝達済みである。
「本日はお忙しい中、お集まり頂きありがとうございます」
物件の引き渡しの時に立ち会って、その日に机と椅子とホワイトボードを運んできただけの、見た目完全な物置小屋の真ん中で、不釣り合いにどかんと鎮座する巨大なテレビ。糸瀬はその脇で、芝居がかった口調とともに正面に座る二人に向かって軽く頭を下げた。
松木にそそのかされてから一週間。自宅へこもって全方面のデスクトップ調査と資料作成に明け暮れたその成果が、パワーポイントの資料として画面に表れている。
『PJ黒船』
PJとはプロジェクトの略である。一部の金融機関では、機密情報やインサイダー情報などを取り扱うことがあるため、具体名でやり取りすることを避けるべく、案件にプロジェクト名をつけて内外で呼び合うことが一般的だ。
「黒船ってなんですか?」
早速メンバー最年少の細矢が挙手をする。細矢は外資系金融機関にプロパーで入社し、その後も含めると糸瀬とは8年仕事を共にする関係だ。ちなみに隣に座る矢原は不動産ファンド出身ではあるが、付き合いの長さで言えば細矢と同様である。
「プロジェクト名」
「なんで黒船なんですか?」
「それはね、この雑誌をご覧頂けますとお分かりになるかと」
糸瀬が机の上に置いてある一冊の雑誌を掲げて二人のそばへ置く。それは昨日発売の『極東経済』であった。ビジネス雑誌ではあるが、どちらかといえばゴシップ寄りの攻めた内容を売りとする、万人受けはしないがコアな読者を囲っている業界誌のひとつだ。
細矢と矢原が覗き込むと、特集記事のタイトルにはこう書かれていた。
『ヤマト製鉄の犠牲となった地方都市に投資家上陸。彼らは白馬の騎士か黒船か』
「え、めちゃめちゃすっぱ抜かれてるじゃん!」
思わず矢原が声を上げる。無理もない。まだこの話が始まって一週間しか経っていないにも関わらず、糸瀬の動きを先読みしたかの如く、大々的に取り上げられていた。
「違うんだなぁ、よく読みなさい」
糸瀬の言われるがままに二人がペラペラとページをめくると、見慣れた顔の老紳士がきっちりとした黒のスーツを身にまといインタビューに答えていた。 件のパインキャピタル会長、松木茂人その人である。
「いや、勝手になにやってんですかこの人!」
「思いきり売られてますね、情報。…というか、情報を生み出した人が直接話してるんだもんなこれ」
ちなみに三人揃った場合、大抵は糸瀬がボケ、矢原がツッコミ。一歩引いた位置でコメントするのが細矢となる。
時間軸から言って松木がインタビューを受けたのは、糸瀬と話すよりも前のタイミングだ。この話を聞けば糸瀬は必ず手を出すだろうと踏んだ松木が、ゴシップ誌を使って既成事実を作りにいったことは明白だった。
「いやあ、見事にやられたね」
「笑ってる場合じゃないでしょ! このジジイのせいで俺らの30億円がわけのわからん土地になっちゃいそうなんですよ!」
「まぁまぁ矢原さん。出ちゃったもんは仕方ないですよ」
ばしばしと誌面を叩き怒りを露わにする矢原をなだめながら、細矢は糸瀬に話を進めるよう促した。
以下は糸瀬渾身のパワーポイント資料より抜粋したものである。
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Exective Summary 案件経緯
本件は、2018年9月に会社更生計画を申し立てたヤマト製鉄株式会社(以下、ヤマト)の再生プロセスの一環として、同社の保有する和歌山製鉄所跡地の一部を、三矢ホールディングス(以下、当社)にて買い取るべく、30億円を拠出するものである。なお、本件は広義で投資案件として取り上げるもの。
ヤマトは、1933年に創業した国内準大手の製鉄メーカーであり、最盛期には売上2,000億円の事業規模を誇っていたものの、昨今の中国メーカーによる過剰生産により、商品価格全体が低迷した影響で、売上は年々減少。関西地方に点在していた製鉄所を順次閉鎖して固定費の削減に努める中、結果として業績回復の見込みが立たず、今般、事業再生の道を選択したものと思われる。
更生計画認可前の状況であるが、本件土地を含めた和歌山製鉄所は閉鎖が既定路線となっており、製鉄所の所在する和歌山県木国市経済への影響は甚大なものが想定される。
当社は対象土地の購入に合わせて取得するサッカースタジアム及び練習グラウンドを活用し、Jリーグチームの存在しない都道府県のひとつである和歌山県に、初のプロサッカーチームを誕生させるべくサッカークラブ運営を通じて、地域住民の支持を得ながら木国市全体の活性化を通じて地域の再生を図りたい。
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「なにか質問はありますか」
「…そうですね。一応、流れは理解しました」
普段自分から資料を作ったりしない糸瀬が自ら手を動かして説明している事実を勘案の上で、矢原はしぶしぶ落ち着きを取り戻すことにした。隣で細矢が手を挙げる。
「はい、ほっしー」
「そもそもサッカークラブの運営って儲かるんですか? 儲からないんだったら正直やりたくないですね」
金融マンらしい物言いではあるが、本件あくまでも投資として検討する以上、その視点は決して無視はできない。
プロスポーツのビジネス自体どこか夢を追うところがあり、金融の人間からすれば儲かるイメージは正直ないと言っていい。実際Jリーグの複数のクラブにおいて収支が赤字となって、大企業のスポンサーをつけたり、行政の支援を受けたりといった救済のニュースを時々目にする。
糸瀬はパワーポイントを何枚か進めて、直近におけるJリーグクラブの数値実績を説明するページで画面を止めた。
「えー、マーケットとしては追い風。リーマンショック以降、8年連続で拡大中だ。ちなみに直近で一番儲かってるクラブは神戸で、売上高90億円、営業利益で15億出してる。…ただクラブ全部で平均すると、J1もJ2もJ3も、すべて赤だ」
「あれ、でも15億円も利益出るなら全然ありですね」
「いや、日本で一番有名なクラブとか、そのレベルになって初めてこれくらいの利益を出せる可能性もある程度の話だろ。まずそのJ1の舞台に上がるまでに何年かかるんだよ」
数字を聞き若干乗り気になる細矢と、引き続き懐疑的な矢原のコメントを受けて、糸瀬は再びPCを操作するとリーグカテゴリの説明を付け加える。
「新しいチームとしてリーグへの加盟を申請した場合、和歌山の場合は県リーグ3部からスタートする。そこから県の1部、さらに関西2部、1部へ上がって、その上のJFLを通過して初めてプロ、J3だ。全てストレートで昇格しても、6年かかる」
「最短でも6年…気が遠くなりますね」
TAパートナーズですら創業から5年でExitしているわけで、今回のPJがいかに先が長く、大掛かりな話になるか思い知らされた細矢は思わず天井を見上げた。
「6年かけてリーグ勝ち上がっていく間、俺らは何をするんですか?」
「必死に金を作る」
矢原の素朴な質問に対して、糸瀬は簡潔に答えた。
「金? 強い選手取るため?」
「それもあるかもしれないけど、一番はスタジアムの改修だなあ」
「スタジアム?」
対象のスタジアムの収容人数は5,000人。これはアマチュアからすれば持て余すほど大きいが、J1の舞台に立とうと思うと小さすぎるのだ。
収容人数15,000人。J1基準のスタジアムを用意するためには、その改修工事に200億円はかかるかもしれないと、糸瀬はそのまま二人に伝えた。
「200!?」
「反対」
曲がりなりにも億万長者である3人の全財産を合わせても到底及ばないその巨大な金額を耳にして、先程までポジティブに捉えていた細矢も開いた口が塞がらなかった。三本の矢がまとめて折れる寸前である。
「あと5、6年で手元資金を200億にするのはさすがに厳しい。それは俺もわかってる。となれば、借りるしかない」
「借りる? 銀行から? むりむり、借りれるわけないでしょ」
「だから、チームがリーグを上がっていくその時間を使って、銀行が200億円を貸してくれるレベルの企業を自分たちでつくる。これが今回のミッションだ!」
漫画的に表現するなら、糸瀬の背後にはでかでかと「どーーん!」の文字。対する二人の背中には「ずーーん」だ。
このまま何もしなくても死ぬまで生きていけるであろう金を手にしながら、2ヶ月でそれを投げ捨てようという社長の意向に、矢原は眩暈を覚えそうになった。その隣で電卓を叩いていた細矢は顔を上げると。
「真面目な話、勝算はどのくらいありますか」
「…真面目に答えるとわからん。感覚的には、そうだな…少なくとも出した30億円は戻して終われそうな気はする」
「なるほどですね。…仮に俺らが断っても、糸瀬さんひとりでやるつもりでしょ?」
「やる」
やることはもう糸瀬の中で決めていた。松木の言葉を借りるわけではないが、いち企業ではなく街全ての再生。再生家の糸瀬からすれば、やりがいしかなかった。
ちなみに二人に断られた場合は、気は進まないが、松木に頭を下げに行くしかないだろう。なんせ100億円儲けさせたんだ。必要資金の一部20億円くらいは貸してくれそうな気がする。
矢原と細矢はそれぞれが思案した結果、顔を見合わせると。
「まぁ、糸瀬さんが本気でやるって言うなら、そりゃ付き合うけどさ」
「糸瀬さんのことだからなんか勝ち筋があるんですよ矢原さん」
軽口を叩き合う中であるとはいっても、糸瀬は創業者の二人から信頼を得られていた。今彼らの手元にある資金も、糸瀬がTAパートナーズの代表として会社を牽引したおかげであると心のどこかでは考えているのかもしれない。
いずれにしても、二人の意思を確認できたところで、言い出しっぺの糸瀬が拳を振り上げた。
「俺たちで、サッカーの街をつくろう!」
糸瀬に倣うも、気乗りせずに弱々しく拳を掲げた矢原。他人事のようにぱちぱちぱちと拍手で返す糸瀬。
こうして日本を代表する企業再生ファンドの創業メンバーが、2ヶ月の時を超えて再び結成し、無事にPJ黒船が正式にスタートしたのである。
つづく。