第34話 白騎士の依頼
(簡易人物メモ)
糸瀬貴矢(11): 黒船SC 代表
矢原智一(10): 黒船SP 代表
細矢悠(10): 黒船TA 代表
谷本芳朗(初): 紀南信金 理事長
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紀南信用金庫は、和歌山県木国市を拠点とする信用金庫である。1911年に創業した歴史ある金融機関であるが、昨今の金融業界の再編の流れを受けて、中小4つの信用金庫が合併して今の組織となっている。
和歌山といえば第一地方銀行である紀伊銀行の存在が圧倒的であり、そのブランドを活かして専門的かつ先鋭的な金融分野にも積極的に進出していることで、県外からの認知も非常に高いことを強みとしてはいるものの、一方で地方金融機関としての本分が疎かになっているのではないかという批判も同時に存在している。
それに対して紀南信金は、信用金庫であるがゆえに当たり前ではあるが、地域に根差したビジネスを愚直に続けてきた歴史があり、従業員数約700名、預金残高1兆円、貸出残高4,000億円と、全国の金融機関の基準からすると決して大きな組織体ではないが、自己資本比率15%を維持するその健全性は県外からも一定の評価を得ていた。
受付を済ませた黒船経営陣が秘書に連れられて、最上階で止まったエレベーターから順々に降りる。糸瀬、矢原、細矢の3人が同じ場所を訪問すること自体が極めて異例であり、去年PJ黒船を立ち上げてから初めてのことであった。
訪問先は紀南信金の理事長である谷本芳朗。信用金庫における理事長とは組織のトップ、銀行で言うところの頭取、企業で言うところの代表取締役社長に当たる人物だ。
「理事長の谷本です」
理事長室で黒船を出迎えた谷本は直立したまま丁寧に頭を下げた。慌てて三人もそれに倣って会釈の後、部屋の中央に鎮座する重厚なソファに腰を下ろした。一昔前にタイムスリップしたような内装と照明の雰囲気に信用金庫らしい伝統を感じる。
「糸瀬さんのことは覚えていますよ」
会話の始まりは意外な一言だった。糸瀬は頭を掻きながら正直に身に覚えがないと口にする。それはそうでしょうと谷本は返した。
「木国は小さな街ですから、そもそも大きな企業自体が少ないもので、2011年の田辺組民事再生の債権者説明会の場に、私もおりました。糸瀬さんは田辺組側の支援者の立場で壇上に上がってましたから」
「あ、そうだったんですか…。それは申し訳ないことをしちゃいましたね」
民事再生手続は、一般的に金融機関からの借金を棒引きすることが前提の計画になる。田辺組もその例には漏れず、民事再生によって田辺組が各金融機関から借りていた借金の内98%がカット。当時田辺組との取引があった紀南信金は、その貸付金のほとんどを踏み倒された形となっている。
そしてそれを弁護士とともに主導したのが当時銀行員であった糸瀬であり、既存金融機関からしていたしかたない判断であるとの納得感はある一方で、目の敵な存在なわけである。
「預金者からお金を預かっている身でこんなこと言うと怒られてしまいますが、あれは金融機関を全部泣かせたとしても、田辺組が木国からなくなってしまうよりはずっと良かったですよ。改めてありがとうございました」
「はは…既存行さんから感謝されたのは初めてかもしれないです」
「…今日お呼びだてしたのは、実は田辺さんに勧められたからなんです」
「田辺さん…田辺善次さんですか?」
「そうです。民再で少し疎遠にはなっていましたが、最近は時々お会いするんですよ。お互い歳をとりましたから、昔を懐かしんだりしてね」
田辺善次は現在の田辺組の社長であり、糸瀬が3月に訪問して、その場で多額のスポンサー料をもらったことは記憶に新しい。
「その、勧められたというのは?」
「ええ…こちらです」
テーブルの上に置かれた冊子に三人の視線が集まる。
それは白浜町の老舗ホテル、株式会社ホテル海楽荘の紹介資料だった。
「創業1950年の老舗のホテルです。白良浜から至近の立地が強みで、最盛期のバブル時代は白浜町でも有数のホテルとして栄えていたのですが、昨今周辺地域のリゾート化が進んでおり、新しくオープンしたホテルとの競争で苦戦しています」
和歌山県の白浜町は、南紀白浜の名称で親しまれる、美しい白砂のビーチと歴史ある温泉で有名な観光地である。温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、一年を通して多くの観光客が訪れる。
特に白良浜の白い砂浜と青い海は絶景であり、海水浴やマリンスポーツを楽しむこともできて、かつ白浜温泉は日本三古湯の一つに数えられ、歴史ある温泉地としても知られていた。
「海楽荘さんは、御庫の取引先ということですよね?」
「そうです。紀伊銀行がメインバンクですが、うちも信金としては多額の融資をしています。それに、会長の小山修造とは旧知の仲でして。紀伊銀行とのやりとりについても、弊庫で助言などをする関係性にあります」
「心のメインというやつですね」
メインバンクとはいわゆる企業の相談役のことで、大抵は取引金融機関の中で最も融資残高の多い銀行がその役割を担うことが多い。少額の取引金融機関はメインバンクの意向に合わせた取り組み姿勢を取ることがほとんどであるため、メインバンクは取引残高以上の影響力を持つのである。
ただし残高が大きいからといって必ずしも頼りになる相談役になれるかどうかは別の話であり、ホテル海楽荘の場合、融資残高はメインの紀伊銀行に劣っていても、紀南信金が実質メインバンクのように諸々の相談事に乗っているような関係であるようだった。
「その、我々は何をお手伝いしたらよろしいのでしょうか」
「実は、ホテルがタイの投資家に買収されようとしています」
「え、タイ?」
「ウォンキット・シュガーという企業をご存知ないですか?」
ウォンキット・シュガー社は、創業60年以上の歴史を誇るタイ、いやアジア最大の製糖企業であり、グループ連結の売上高は約1,000億バーツ、日本円にして4,000億円にも上る大企業だ。そして同社を中核子会社としたウォンキットグループは、タイでも五指に入る財閥企業でもある。
ウォンキットグループは事業の多角化を進めており、製糖の他にもバイオマスエネルギーや物流事業等、手広く展開している中のひとつが、ホテル事業であった。
「『ウォンキットホテル白浜』として、ホテル海楽荘をリブランドして、富裕層をターゲットに大々的に展開していきたいという意向があるようです」
最近は東南アジアの経済成長が著しく、現地の大企業が海外展開する候補のひとつとして日本が選ばれることも少なくない。ウォンキットホテルというブランドはすでに大阪にも存在していたような記憶があり、東南アジアからのアクセスに優れる関西地域をメインに事業を拡大していきたい意向があるのかもしれない。
「理事長。海楽荘は上場してないですよね? 買収しようがないと思うのですが」
上場会社であれば現経営陣の意向を無視して無理やり市場から株式を買い漁る、いわゆる敵対的買収という方法で会社を乗っ取ることは可能だが、上場していない限り、いくらその会社を手に入れようとしてもと、買う手段がないはずである。
「細矢さんの言う通りです。…つまり海楽荘の株主の中に、ウォンキットへ株式を売ろうとしている人間がいるということです」
谷本の言葉に細矢が驚いた。そこが一枚岩になっていない状況だとは思っていなかったからだ。となると当たり前だが、ウォンキットグループに譲渡する株式数によっては買収が成立してしまう可能性は十分にあった。
「会社の株主構成を教えてください」
「海楽荘は一族経営で、株式の50%は会長である小山修造が持っていますが、残りの50%は親族が持っています。特に息子の小山修治社長が35%持っており、彼がウォンキットに…」
「…なるほど。それはちょっと厄介ですね」
35%という株式比率はそれ単体で買収が成立することはないが、それなりに重い。全体株式の1/3以上を保有された場合、会社経営上の重要決定をその株主が拒否できるからである。その株主が自分から進んで何か提案することはできないが、相手の提案も拒否できるため、1/3以上の株主が敵対してしまうと、会社は身動きが取れなくなってしまうのである。
「…理事長はタイの投資家に買収されることに反対なんですか?」
糸瀬の質問に谷本はソファの背もたれに身体を預けた。
「信用金庫としては、賛成も反対もありません。市場の原理は理解していますから。ただ私個人としては、最大株主である会長の修造さんが難色を示している以上は、それが組織の意向だと判断して、いまできることを探しています」
「まわりくどい言い方はやめましょう。貴方が全て決められるとしたら、反対しますか?」
「……わかりません」
先程谷本が口にしていた田辺組のくだりを思い出して、糸瀬は息を吐いた。
自分の損得だけで判断する人間ではない。会長の言葉だけ聞いていれば反対するに決まっているだろうが、一方の意見だけに耳を傾けて結論付けることを避けているのだと思った。
とはいえ会長の頼みを無碍にすることもできず、黒船の面々に相談することにしたという経緯はなんとなく察することができた。
「我々はウォンキットの買収に対抗する白騎士として呼ばれているわけですか」
ホワイトナイトとは、投資家の敵対的買収への対抗策として、別の投資家に買収を買って出てもらうことである。今回の場合、ウォンキットグループの買収を阻止するために、黒船がホワイトナイトとして海楽荘を買収するということを意味した。
谷本は糸瀬の言葉に頷く。
「もし皆さんがそれが最善だと思われるなら、そうなって頂きたい」
「分かりました。…ーーーよし、やるか」
糸瀬の言葉に矢原と細矢が頷いた。
糸瀬が決めて、矢原が絵を描き、細矢が実行する。TAパートナーズ時代の雰囲気が戻ってきたような感覚が広がった。
「株主の中で対立している以上表立って動くことは難しいですよね。誰が会長側なのか教えてください」
「どちらかといえば社長である修治さんの意見に周りがみんな驚いているくらいらしく。基本的には経営陣に近い社員はみな会長側です。ですので、表立って行動してもらっても大丈夫ですよ」
「分かりました。私の名刺を会長に渡してください。先に情報を頂いて分析を進めてから、この話受けるかどうか考えます」
結果として3人が同時に面談に臨んだことで意思決定はその場で下された。
紀南信金の本社ビルを後にした黒船3人が車に乗り込んで、黒船本社への道を戻っていく。
ペーパードライバーの細矢が助手席に座り、矢原がハンドルを握った。糸瀬は後ろでタバコを吸っている。
「細矢。PJ名決めろ」
「PJ Sugar」
ウォンキットグループは砂糖の生産会社であり、かつホテル海楽荘は英語でSeaから始まるためイニシャルの合致具合も備えているナイスなネーミングだと自賛しそうになったところ、矢原に頭を引っ叩かれた。
「おまえあほか、敵側の名前使ってどうすんだよ。会長にSugarですなんて言ってみろ。いきなりスパイだと思われるわ」
「はは…そりゃそうっすね。えーと…海楽荘だから…シー、あ、シーソーでどうですか? PJ Seesaw」
「…おお、いいじゃん。どっちに転ぶかわかんねーしな」
「いやあなんか懐かしいっすね」
昔はこうして戯れあいながら、ぬるりと案件に取り掛かったものだ。
たまには本業に戻るのも悪くないと、黒船の膨大な仕事を忘れて細矢は久しぶりのモチベーションを楽しんでいた。
矢原はこのPJを通じてどうやって儲けに行こうかを考えながらハンドルを切っている。
糸瀬はこのPJの結末を想像しながら車窓を眺めて煙を吐いていた。
つづく。




